ニューヨークジャズフェスティバルの思い出
1971年7月末「ニューポートジャズフェスティバルINニューヨーク」を聞きに行く為に、テリー重田と伴に那覇空港を発った。当時日本のジャズミュージシャンの為のジャズレーベルに「スリーブラインドマウス」という新しいレコード会社が出来たての頃であった。「スイングジャーナル」の企画で全国から羽田に集合したジャズ狂は40人ほどだった記憶である。私とテリー重田は当時ニューヨークで暮らしていた宮平氏を頼れることに一抹の不安の中に一つの安心感があった。
それまでこのフェスティバルはNYから東北東250キロにあるロードアイランド州ニューポートで1954年から開催されニューポート・ジャズフェスティバルと呼ばれていた。
ジャズファンはきっと見た事のある1958年のドキュメンタリー映画「真夏の夜のジャズ」はここで撮られたのである。この野外ジャズフェスが後のウッドストックへの流れになったとも言われている。
就航して間もないジャンボ機に搭乗した。この時のジャンボ機は今よりゆったりとした座席の配置で、最後尾には小さなカウンターがありスチュワーデスのサービスで酒が飲めて周りにソファーもあるスペースだった。西海岸経由でNYまで、JFK空港からバスでNY迄たぶんクイーズボロブリッジかウィリアムズブリッジを夕刻通過、窓から見るNYはまるで映画の中のシーンの様で鉄橋の柱が後ろに流れていくその間から見える摩天楼の明かりが静かな感動を与えてくれる。
セントラルパーク南側59St?通りに面したホテルにチェックインしたが名前は今となっては記憶にない。あれから40年以上たっているので不確かであるが、ロビーの窓越しにセントラルパークが見え、カーネギーホールまで歩いて行ける場所だった。テリーと一緒の部屋でかなり高層階だった記憶がある。部屋の窓からは隣のビルの壁が望める。壁の色と空気の色がニューヨークだ。なんとなく香りもアメリカ。映画ウエストサイドストーリーの一場面をフッと思い出だす。
二度目のアメリカだが西海岸とは全く別の空気が漂っている。ここNYに来るきっかけの一つが、久茂地にあった「ダダ」と云う沖縄では本格的ジャズ喫茶のオーナーであった宮平氏がNYに住んでいる事もあった。一週間の滞在中予定されていたライブやコンサート以外のジャズクラブや人気スポットの案内をしてもらえるからだ。ビレッジバンガード、バードランドやソーホーのギャラリーや少し怖い場所のブラックミュージックのライブやグッゲンハイム美術館、
あのゴジラが登ったエンパイアーステートビル、国連会館そしてツインタワーの貿易センタービル等々お上りさん宜しくジャズフェスティバルの予定にない所へ案内してもらった。予定されていたジャズコンサート会場にはリンカーンセンター、ラジオシティーホール、カーネギーホール、メトロポリタンなど第一級のコンサート会場や店名も忘れてしまったジャズクラブも幾つかあった。クラブは5ドルぐらいでワンドリンク付き、まだ日本人がNYに旅行に行くのが少ない時代であったので店内の東洋人は珍しい状態であったがジャズが好きな人たちの独特な雰囲気が充満し高揚し素晴らしいアドリブに拍手し演奏後の掛け声にこれがニューヨークのジャズだ!の喜びは抑える事が出来なかった。当たり前だが聞こえるのは英語の音でした。
日中歩いてマンハッタンの南の端を目指してホテルを出てブロードウェイと7番街の交差するタイムズスクエアーを通った時、渋谷に有った「SAV」のマッチをデジャブーの様に思い出した。この街角を横断する男、冬なのか黒いコートを着たベースマンがハードケースを抱え横切っている白黒写真である。背景に特徴ある三角形のビルが写り込んでいる。
まだ現在のタイムズスクエアーの様に付近のビルに派手なネオンや映像の広告はなかった。
最近は新年午前0時この三角のビルの両側から花火が噴き出すようにあがる映像がテレビで放映されている。ここから3ブロック西側に今は生命保険会社メットライフビルとなったガラス窓に周辺のビルが鏡の様に映る高層ビルが有る、その時はアメリカを代表する航空会社パンナムビルであった。NYを代表する美しいビルの一つである。
ぶらぶらと歩いているうちにグリニッジビレッジのワシントンスクエアにたどり着いた。フォークミュージックのフレーズに、この公園名がバンジョーの音色に合わせて歌われている事を思い出しながらバッテリーパークまで行った、そこは街を守るための砲台があった事から名付けられたという。公園の端に自由の女神のあるリバティーアイランドまでフェリーが出ているターミナルがある。確か5¢か10¢ぐらいであった。乗船する事は無かったが遠くに小さく望むことが出来た。ペンタックスのカメラに標準レンズと80ミリの望遠を用意していたが、街を写すには30ミリぐらいの広角が無いとビルの表情や高さを望む景観は写す事ができない事にすぐ気が付いた。治安の悪いという町中を一人で恐るおそるカメラショップを探し、中古を何とか手に入れて街の風景や気に成るビルを何枚も撮ったが、いつの間にかネガごと無くなってしまった。手元に残ったNYの記念になる写真はここバッテリーパークの南端で撮った写真だけになった、それは今の私ぐらいの老人が鳩に餌をやっているシーンで自分のブログのパーソナル写真になっている。
宮平氏の住んでいるブルックリンのアパートに伺ったがエレベーターを降りると建物の中は映画で見るようなやや暗い廊下に無機質なドアーがあり、なんとなく不安を感じさせる景色だった思いがある。イーストリバーにほど近いカフェのような所で3人でくつろぎながら川の向こうに見えるマンハッタン島の摩天楼の群れの景色は絵葉書の様な風景だった。
夜のタイムズスクエアを散歩したが、国内繁華街の様に気楽な気分には成れなかった。当時この界隈はNY一番の治安の悪いエリアと言われていたので、気になる店に入ってみたいが足が向かない、行き交う人達は肌の色や髪型も多様で聞こえる言語も聞きなれた米語に訛りの有るスラングの様な言葉でかつ早口で理解不能。ウインドウ越しに覗くだけに終わった。行きかう人々に注意をしつつ足早に歩いていただけだった。それでもニューヨーカー気分。
昼間ホテル付近を散歩していると小さなジャズミュージアムのサインを見つけ入館する、料金は覚えていないが半地下の様なフロアーにアームストロングの若い時の写真や大戦前のNYのジャズクラブの様子などと誰の物か判らなかったが使用感の有る楽器が展示されていた。色々解説文が共にあったが残念読めない。意思疎通は単語の組合せと身振りで多少できたが、読む事は苦手中の苦手。交差点で立ち止まっていると、いきなり道を聞かれた黒髪でいかにも日本人らしく見えるはずの私に道を聞くアメリカ人がいる事にびっくりすると同時にここは移民国であることを認識する。
まずその頃の日本ではありえない事である。
カーネギーホールは入り口からして歴史を感じさせるアプローチと階段、扉の向こうのホールと共に実にその重みが伝わる雰囲気がひしひしと伝わって来た。ロビーでは静かな緊張感さえ覚えた。
1891年に建造されたこの建物には3つのホールが有りこの時のジャズコンサートはメインホール2804席の大きな演奏会場である。五層からなる内部は一部個室的な席もある。まるでオペラハウスのたたずまいである。最上階の天井桟敷の席は漏斗(じょうご)のような急斜面で、こけ(・・)たらそのまま階下に落ちるのではないかと思うほどの急な席だったのでステージを真上から見るような視線になる、しかし音は十分に聞こえてくる。気が付くと隣の席から紙に巻かれたあの草のたばこが回されて来た。
一口吸って隣に回す。期間中3回ほどこのホールでの演奏があり、一階席の中心より右側で丁度ステージの奥迄見渡す事が出来る位置が毎回の聴取位置であった。カウントベイシー、デュークエリントン、サラヴォーン、ソニーロリンズ、MJQ、エラフィッツジェラルド等々巨匠の演奏を始め最新の前衛的なグループや新進のミュージシャンの演奏が有った。馴染みのスタンダードや前衛的な感覚の曲を聴く事が出来た。この何年か前に那覇のハーバービュークラブにカウントベイシー楽団が来演した時、渡嘉敷唯夫氏に連れられて楽屋裏から聞いた事が有り、持込んレコードにサインを頂いたが数回の引っ越しで失くしてしまった。ベイシーバンドの最前列、名ギターリスト「フレディ・グリーン」をこの会場で正面から聞く事が出来た事は落涙の感であった。
また、広く大きいホールで有名なラジオシティ・ミュージックーホールはクリスマスツリーで有名なロックフェラーセンターにあり1932年に建造された5933席の天井の高い大きなホールで毎年のトニー賞の授賞式が行われる事で有名なホールだ。ここでもビッグバンドを中心に演奏が有りニューヨークにいる事とジャズに浸かっている事に幸福な満足感を覚えていた。期間中ビッグバンドンの演奏でダンスを踊るイベントもあったがダンスの出来ない私はホールの片隅で壁のシミの様に立ったままスウイングするだけだった。ベイシーバンドの真骨頂を聞いたような気がする。
ヤンキースタジアムでのコンサートはホテルから近くの地下鉄に乗って途中地上に出て北の161ストリートまで30分ぐらいである。降りるとすぐとなりにスタジアムがある。グランドにステージが設営され野外コンサートよろしくヴェテランや新人の演奏が進行する中でレイ・チャールズの登場となった、アルプススタンドから一斉に拍手が起き盲導犬を連れてステージに上がったレイはピアノに触れると慣れた動きで椅子に座り軽く挨拶の後すぐに演奏を始めた、特徴あるソウルフルな歌声でワッツアイセイ他数曲歌った。日も暮れて球場から帰る時は完全にニューヨーカーになった気分であった。
一週間毎日がNYのジャズシーンを体感する日々であった。帰路ロスアンゼルスに一泊、チックインしたホテルはJFKの弟ロバート・ケネディーが1968年大統領指名選挙中暗殺されたアンバサダーホテルだった。街の空気が非常に乾燥していて鼻が痛いほどであったことを覚えている。空はカルフォルニアであった。
沖縄に帰ってきても、しばらくは頭の中の音は寝ても覚めてもNYの音が消えては生まれ瞼の裏にはいくつもの映像が走馬灯のように流れていた。ジャズの今(渡米時)はニューヨークが源であることをつくづく感じた至福の時間であった。
古希を幾年か過ぎかすかな記憶をたどりつつ確認の為ググったりしながら海馬の中から消える前に書き留めてみた。これもボケ防止か。