2012年01月03日
あけましておめでとうございます。
しばらくぶりです。年末は思いのほか忙しく中々ブログを書く時間が取れませんでした
又、古くからの友人が突然亡くなり、休日には焼香に出かけたりしていました。
以前住んでいた泊の借家の近くに住んでいた友人は、時々我が家にも泊っていったりしていた
友でいつも我が家の猫と寝ていました。先日49日の法要を済ませ永久の別れを惜しみました。
さて昨年は本当に世の中は色々あり激動の一念でしたが、改めて「無事」と云う事の
大切さを思います。何時ものように何事もなくという事がいかに大切かを
思い知らされたような気がします。
今年はその干支のように世の中が昇り竜のように何事も上昇しますように祈念いたします。
海の上であるいは地上から水平線上にごく稀に観測できる夕陽の現象に
「グリーンフラッシュ」という夕焼けを観ることができます。
太陽が沈む、又は昇る一瞬エメラルド色に輝く現象です。この様な夕焼けを観ることが出来るのは
一定の海象条件が整ったときにしか観られないこの夕焼けは、瞬きほどの一瞬にして
消えてしまい、観た者にとってはそれこそ希望の一瞬であり、ラッキーな瞬間です。
私は、過去に2回このグリーンフラッシュを観ることができました。
2回目は友人と東京から沖縄までヨットを廻航している時、与論島から辺戸岬を
目指している洋上での夕方でした。
搭乗している友人二人も何となく観れるかもしれないと、夕陽の沈む様子を眺めていました。
その瞬間、互いに目を合わせ「観たか?」「見えた」とその感激の一声を交わした
覚えがあります。今年こそはこの様な夕日や朝日が希望につながりますように・・・・

又、古くからの友人が突然亡くなり、休日には焼香に出かけたりしていました。
以前住んでいた泊の借家の近くに住んでいた友人は、時々我が家にも泊っていったりしていた
友でいつも我が家の猫と寝ていました。先日49日の法要を済ませ永久の別れを惜しみました。
さて昨年は本当に世の中は色々あり激動の一念でしたが、改めて「無事」と云う事の
大切さを思います。何時ものように何事もなくという事がいかに大切かを
思い知らされたような気がします。
今年はその干支のように世の中が昇り竜のように何事も上昇しますように祈念いたします。
海の上であるいは地上から水平線上にごく稀に観測できる夕陽の現象に
「グリーンフラッシュ」という夕焼けを観ることができます。
太陽が沈む、又は昇る一瞬エメラルド色に輝く現象です。この様な夕焼けを観ることが出来るのは
一定の海象条件が整ったときにしか観られないこの夕焼けは、瞬きほどの一瞬にして
消えてしまい、観た者にとってはそれこそ希望の一瞬であり、ラッキーな瞬間です。
私は、過去に2回このグリーンフラッシュを観ることができました。
2回目は友人と東京から沖縄までヨットを廻航している時、与論島から辺戸岬を
目指している洋上での夕方でした。
搭乗している友人二人も何となく観れるかもしれないと、夕陽の沈む様子を眺めていました。
その瞬間、互いに目を合わせ「観たか?」「見えた」とその感激の一声を交わした
覚えがあります。今年こそはこの様な夕日や朝日が希望につながりますように・・・・

2011年11月27日
父の残した写真集より・昔の那覇の町の風景その2
これまでも何回か戦前の那覇の様子の写真を掲載しましたが、再び面白いので
掲載します。最初に今とほとんど同じところにあったと思われる
泊高橋に架かっていた鉄橋です。軽便鉄道が見えます。背景は泊の高台付近
おもろ町の近くと思われます。注目すべきは、写真左端の文字です
「泊高はし」の橋の字が石と工の橋になっている事です。
木の橋ではなく石の橋を物語っています。字が小さくて見にくいようですが

那覇の町にあったレストランです。英語表示と日本語表示が一昔前のコザや波の上の佇まいを
思い出させます。看板の「和洋酒類」がチョット面白い

当店「ままや」の隣にある{大典寺」です。現在もほぼ同じところにあると聞いていますので、
この写真は、お寺の北東方向から南西方向に向かって撮られたものと思います。
遠くに見える丘のようなところは小禄、垣花方面ではないでしょうか、海のような所は
現在の那覇港から奥武山付近で、まだ埋め立てが行われていない潟と思います。
今の地名の「松山」がよくわかります。以前はこの辺は松下町と呼ばれていました。

私が子供の頃にもこの様なサトウキビを絞る工場があった時期があります。
今は観光名所の思い出のような景色です。牛がグルグルとまわって真中にある
搾什機にサトウキビを入れてその汁が隣の工場の釜で黒糖になるのです。

次はあの那覇の遊郭「辻」の様子です。昭和の10年代の写真。
二階の窓辺に「ジュリ」達が通りを見ている姿が伺えます。
奥の建物は三階建で当時の木造建築物としては大変立派な建物だったと思います。

この写真は、首里の坂をおそらく役人達の使節が首里城に向かっているところと思われます。
この頃は首里城は今の観光用建物のような状態であったので、その見物に行くところでしょう。
場所は推定ですが、観音堂を下って今の都ホテル付近から遠く松川方面を望んでいる
と思われます。主要な道は今も昔もそう大きく変わっていないのが現実ですから・・・

この写真はそのころの那覇の繁華街の写真です。天妃町と表示されています。
凡そ今の西消防署の裏付近と思われます。写真左の大きな建物が当時の百貨店「丸山號」
私の父も一時ここで働いていたことがあると聞いています。
表の通りは舗装されているのでしょうか散水された後のような影が映っています。

これからも折につけ写真を公開していきます。
「ままや」は最近知らずのうちにタレントさんが来店しているみたいです。
私たちはあまりテレビや映画を見ないので気がつきませんでした。
掲載します。最初に今とほとんど同じところにあったと思われる
泊高橋に架かっていた鉄橋です。軽便鉄道が見えます。背景は泊の高台付近
おもろ町の近くと思われます。注目すべきは、写真左端の文字です
「泊高はし」の橋の字が石と工の橋になっている事です。
木の橋ではなく石の橋を物語っています。字が小さくて見にくいようですが
那覇の町にあったレストランです。英語表示と日本語表示が一昔前のコザや波の上の佇まいを
思い出させます。看板の「和洋酒類」がチョット面白い

当店「ままや」の隣にある{大典寺」です。現在もほぼ同じところにあると聞いていますので、
この写真は、お寺の北東方向から南西方向に向かって撮られたものと思います。
遠くに見える丘のようなところは小禄、垣花方面ではないでしょうか、海のような所は
現在の那覇港から奥武山付近で、まだ埋め立てが行われていない潟と思います。
今の地名の「松山」がよくわかります。以前はこの辺は松下町と呼ばれていました。

私が子供の頃にもこの様なサトウキビを絞る工場があった時期があります。
今は観光名所の思い出のような景色です。牛がグルグルとまわって真中にある
搾什機にサトウキビを入れてその汁が隣の工場の釜で黒糖になるのです。

次はあの那覇の遊郭「辻」の様子です。昭和の10年代の写真。
二階の窓辺に「ジュリ」達が通りを見ている姿が伺えます。
奥の建物は三階建で当時の木造建築物としては大変立派な建物だったと思います。

この写真は、首里の坂をおそらく役人達の使節が首里城に向かっているところと思われます。
この頃は首里城は今の観光用建物のような状態であったので、その見物に行くところでしょう。
場所は推定ですが、観音堂を下って今の都ホテル付近から遠く松川方面を望んでいる
と思われます。主要な道は今も昔もそう大きく変わっていないのが現実ですから・・・
この写真はそのころの那覇の繁華街の写真です。天妃町と表示されています。
凡そ今の西消防署の裏付近と思われます。写真左の大きな建物が当時の百貨店「丸山號」
私の父も一時ここで働いていたことがあると聞いています。
表の通りは舗装されているのでしょうか散水された後のような影が映っています。

これからも折につけ写真を公開していきます。
「ままや」は最近知らずのうちにタレントさんが来店しているみたいです。
私たちはあまりテレビや映画を見ないので気がつきませんでした。
2011年11月21日
ようやくパソコンが直りました
しばらく書いていませんが、ハードデスクが動かなくなり
新しい最新型に変えましたが。使い勝手が少し変わり
手間取っています。しばらくご勘弁を!
今日明日とよく知られている俳優に方が来店予定です。
明日はほぼ貸切です。
新しい最新型に変えましたが。使い勝手が少し変わり
手間取っています。しばらくご勘弁を!
今日明日とよく知られている俳優に方が来店予定です。
明日はほぼ貸切です。
2011年10月12日
父の残した昔の沖縄の写真集より
先日、残された父の遺品の中に分厚い大きなハードカバーの写真集が見つかりました。
「写真集・沖縄」那覇出版社編です。
当時の印刷技術の為かその写真はオリジナルの写真を別のカメラで撮影した様なので、
今風の写真グラビアの様に鮮明ではないが、充分当時の雰囲気を見ることが出来きます。
以前、父の写した那覇の泉崎橋の写真が、戦前の那覇の橋の写真展
に紹介された写真とすごく類似している事を書きましたが、
再びこの写真集でもほぼ同じアングルの写真がある事から、
この泉崎橋を撮影するポイントとしては最適の場所であった為に
類似した写真となったのかもしれないと思っています。
近いうちにその3点の写真を見比べられるようにしますが、
先ずは戦前の首里城の写真です

昭和19年頃となっています。よく見るとチョット意外なものが写っています。
龍柱の前に石燈籠?首里城は仏閣なのか?それとも神殿なのか?
経緯は不明ですが、意外な写真と感じます。
首里城の全体の配置図はこの様になっていたようです。

中央に「御庭」その右側に「正殿」そして北殿、向かい側に南殿があります。
現在見る事が出来るのは、配置図の左上の歓会門から入り久慶門を通り
北殿の左側から御庭に入っていると思います。
正殿の後ろ配置図正殿の右側が「世添殿」となっていてテレビドラマ「テンペスト」の
舞台と成った所と思われます。その周りには女官居室・世誇殿・寄溝などの建物を
見る事が出来ます。現在このあたりの復元工事をしているように聞いています。
この写真の撮影される前に正殿は補修がされています。その様子がわかる写真がこれです。

昭和2年頃の撮影となっています。
他にも多数の写真が有りますが今日はこの辺で・・・・・
次回は当時の那覇の街の様子がわかる写真を「写真集・沖縄」から紹介いたします。
お楽しみに。
そうそう!昨日世界の沖縄県人系大会の参加しているブラジルからのお客様が
引率者の方と総勢12名様の来店が有り、何かしら店内が普段と違う言葉が交差し
周りのお客様もこの大会が広く町中に浸透していることを感じたようです。
「写真集・沖縄」那覇出版社編です。
当時の印刷技術の為かその写真はオリジナルの写真を別のカメラで撮影した様なので、
今風の写真グラビアの様に鮮明ではないが、充分当時の雰囲気を見ることが出来きます。
以前、父の写した那覇の泉崎橋の写真が、戦前の那覇の橋の写真展
に紹介された写真とすごく類似している事を書きましたが、
再びこの写真集でもほぼ同じアングルの写真がある事から、
この泉崎橋を撮影するポイントとしては最適の場所であった為に
類似した写真となったのかもしれないと思っています。
近いうちにその3点の写真を見比べられるようにしますが、
先ずは戦前の首里城の写真です

昭和19年頃となっています。よく見るとチョット意外なものが写っています。
龍柱の前に石燈籠?首里城は仏閣なのか?それとも神殿なのか?
経緯は不明ですが、意外な写真と感じます。
首里城の全体の配置図はこの様になっていたようです。

中央に「御庭」その右側に「正殿」そして北殿、向かい側に南殿があります。
現在見る事が出来るのは、配置図の左上の歓会門から入り久慶門を通り
北殿の左側から御庭に入っていると思います。
正殿の後ろ配置図正殿の右側が「世添殿」となっていてテレビドラマ「テンペスト」の
舞台と成った所と思われます。その周りには女官居室・世誇殿・寄溝などの建物を
見る事が出来ます。現在このあたりの復元工事をしているように聞いています。
この写真の撮影される前に正殿は補修がされています。その様子がわかる写真がこれです。

昭和2年頃の撮影となっています。
他にも多数の写真が有りますが今日はこの辺で・・・・・
次回は当時の那覇の街の様子がわかる写真を「写真集・沖縄」から紹介いたします。
お楽しみに。
そうそう!昨日世界の沖縄県人系大会の参加しているブラジルからのお客様が
引率者の方と総勢12名様の来店が有り、何かしら店内が普段と違う言葉が交差し
周りのお客様もこの大会が広く町中に浸透していることを感じたようです。
2011年10月04日
琉球泡盛は100%県産品か?
泡盛は個人的には県産品として美味しく。楽しく飲ませていただいているが、
時として疑問に思うことがある。
その壱・タイ米を輸入して原料としている事。
その弐・使う黒麹菌は大半が他府県で造られている事。
その参・昔からタイ米だったのか?島米を使っていなかったのか?
その四・昔の黒麹菌もよそから買っていたのか?この土地に有ったのではないか?
この事は以前から常に頭の片隅で何とかならないかと思っていたところ、
友人から「三重大学」と命名された日本酒を土産にもらった。
其処にはその大学が地元に伝わる伝統的な酒米を再生させ、地酒として
復活した事が記されている。

このラベルの左端にこの様に書かれています

沖縄にも琉球大学・農学部が有ります。酒造組合は農学部に泡盛に適した
いわゆる「酒米」の研究をしてもらい、その普及をし、昔ながらの田んぼを復活し
真の県産泡盛米を使ってこそ100%県産泡盛の第一歩に成ると思います。
更に、少しずつではありますが、県内での黒麹菌の生産が始まっていますが
元々古くはこの沖縄の自然界にあった「菌」です。
改めて国頭等の自然界から様々な黒麹菌の採取と培養・研究も琉大農学部の
使命だと思います。
日本酒は1951年以後酒造好適米として全国各地で研究開発され、それこそ地酒として
使われています。有名な「山田錦」「雄町」「美山錦」等々数えたらきりが有りません。
琉球からその製法が伝わったいわゆる「焼酎」もその原料について常に新しいものが
研究交配されて新種が出てきます。芋焼酎に使われる「小金千貫」「むらさきまさり」
「ジョイホワイト」等々十数種類にもなります。
何故沖縄の泡盛だけが未だに「タイ米」なのでしょうか?
何故「タイ米」で無ければ成らないのでしょうか?
戦前東京大学の研究者が沖縄の泡盛に使われている「黒麹菌」を多くの造り酒屋から
採取し調べていましたが、戦争で途絶え、その時の麹菌が数年前に発見され、
咲元酒造と瑞泉酒造からの菌が確認されましたが、培養に成功した瑞泉菌を
使った泡盛「御酒」が商品化されたことは記憶に新しい事です。

石垣の請福酒造では、東北の米「ひとめぼれ」を石垣で育てた米を使った
「やいま」という泡盛を造っています。

地産池消が叫ばれて久しいのですが、沖縄県民が誇りとする「琉球泡盛」
であるならば、尚の事、原材料から麹菌に至るまで県産品で造る事は
出来ないのでしょうか?
昔は、地域の湧水等を利用することや麹菌を使う事で多様な味と風味が
生まれていたと思います。今や水は上水道を使い、浄水器や軟水器を通して
使っている酒造所もあります。現在衛生上の法律等がある事は十分承知ですが、
少なくとも「米」「黒麹菌」の多様性は追及すべきではないでしょうか。
酒米研究が進み泡盛造好適米の名称を思い描くとしたら、
「寧温1号」か「真鶴2号」か
「テンペスト」が良いかもしれませんね!
時として疑問に思うことがある。
その壱・タイ米を輸入して原料としている事。
その弐・使う黒麹菌は大半が他府県で造られている事。
その参・昔からタイ米だったのか?島米を使っていなかったのか?
その四・昔の黒麹菌もよそから買っていたのか?この土地に有ったのではないか?
この事は以前から常に頭の片隅で何とかならないかと思っていたところ、
友人から「三重大学」と命名された日本酒を土産にもらった。
其処にはその大学が地元に伝わる伝統的な酒米を再生させ、地酒として
復活した事が記されている。

このラベルの左端にこの様に書かれています

沖縄にも琉球大学・農学部が有ります。酒造組合は農学部に泡盛に適した
いわゆる「酒米」の研究をしてもらい、その普及をし、昔ながらの田んぼを復活し
真の県産泡盛米を使ってこそ100%県産泡盛の第一歩に成ると思います。
更に、少しずつではありますが、県内での黒麹菌の生産が始まっていますが
元々古くはこの沖縄の自然界にあった「菌」です。
改めて国頭等の自然界から様々な黒麹菌の採取と培養・研究も琉大農学部の
使命だと思います。
日本酒は1951年以後酒造好適米として全国各地で研究開発され、それこそ地酒として
使われています。有名な「山田錦」「雄町」「美山錦」等々数えたらきりが有りません。
琉球からその製法が伝わったいわゆる「焼酎」もその原料について常に新しいものが
研究交配されて新種が出てきます。芋焼酎に使われる「小金千貫」「むらさきまさり」
「ジョイホワイト」等々十数種類にもなります。
何故沖縄の泡盛だけが未だに「タイ米」なのでしょうか?
何故「タイ米」で無ければ成らないのでしょうか?
戦前東京大学の研究者が沖縄の泡盛に使われている「黒麹菌」を多くの造り酒屋から
採取し調べていましたが、戦争で途絶え、その時の麹菌が数年前に発見され、
咲元酒造と瑞泉酒造からの菌が確認されましたが、培養に成功した瑞泉菌を
使った泡盛「御酒」が商品化されたことは記憶に新しい事です。

石垣の請福酒造では、東北の米「ひとめぼれ」を石垣で育てた米を使った
「やいま」という泡盛を造っています。

地産池消が叫ばれて久しいのですが、沖縄県民が誇りとする「琉球泡盛」
であるならば、尚の事、原材料から麹菌に至るまで県産品で造る事は
出来ないのでしょうか?
昔は、地域の湧水等を利用することや麹菌を使う事で多様な味と風味が
生まれていたと思います。今や水は上水道を使い、浄水器や軟水器を通して
使っている酒造所もあります。現在衛生上の法律等がある事は十分承知ですが、
少なくとも「米」「黒麹菌」の多様性は追及すべきではないでしょうか。
酒米研究が進み泡盛造好適米の名称を思い描くとしたら、
「寧温1号」か「真鶴2号」か
「テンペスト」が良いかもしれませんね!
2011年09月20日
移転今日で2周年!
久茂地からここ松山に移転して早2年
あれよあれよという間です。久茂地からの馴染みのお客様も多数いらっしゃいますが、
国道を越えて松山に渡るのが遠いおっしゃる方もいますが、
機会を見つけてご来店いただいています。

ここ松山に越してきた大きく変化したお客様の様子はビジネス街である事でしょうか
近隣の商社や会社の関係のお客様が増えたような気がします。
また、今までの県内外の口コミのお客様が定期的にご来店いただき
大変感謝しています。
開業以来16年目に入っていますが一部のメニュー価格は開店以来同じものもあり、
昨今の物価上昇が続くと同じ価格の維持が難しくなっている食材もあります。
最近取り入れたメニューに「白味噌仕立てのラフテー」がありますが
好評を頂いています。
時々「アグー豚のカツ」を出すことが有りますが、その都度完売となります。
丁度モーウイが出回っていますので、これを薄く切ってシークヮーサーを
絞って合えた箸休めも好評です。

何時も季節感のある食材を選び、その季節が感じられる設えや、掛け軸、テーブルセット等
に気を配っているつもりですが、この頃の気候は中々24節気の様には行かないのが
厄介ですね。
あれよあれよという間です。久茂地からの馴染みのお客様も多数いらっしゃいますが、
国道を越えて松山に渡るのが遠いおっしゃる方もいますが、
機会を見つけてご来店いただいています。

ここ松山に越してきた大きく変化したお客様の様子はビジネス街である事でしょうか
近隣の商社や会社の関係のお客様が増えたような気がします。
また、今までの県内外の口コミのお客様が定期的にご来店いただき
大変感謝しています。

開業以来16年目に入っていますが一部のメニュー価格は開店以来同じものもあり、
昨今の物価上昇が続くと同じ価格の維持が難しくなっている食材もあります。
最近取り入れたメニューに「白味噌仕立てのラフテー」がありますが
好評を頂いています。
時々「アグー豚のカツ」を出すことが有りますが、その都度完売となります。
丁度モーウイが出回っていますので、これを薄く切ってシークヮーサーを
絞って合えた箸休めも好評です。

何時も季節感のある食材を選び、その季節が感じられる設えや、掛け軸、テーブルセット等
に気を配っているつもりですが、この頃の気候は中々24節気の様には行かないのが
厄介ですね。
2011年09月15日
ドラマ「テンペスト」への巷の反応への反応
私も見ているドラマ「テンペスト」に対する反応や意見が新聞紙上に様々あり
何れも尤もと思います。そこで敢えて私も加わる事に致します。

「沖縄の歴史をよく知らないテレビ局があのよう本来の歴史上に人物を
利用して面白おかしく作り上げたのは即刻放映をやめていただきたい」
と云うような趣旨の投書が有りました。別に「面白いので楽しみにしています」
等のもありましたが、私は内地の一般的歴史ドラマと沖縄(琉球)の歴史ドラマは
同じ次元で論ずるのは如何なものかと常々感じています。
それは、日本史が教育されてきた中でほぼ同一の歴史観がある中で製作される
例えば徳川時代を描いた映画やテレビドラマは知らずの内に一定の時代考証や
時系列的な歴史の流れそれにまつわる歴史上の人物の背景や互いの関連性などを
一定程度常識としてそれらを鑑賞していますが、
こと琉球や沖縄の歴史や人物については、その知識に乏しく、
単なる娯楽番組が一般視聴者に与える影響は大きいものがあると思います。
ややもすると「珍百景」的な、「ヘー・ヘー・へー」的な知識に成りえるからです。
しばらく前に放映されたテレビドラマで「おばー」と呼ぶ言葉が広まりましたが、
テレビ等で有名タレントが沖縄ロケ等で使っている時など、
その言葉が持つ本来の使われ方とはチョット違うんじゃないの、
と感じる事が良くあります。
また全国に通用するようになった事で「ちゅらさん」と云う言葉も何かしら
私にはもっと相応しい使われ方があると感じます。
あらゆるものに「ちゅらさん」や「ちゅら・・・」はいかがなものでしょう。
一説には「清ら」が「美ら」にとって代わってしまった。と云う方もいます。
当店にいらっしゃったあるお客様は、かなり沖縄の事全般に詳しく
この様におっしゃいました。
「日本に文化のあるところは沖縄と京都とアイヌだけです。
他の県や地方は伝統だけです」
テレビドラマや映画などを制作する側は、それが持つ外部に対する様々な影響を
考慮することが必要ですし、まして、たとえフィクションやドラマといえども
歴史にかかわる時にはそれなりの配慮が必要ではないのでしょうか。
小説を読むのと映像化されるのでは大きくその影響が異なる事と思います。
この原作と云われているシェイクスピアの「テンペスト」の一節にこの様な名文句が
有るようです、また多くの場面で引用されているようです。
「我々は夢と同じ物で作られており、
我々のはかない命は眠りと共に終わる」

まー!!楽しみましょう
何れも尤もと思います。そこで敢えて私も加わる事に致します。

「沖縄の歴史をよく知らないテレビ局があのよう本来の歴史上に人物を
利用して面白おかしく作り上げたのは即刻放映をやめていただきたい」
と云うような趣旨の投書が有りました。別に「面白いので楽しみにしています」
等のもありましたが、私は内地の一般的歴史ドラマと沖縄(琉球)の歴史ドラマは
同じ次元で論ずるのは如何なものかと常々感じています。
それは、日本史が教育されてきた中でほぼ同一の歴史観がある中で製作される
例えば徳川時代を描いた映画やテレビドラマは知らずの内に一定の時代考証や
時系列的な歴史の流れそれにまつわる歴史上の人物の背景や互いの関連性などを
一定程度常識としてそれらを鑑賞していますが、
こと琉球や沖縄の歴史や人物については、その知識に乏しく、
単なる娯楽番組が一般視聴者に与える影響は大きいものがあると思います。
ややもすると「珍百景」的な、「ヘー・ヘー・へー」的な知識に成りえるからです。
しばらく前に放映されたテレビドラマで「おばー」と呼ぶ言葉が広まりましたが、
テレビ等で有名タレントが沖縄ロケ等で使っている時など、
その言葉が持つ本来の使われ方とはチョット違うんじゃないの、
と感じる事が良くあります。
また全国に通用するようになった事で「ちゅらさん」と云う言葉も何かしら
私にはもっと相応しい使われ方があると感じます。
あらゆるものに「ちゅらさん」や「ちゅら・・・」はいかがなものでしょう。
一説には「清ら」が「美ら」にとって代わってしまった。と云う方もいます。
当店にいらっしゃったあるお客様は、かなり沖縄の事全般に詳しく
この様におっしゃいました。
「日本に文化のあるところは沖縄と京都とアイヌだけです。
他の県や地方は伝統だけです」
テレビドラマや映画などを制作する側は、それが持つ外部に対する様々な影響を
考慮することが必要ですし、まして、たとえフィクションやドラマといえども
歴史にかかわる時にはそれなりの配慮が必要ではないのでしょうか。
小説を読むのと映像化されるのでは大きくその影響が異なる事と思います。
この原作と云われているシェイクスピアの「テンペスト」の一節にこの様な名文句が
有るようです、また多くの場面で引用されているようです。
「我々は夢と同じ物で作られており、
我々のはかない命は眠りと共に終わる」

まー!!楽しみましょう
2011年09月09日
烏賊のすり身のチキアギ
当店のメニューに時々出現する「烏賊のチキアギ」一般的には魚のすり身が使われますが、
石垣に住む親戚から取り寄せた烏賊のすり身を使った「チキアギ」が登場することが有ります。
いわゆる、さつま揚げのことですが、これには魚のすり身と牛蒡が使われます。
又、「さつま揚げ」は琉球から伝わったという説があり、
沖縄のチキアギーが薩摩にわたって「ツケアゲ」になり、薩摩から地方に伝わり、
「さつま揚げ」と呼ばれるようになったと聞いています。
当店は先にも書きましたが烏賊のすり身と人参と秘密の食材が使われています。
自然の烏賊本来の甘みが有り、モッチリとした食感が良く、
一度食べると多くの方に気に入ってもらっています。

残念ですがお皿に乗ったチキアギの写真が有りません。
また、常時提供できるメニューでもないのですが
来店の折には「本日のお品書き」の中を探してみてください。
石垣に住む親戚から取り寄せた烏賊のすり身を使った「チキアギ」が登場することが有ります。
いわゆる、さつま揚げのことですが、これには魚のすり身と牛蒡が使われます。
又、「さつま揚げ」は琉球から伝わったという説があり、
沖縄のチキアギーが薩摩にわたって「ツケアゲ」になり、薩摩から地方に伝わり、
「さつま揚げ」と呼ばれるようになったと聞いています。
当店は先にも書きましたが烏賊のすり身と人参と秘密の食材が使われています。
自然の烏賊本来の甘みが有り、モッチリとした食感が良く、
一度食べると多くの方に気に入ってもらっています。

残念ですがお皿に乗ったチキアギの写真が有りません。
また、常時提供できるメニューでもないのですが
来店の折には「本日のお品書き」の中を探してみてください。
2011年09月08日
沖縄の食材のウンチク
ゴーヤー
いまや全国的に「ゴーヤー」の名称で通じるようになった通称「にがうり」の学術的な和名は「ツルレイシ・蔓れい枝」と言います。熱帯アジアが原産で沖縄の夏にはならない食材です。ビタミンC、カロチンなどが豊富であの苦味がないとゴーヤーとはいえないでしょう。「アバシーゴーヤー」「ナがゴーヤー」と呼ばれている種類があります。
乳幼児の「あせも」等には葉を煎じその液を風呂に入れて湯浴みをさせていたようです。
宮古ではゴーラー・奄美ではニギャウイ・与論ではゴーウイと呼ばれているようです。
(西大八重子・沖縄野菜の本)ヨリ
いまや全国的に「ゴーヤー」の名称で通じるようになった通称「にがうり」の学術的な和名は「ツルレイシ・蔓れい枝」と言います。熱帯アジアが原産で沖縄の夏にはならない食材です。ビタミンC、カロチンなどが豊富であの苦味がないとゴーヤーとはいえないでしょう。「アバシーゴーヤー」「ナがゴーヤー」と呼ばれている種類があります。
乳幼児の「あせも」等には葉を煎じその液を風呂に入れて湯浴みをさせていたようです。
宮古ではゴーラー・奄美ではニギャウイ・与論ではゴーウイと呼ばれているようです。
(西大八重子・沖縄野菜の本)ヨリ
2011年08月29日
尚男爵の随筆に見る古酒の話
「鷺泉」の雅号で書かれた「古酒の話」は多くの古酒の話の語り草ですが
初めて、その随筆本文を読ませていただきました。伝え聞くように実に
面白く興味をそそられます。この写真は当店のささやかな甕です

曰く「元来泡盛の古酒が西洋辺りの葡萄酒の様に、只穴倉に入れて置いて
済むものではない。古酒を作るには最初から此れに注ぎ足す用意として
少なくとも二、三番ないし四、五番までの酒を作って置きながら、
数百年の間、蒸発作用に依る減量酒精分の放散等に対し、常に細心の
注意を以て本来の風味を損ぜしめない様に蓄えて置く苦心を認識したら
誰しも此れに宝物の名称冠するに於いて異存は無いものであろう。」
「若し今日厳格に県下にある真銘の古酒成るものを検討したら
其の所有量は一石の上には出ないだろうと思われる程に、誠に
少なく得難い品物となっている」
以下要約すると、薩摩藩役人の接待時や家族の25年忌以後33年忌までの
法事の時。元服、婚礼、73の生年祝、米寿の祝い等に、古酒の用意が出来ないと
大家名門と呼ばれている家柄であっても面子にかかわる問題であったので
如何なる対価を払っても買い入れなければならなかったとの事や、
金庫のカギは家来に預けても古酒蔵のカギは当主自ら所持していた事
また、宴席などで主人が古酒をもてなすときは5勺か一合位の小さな酒器
に入れて親指大の小さな盃に一杯だけ酌し、お代わりを要求することは
失礼にあたったようです。

更に、この様な事も掛かれています。
都合によってどうしても古酒を購入する時のその頃の値段ですが
驚くなかれ、この様に書かれたいます。
「百年位のもの一合が一円、二百年位のが二円、三百年は三円と云う評判であった」
昭和の初めごろの記述ですから現在の価値で一円が2千円以上ではないでしょうか、
それにしても僅か80年ぐらい前には百年・二百年・三百年の古酒が存在し、
買う事が出来た事に驚嘆します。
この頃には一定の範囲で庶民にも「泡盛」が飲まれていましたのですが、
ここに記されているような古酒はよほどの経済力のある階層の方しか
飲めなかったのではないでしょうか。
今日、伝え聞く処によりますと、本部のある方のコレクションに百年ほどの
古酒があるようです。亡くなられた皇族の方が時々来沖した折に
ホンのチョットここに書かれているように嗜まれたとの事です。
初めて、その随筆本文を読ませていただきました。伝え聞くように実に
面白く興味をそそられます。この写真は当店のささやかな甕です

曰く「元来泡盛の古酒が西洋辺りの葡萄酒の様に、只穴倉に入れて置いて
済むものではない。古酒を作るには最初から此れに注ぎ足す用意として
少なくとも二、三番ないし四、五番までの酒を作って置きながら、
数百年の間、蒸発作用に依る減量酒精分の放散等に対し、常に細心の
注意を以て本来の風味を損ぜしめない様に蓄えて置く苦心を認識したら
誰しも此れに宝物の名称冠するに於いて異存は無いものであろう。」
「若し今日厳格に県下にある真銘の古酒成るものを検討したら
其の所有量は一石の上には出ないだろうと思われる程に、誠に
少なく得難い品物となっている」
以下要約すると、薩摩藩役人の接待時や家族の25年忌以後33年忌までの
法事の時。元服、婚礼、73の生年祝、米寿の祝い等に、古酒の用意が出来ないと
大家名門と呼ばれている家柄であっても面子にかかわる問題であったので
如何なる対価を払っても買い入れなければならなかったとの事や、
金庫のカギは家来に預けても古酒蔵のカギは当主自ら所持していた事
また、宴席などで主人が古酒をもてなすときは5勺か一合位の小さな酒器
に入れて親指大の小さな盃に一杯だけ酌し、お代わりを要求することは
失礼にあたったようです。

更に、この様な事も掛かれています。
都合によってどうしても古酒を購入する時のその頃の値段ですが
驚くなかれ、この様に書かれたいます。
「百年位のもの一合が一円、二百年位のが二円、三百年は三円と云う評判であった」
昭和の初めごろの記述ですから現在の価値で一円が2千円以上ではないでしょうか、
それにしても僅か80年ぐらい前には百年・二百年・三百年の古酒が存在し、
買う事が出来た事に驚嘆します。
この頃には一定の範囲で庶民にも「泡盛」が飲まれていましたのですが、
ここに記されているような古酒はよほどの経済力のある階層の方しか
飲めなかったのではないでしょうか。
今日、伝え聞く処によりますと、本部のある方のコレクションに百年ほどの
古酒があるようです。亡くなられた皇族の方が時々来沖した折に
ホンのチョットここに書かれているように嗜まれたとの事です。




