琉球の時代の遭難船をめぐる幾つかの話・Ⅱ
琉球王府時代の帆船について様々な文献、書籍、レポート、随筆等々をかき集め幾らかでも当時の帆走技術や航海術の情報を得ようとしていると、必ず漂流、遭難と云う情報に突き当たります。すると、今まで知らなかった歴史上の事柄にその遭難した人々やその人達が日本の歴史に果たした事実に「そんな事が有ったのか」と歴史の裏側に船とその乗組員の存在が大きくかかわっている事に驚かされます。一例は「ジョン万次郎」ですが、
たどり着いた古書「近世日本漂流編年史略史」川合彦充著昭和42年発行の中から琉球に関する事例を抽出してみた「日時は旧暦」。
1640年(寛永17年)10月土佐佐賀浦に琉球船漂着(詳細不明)
1691年種ケ島竹崎浦の漁民が12月21日久高島に漂着翌年5月鹿児島に帰る
1705年82人が乗った琉球船が8月12日福州を出港したが難航し
8月28日土佐清水に漂着
1713年10人乗った大和舟が11月28日名古屋から大阪に向かう途中和歌山沖で遭難翌年3月24日琉球に漂着。7月11日琉球から薩摩の山川に送られた。
1723年正月15日石巻から江戸に向かっていたが途中遭難漂流し琉球に漂着11月29日江戸に帰る。
1732年閏5月16日琉球船が七島灘で遭難し種ケ島に漂着。
1741年7月9日薩摩船21人乗った船が八重山から薩摩に帰る途中、久米島沖で遭難漂流船が破損していたため、端舟で漂流17日に清国船山列島に漂着(浙江省杭州沖)翌年5月20日長崎に帰る
1745年琉球船17人乗っていた。5月仙台に漂着し、その後陸路江戸薩摩屋敷に送られる。その後帰郷し当時の中山王は1746年謝礼として贈った中に泡盛2壺が有った。さらにその中の一人山城仁屋は、17年後再び遭難し土佐に漂着した。
この様に遭難漂着した記録が有るが航海中に遭難する可能性は当時の船の性能や航海術を想像するにそこそこ起きていたと思いますが、記録に残っているという事以上に遭難しそのまま行方知れずの船の数が多いい事は容易に騒動する事が出来ると思います。と同時に大和と琉球の間で或いは東シナ海に多くの帆船が行き来していた事も想像できます。
次回更にその後の記録を掲載し、大和の船ですがその乗組員が日本史の中で果たした役割についても掲載してみたいと思います。
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