母の遺品の5月15日
池坊と裏千家の教授をしていた母の遺品を整理していたら、復帰記念の電報が見つかった。
何故5月15日に祖国復帰する事が決まったのか、
それこそ今も続いている日米の共同作業の結果なのです。
日本の新年度が4月から始まります。アメリカの新年度は6月から始まります。
中を取って「5月15日」になったとの事。実に
「テーゲー」に決まったのです。
母は、京都で生まれ10歳ごろ家族5人と沖縄に引っ越してきました。
泊尋常小学校を出て、その後、県立第二高等女学校10期生として卒業しています。
戦時中は、ご存知のように県立第一高等女学校は「ひめゆり部隊」でしたが
母の学校は「白梅部隊」でした。母は昭和13年に卒業ですので、
戦場に駆り出される事は有りませんでした。後輩たちが戦場に出てその犠牲になったのです。
私もまた。一中健児の後輩であります。母校の近くにその慰霊碑があり、
毎年その記念碑の前で慰霊祭をした事を思い出します。
疎開先から戦後、沖縄に戻って来た時、私たち家族みんなで母の後輩たちが眠る
「白梅の塔」に参拝に行った事がまだ記憶にあります。
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