大森実氏の訃報 再掲載

鉄瓶・錆び鉄

2020年02月19日 16:01

この記述は最近の沖縄における基地の問題や日本の自衛の問題等を自衛考える機会にしてほしいと
古いブログを再掲載いたします。

突然ですが私に広く世界に向けて視野を広げてくれた師である
大森実氏の訃報を昨日の新聞で読みました。
1967年頃チョットしたきっかけで、当時氏が発刊していた
「東京オブザーバー」と云う週刊新聞を通じお会いする事が出来ました。
沖縄から出て東京で暮らしていた頃です。ジャーナリストとして既に多方面で活躍していた氏は
毎日新聞の特派員記者としてベトナム戦争の取材で現地に入り、日本にニュースを送っていました。
後にその時書いた記事がきっかけで、当時のアメリカ大使より抗議を受け、
毎日新聞社を辞めざるを得なくなった方です。
常に世の中の情勢をジャーナリスティックに捉える視点は素晴らしいと感じていました。

私はその後両親の事情で帰郷してしばらく後、確か琉球新報の講演か何かで来沖された時に
お会いした際「メースB写真が撮りたい、どこかないか」「可能性のあるところを知っています」
「カメラマンを送るからよろしく」の様な会話の後、暫くして廃刊になった「東京オブザーバ」の
カメラマンだった方が(名前は失念してしまいました)来沖し、尋ねてきました。
一緒に恩納村の谷茶にあるミサイル基地に行きました。勿論、鉄条網の中ですから近づく事は出来ません

当時国会で「核抜き本土並み返還」が議論されていた頃ですから尚更のことです。
車中で「時々ミサイルを格納庫を開けて頭を出している事があるのです」「そこが撮れたらベスト」
の様な会話をしていました。
なぜその様な事を知る事が出来たか?

当時私は車に凝っていて、その場所の近くから山頂のレーダーサイトの入口まで
オキナワスポーツカークラブ主催のヒルクライムレースに参加していたのです。
写真はその時の様子です。
そのクラブは軍人、軍属、民間の愛好家が集まっていたのです。嘉手納飛行場の中で
ジムカーナレースをしたり読谷村旧日本軍飛行場跡地でレースをしたりしていました。
その時、問題の「メースBミサイル」の基地を見ていたのです。
通常はこの道はフェンスで閉ざされていますが、このヒルクライムの時は参加者などは
入る事ができました。
細長い写真の右側に観戦している人たちが写っています。その背景に写っているのが
あの「メースB核ミサイルの発射基地」なのです
そのコマを立てて見るとよくわかります


近くの1号線脇に車を止めて藪の中をフェンスのそばまで行くと幸いにも
8基の内の1基が扉を開けミサイルの頭を覗かせていたのです。
彼は周辺の写真やミサイルの写真を撮り、私達は急いで帰り、その夜祝杯をあげた
思い出があります。
一カ月ほどしてその写真は報道月刊誌のグラビアを飾り、日本国初めてのスクープとなったのです。
ミサイル基地のある事は知られていましたが、本体が格納庫から露出し写された写真は、
復帰前の核抜き本土並みの議論に一矢を刺したのです。
1969年か70年にこの核ミサイル「メースB」は撤去され、
今は創価学会沖縄研修道場となっています。

その後も大森氏とは来沖される毎に何度かお会いし何時も身につまされる話を聞いていました。
あのカメラマンはその後ベトナム前線に取材に行ったが行方が分からなくなったと氏から聞かされました
訃報に接し40年の時を遡り懐かしくも悲しくも思い出しました。

余談ですが、坂本九がその頃歌った「エンピツが一本」浜口庫之助作曲は、大森実氏
応援歌」だったのです。

   ご冥福をお祈りいたします