この話は、私の得た情報と年の功で得た知識から、大震災から10年後を想像して書きました、
でも結構確かなデータも含んでいます。物語風にして、私が久しぶりに上京し、
友人の店が3号店を開店したのでお祝いに行く、という設定です。
(使われている写真は海外記事を使いました)
災害に会われて大変な状況下にある多くの方々に心からお見舞い申し上げます。
最終章 回顧(懐古)
新橋から最新の地下鉄に乗のって開店時間に合わせ、赤坂の友人の店に着いた。
今でも沖縄の地産食材料理はここでも人気があるらしい。
予約してあったカウンターの端っこに座り、昔の思い出話を肴に若かりしときの
沖縄での暮らしを語る友人は、孫がこの店を引き継いでくれるまで頑張り、
いずれ石垣に帰る様な事を話していた。幾つに成っても故郷忘れ難しだ。
大震災あの時、震災地の故郷を離れて見知らぬ地に避難した多くの家族や町の住民達
原発事故で強制移住させられた全ての町の住民達は、
家族によっては移住地にそのまま定着し新たな街の住民に成る人や、
国が設けたアトムタウンにその生活を移す人など様々な人生を送る事と成ったが、
ようやく少し落ち着いてきた様子が、ドキュメンタリー番組で流れていた。
そこには10年たっても残された基礎だけの住居跡や隅に忘れ去られた瓦礫の一部と
いまだに仮設住宅や、避難先から仕事もなく高齢で行く所も無く暮らしている人々が
少からず居る事も同時に紹介されていた。
最近の教科書には日本国有の地学的仕組みや地震と津波と原発の三重苦の事実が
偽りの無い経過とこれから起こりうるかもしれない時の行動規範が教えられていた。
また災害時の非常用装備品の中で、特に海岸地域の住民には津波で海に流され
多くの方が亡くなった事を教訓として、海難事故用の位置情報発信器と
夜間自動発光器付きの自動膨張ライフジャケット等が付け加えられるようになった。
(ヨットでは既に利用されています)
日本が世界に自慢していた地震予知研究はその投下費用と成果が見直され、
非常災害時の国民の安全に対する研究と対策に基軸を移している。
そういえばこの前の3月11日は「あれから10年」の特番が放映され、
津波や地震そして原発の事故の様子や避難先の様子などが流れていた。そしてあの時の
「心は誰にも見えないが、心使いは見える。
思いは誰にも見えないが、思いやりは見える」金子みすず
あのACジャパンの広告もテレビを見ている人々をフラッシュバックさせてくれた・・
翌日の午後、羽田からの飛行機はよく晴れた空の下、
本島西側の海岸が眼下に見えるコースをゆっくりと降下していた。
穏やかな波のある紺碧の海面と見覚えのある半島や岬は、
改めて故郷の豊かさと、有り難さを教えてくれた。
私が父の年齢に達する頃には、日本は経済的豊かさよりも
社会的豊かさが重んじられる国になっているだろう・・・・
期待と希望を込めて書かきました。