カタマランヨット「ミニー」パラオからの回航記

鉄瓶・錆び鉄

2022年06月18日 15:00

カタマランヨット「ミニー」パラオレース後二年余を経て宮古島へ回航乗船記

成田国際空港グアム経由パラオ~宮古島荷川取港2022年5月11日~6月3日

北へ


もう二年以上になるかカタマランヨット「ミニー」でパラオ独立25周年を期した日本パラオ親善ヨットレース」に参加の為、宮古~宜野湾マリーナ~横浜ベイサイドマリーナへと回航するとの渡真利氏からの電話を承諾してから・・・私は宜野湾マリーナから東京からの宮沢氏とともに合流2019年末冬の北上である、あれから二年余

2022年3月再び渡真利氏から一本の電話、いよいよコロナ騒ぎで封鎖されていたパラオに条件付きながら入国が可能になったので帰国できなかった「ミニー」を引き取りに行くのでどうか?との事である。パラオには少なからず縁が有るので即了承。
それは亡父の若かりし頃の「海王丸」の実習航海でポナペやパラオに寄港した時の写真やその様子の話を子供ながら聞いていたことが有るからである。行く事で多少の供養になるかとも思った。
5月の出発で予約を取るが、航空会社の減便の為大阪からの便がキャンセルとなり改めて東京~グアム~パラオの便を取り直す。
11日成田に渡真利、伊藤、宮沢が出国カウンター前に顔を揃える。米国経由の為PCR検査陰性証明書は一日前の書類が条件であった。慌ただしく書類を揃え無事搭乗。
私にとっては久しぶりの海外渡航である。ユナイテッドの機内でスピルバーグの「ウエス・トサイド・ストーリー」が前の座席の背中にある小さなスクリーンに映し出されていた。オリジナルの記憶が有るのであの時のシーンがこの様に演出されているのか等と思いながら最後まで見てしまった。見ただけでも大体理解できた。

グアムで短い時間の乗り継ぎ、ターミナル内を階下と階上へと移動、入国と出国、日付が変わろうとする頃パラオに到着。渡真利氏のパラオの友人の手配で迎えの車に乗りホテルに深夜チェックイン。車は右ハンドルの右側通行チョット戸惑う。雨模様。
翌朝泊まった宿は「ホテル&アパート」と表示されている。外観は何となくコロニアル風の3階建てで部屋の前の廊下はテラス風にかなり広い、その廊下から目の前には静かな入り江に幾つかのヨットが係留ブイに舫われ漂っている。海面からすぐ緑に囲まれた大きな岩の様な小島と低く伸びた島の様な茂った小島に囲われたこの入江はRPYC(ロイヤルパラオヨットクラブ)が管理しているようだ。目の前の大きく茂った木で見えなかったがこの入江の手前側にパラオレースの表彰式が行われたポンツーンの有るカフェが有る。
この店の責任者は渡真利氏の既知の方で朝食後「ミニー」の係留を解きにこれまた当地の友人の操る双発の大型船外機付きボートに抱かれてカフェのポンツーに移動。長い間の高温多湿に傷んだエンジンは働かなかった。手際のよい移動で右舷を浮桟橋に付ける事が出来た。電気設備は無いが水は十分に使う事が出来る。
実はこの入江に浮かんでいるカタマランの中の一艇は友人がオーストラリアから沖縄まで回航途中である。この船も長期に渡って外国に留め置いたせいか操舵系に支障をきたしていたので私たち同乗者の宮沢氏が依頼された用品を東京から持参していたのである。
昨夜到着した空港でその用品は渡されている。私達はこわごわとキャビンに入ると予想通りいたる所中はカビに覆われていた。
早速、用意した漂白液を希釈し艇内の拭き掃除である。ハルに付着した汚れは現地の「ルル」君が借りてきた高圧洗浄機で洗い落とす。渡真利艇長は動かないエンジン蘇らせるべく懸命である。日中の暑さと頻繁に降るシャワーの様なスコールの為クッションなどの日干しがやりにくい。
電動のトイレやキャビン内の照明等々電気系も接触不良や湿気で生じた錆で断線状態。
力のなくなったバッテリーを新品と交換。すごい汗で脱水による体の維持の為水やポカリは欠かせない。昼食は当地の友人から借りたホンダのワンボックスカーで距離500メートルほど離れた「ドロップ・オフ」に向かう、
いかにもリゾート地のオープンレストランである。いきなりの暑さで食欲があまり無いが渡真利艇長の勧めでクラブサンドを二人でシェアーする。さすが量が多いいシェアーが適量であった。私はアイスティーだが他の三人はローカルビールでポキ(鮪)のサラダ、ツナミハンバーグを食する。この場所ではフリーWi-Fiが繋がるが、「ミニー」の係留場所にはその環境下には無い、両舷の前方にある係留索等を保管するスペースのハッチを開け中にあるダメージを受けて使用できない様々な物をデッキに揚げ破棄と洗浄をする。
カタマラン特有の船首部分のタランポリンのネットを留めてる細めのロープも風雨に曝されていて傷んでいるので数十か所あるすべてのそれを交換する事とする。太陽光発電パネルからのバッテリーへの充電経路もその役割をしていなかった。
まずはエンジンの回復である。もっぱら渡真利艇長の役割であった。極暑の一日、夕刻前にホテルに撤退する。

初日はひとまずこれからの整備に必要な用品等を購入のリストを作りする事になる。
ホテルは長期滞在もできるキッチンと冷蔵庫も有り、二人ずつ隣り合わせの部屋で夜食は集まって渡真利艇長の手料理と缶ビールでこれからの作業の打ち合わせをしながら床に就く。宿にはフリーWi-Fiのピンコードが割り当てられていたが数日の有効期限であった。
翌日スコールの合間を見てキャビンのクッションや毛布類を日干する。パラオレース後にギャレーに残されていた調味料、保存食料品も賞味期限に不安な物を全て破棄する、
水タンクも残りを捨て、新たに満タンとして何度か空にする事で完ぺきとは言えないが洗浄する。それにしても切りの無いような掃除と洗浄と電気系のチェック、キャビン内の壁と床至る所の拭き掃除である。
艤装品の動作確認で何日かを終える。部屋での食事の為の食料と酒も買い出しをする。
市内にかなり大型のスーパーがメインストリート沿いに二軒向かい合わせにある、右の店か左の店かで互いの会話の中で通じる事になる。
どうやら右の店はオーナーがモスリムの様で休業日が他店と異なっていた。
それぞれ二階は衣料品や家電用品を売っている何でも有りの大型店であった。

日本人の経営する飲食店も幾つかあり殆ど居酒屋的メニューでパラオ風のメニューも有る、いずれもパラオに来る日本人ダイバーにとっては安心できるメニューの様であり当地の住民にとってはチョットレベルの高い店の様だ。
所で、売られていた日本ブランドのビール缶A社の辛口が多く見られたが全て330㎖
である更に製造国は中国でした、容量が日本と違う理由は?
買い出しに行くと肉は安いが野菜果物は高い事がわかる、ほとんどフィリピンか米国からの輸入で海が荒れると、それらが店から姿を消すとの事。かつての沖縄と似ている。
酒類も安い税率の違いだろう。購入している現地の人たちの殆どがカードであり、店員が購入後の袋詰めや車までの運搬もやってくれる。多様な言葉と人種が住んでいるので店員は日本人と見ると多少日本語で対応できる。
使うカーゴのサイズも大型のものが多くアメリカ的であった。その為なのかレジのカウンターはベルトコンベアーの様に商品を一定以上置くとレジ係はベルトを移動させバーコードを読み取っている、レジ作業は椅子に腰かけているのである。
日本のスーパーとは大分違う。パラオの平均的所得は日本円で月10万円程度と聞いた。

夜、沖留めのカタマランのオーナーとキャプテン役の友人Y君、クルーを渡真利艇長が既知のインドカレーの店に招待する。実はY君とオーストラリアに行く前にパラオでミーティング出来たら面白いねと話していた事が期せずして実現し縁の不思議を思う。
更にオーナーも私の知人であったのには驚きだった。
渡真利艇長に二人を紹介しながら本格的なインドカレーでの会食となった。
オーナーは達者な英語で注文の仕方から食通らしい所を感じた。渡真利艇長は何度もこの店に来た事が有るので、好みのメニューを注文していたが、私達はお勧めカレーの説明を聞き注文をして互いの無事な航海とこれからの親睦を新たにした。
私とY君はこの地で再会する事のタイミングの妙に話題が行った。同行の皆もそれぞれにヨット談義に盛り上がっていた。「ミニー」によるタイのキングスカップ連続優勝の話は特にオーナーの関心をさらった。

翌日も整備作業はいたる所のダメージの回復に手をこまねいている。両舷の船室に備えられている電動トイレが配線の腐食や、ポンプ等の不調により機能しない。
手動ビルジポンプも動作せず、事前に予想していたので持参した部品との交換等々エンドレスな整備作業が続く。あまりの暑さに船室内の何処に居ても滴る汗には閉口する。
私は携帯をズボンのポケットに入れていたが汗で動かなくなってしまった。
「ルル」君に修理出来る所に出してくれるよう頼む。同行の伊藤氏は熱中症の症状を呈したのでホテルに戻り休むことになった。幸いにホテルと桟橋までは二百メートルも無い。
当地に向かう前は整備に一週間程度のつもりであったが、必要な部品用品がなかなか手に入らず何とか工夫するしかなかった。備え付けの発電機も腐食の為使えず又冷蔵庫も止まってしまっているので急遽小型のエンジン発電機と冷蔵庫を購入し持ち込むこととなる
以前から搭載の小型の冷凍冷蔵庫も十分冷える事は無いが取り敢えず使える状態である。作業の合間を見て回航中の食料の買い出しをする。生鮮野菜等は出航前日に購入する事として、ディーゼル燃料の予備ポリ缶や発電機用のガソリン用ポリ缶も購入、
ポリ缶は良くできた安全重視となっていた。日本の安全基準との違いを感じる。
デッキの両舷に20リットルの燃料ポリ缶を七缶ずつ固縛する。ガソリン缶はコックピットテーブルの下に置く。

何日か経ち一応のヨットとしての機能の回復を確認するためにその日はロックアイランドエリアをクルージングする事になる。その景色は絵葉書の様に素晴らしく世界中からダイビングに来島、又クルージングで寄港する理由が良く解る。パラオは島の周辺をリーフで囲われ中はラグーン状態で穏やかな海である。十年以上ここに通ってダイビング客を誘致している本業の24ノースの社長である渡真利艇長の本領発揮であった。

戻ると左舷側のエンジンがどうも調子が悪い事を彼は気にしていた。
先日食事に誘った返礼かY君のオーナーから「ドロップオフ」での夜食のお誘いが有り
19時すぎに合流し互いのヨット談議に花が咲く楽しい一夜となった。プールサイドではレゲエ調のノリの良い聞いた事のある曲をリズムマシンとシンセを使い3人で歌い演奏していた雰囲気は実にリゾートである。
ショートツアーの帰りにセーリングカヌーに出会った。アウトリガーを付けた小型の帆船である。南太平洋の島々を大型のこの様なカヌーで縦横無尽に航海していた人々の末裔でもあるパラオの人々である、泊地から近い所に保管されているカヌーを見に行った。
体験乗船も出来ると聞いたが残念であった。細部には「サバニ」と似た構造が見られた。

知人が艇長を務めるカタマランの操船上の不調にも目途が立ち一両日に沖縄に向け出港する事になったが思わぬ長逗留になった様だ。我々の方もオートパイロット系のモーターが動かないため念のために持参したラットに装着するタイプを急遽装着する事とする。英語のマニュアルに難儀するが何とか機能するようになった。
パラオレース後今日までの期間に船検期間が経過し、このままでは帰国時に違法となってしまう様だ、もちろん事前にその事は承知している渡真利艇長は出国前から国の機関等と打ち合わせを繰り返しここ現地から船体の状態を写真で送る事で書類を完成させようとしていた。安全備品、航海燈、喫水下の状態などの写真を撮り送っていた。
全く役所仕事である。コロナ騒ぎで出国も入国できない中、船検切れでこのままの航海での日本への入国は違法に成るという。理不尽この上ない。
その間も知人からのバナナやヤシの実、マンゴロープ蟹などの差し入れが有る。有難い。
バナナは沖縄の島バナナと同じような味の小さめのも有った。蟹も同様である。

殆どの国でレジャーボート・ヨットの登録制度は有っても日本の様な厳格な免許や船検制度が無い時代に国際的な事情でこのような事態になってしまった事など配慮無しである。今回のレースに参加したヨットで同じような事態になり帰国後、やかましく取締りにあい調書を書かされ罰金処置になった船も有るようだ。しかし、たまたま外国船籍で日本人オーナーのヨットは何のお咎め無しに入国しているのです。
何分にも進水後からこの日までもう若くはない「ミニー」はタイのキングスカップでの連勝の記録と宮古迄の長距離航海、更に横浜までの遠征の後パラオ迄のレースに加えてその二年あまり後に宮古迄帰途につく相当の距離を走った事になる。ダメージも大きく経年劣化もあり、再生には色々と手が掛かる。クルージングを兼ねたテストセーリングの後、渡真利艇長は左エンジンの不調を改善すべくエンジンルームを開け上部ハッチとドアーも開け暑い部屋の中、短パン一つで整備中いつもなら十分気注意するスプレー缶を使用後、エンジン起動を試みたその瞬間小部屋に漂っていた可燃性ガスに引火。
外で作業していた我々はボンッ!と衝撃を感じる音に驚きと同時に「消火器!―」の声、即座に粉末消火器をエンジンルームの艇長に渡し火は収めたが噴霧中の消火器を持ちだす途中メインサロンやコックピットにそのピンクの粉末は飛び散り散々な状況となった。
艇長は消火後即デッキに上がり海に飛び込み焼けた体を海水につけた。
あがって来た時艇長の頭の前部の髪は焼け、まつげも眉もその影響を受けていた。
その後足や腹部、顔などに火傷の症状がはっきりと表れ、備えてあった薬品箱から抗生剤と塗り薬を処置する。
もし部屋のハッチとドアーが空いていなければ爆風で何がしかの損傷が生じていただろう。
その後は散布されたピンク色の消化粉末を拭き取る事でその日が暮れた。ホテルに帰ると次第に火傷の症状はひどく成り体温も上がり鎮痛剤と解熱剤も服用する事になる。
艇長はシャワーにも入れず早々と床に就く。それでもビールはやめない。
翌日後その事を知ったパラオの知人達が心配し当地の民間療法で使う薬品や塗薬を持って来る人が何人もいた。これまで培って来た人脈のお陰である。
この間にも行く所々で知人に会い再会の挨拶となる。

時にはすぐ隣に浮かんでいるテーブルの有る小屋の下でBBQの招待を受けたりした。
静かな入り江の海辺に個人でBBQも出来る海上に浮いた小屋など沖縄はもちろん日本では到底望めない環境である。

街中には日本人の経営する飲食店も幾つかあり、何店かに食事に行った、そこは地元の人たちも来店するので日本のネイミングのメニューであるがそれなりの味と盛り付けである。日本国内でも海外の料理が日本受けにアレンジされているのと同様である。
でもヤッパリ日本食のメニューにホッとする。日本酒や焼酎も有るがさすがに泡盛は見なかった。刺身盛り合わせも魚の違いで日本の様にはいかないがチューブのワサビと醤油はいつものブランドで馴染みが有る。
それにしても渡真利艇長と宮沢さんは料理の心得も有りホテルのキッチンで我々の朝食や夜食を度々造ってくれる。出来ない私にとっては有難い事であった。艇長は船検関係で当局と連絡し合い、同時に同行するパラオ人「ルル」君の日本入国のビザ取得の手続き、
パラオ出国の書類や日本入国の為の様々な書類等々もすべて渡真利艇長がホテル滞在中に書上げる、慣れているとはいえ見事である。この様な手続を見る経験は初めてである。
その後私の携帯が無事戻って来たが動作しなかったのは一時的な湿気の様だった。
船は思いのほか回復や諸手続きに時間が掛かり延泊を2回結局二週間にもなった。
ようやく船内に寝泊まり出来る環境になり支払いを済ませ移動した。先に来ていたY君の乗るカタマランも操舵装置の修復も終わり沖縄向け出航する事になる。3人で沖縄まで約1300海里である。ビールで安航を祈念し別れを惜しみつつ再会を約した。
我々もあと一息。日本入国の条件である出国72時間前PCR陰性証明を得なければならずパラオの医療機関に向かい全員陰性の証明書を取得、三日以内に出国しなければ再度検査となるその二時間前に滑り込みで「ルル」君のビザの取得も完了し税関等の関係者が桟橋に来て回航要員5人のパスポートにスタンプが押された。ポンツーンには10名余のパラオの知人友人が見送りに来ていたが再会を望み明るく見送られる中、
日没前に舫いを解き一路宮古島へ向かう。

島の東側から外洋に出るが今までの静かな入り江とは違いリーフの外はウネリも波も有りいきなりのピッチングとローリングに数時間体がついていかなかった。早速宮沢氏がワッチ表を作成、一人二時間で三時間のオフに一時間オーバーラップを作る。
私の二時間のワッチの間最初の一時間は伊藤氏と重なり二時間目は宮沢氏と重なる私がオフになる時渡真利艇長に代わる交代で朝までワッチを続けるが昼間は基本同様のワッチが組まれるが、実態は多くの目で周りをそれとなく見回す事になる。
夕刻出航後夜間はパラオ諸島の東のリーフを避けて沖合を北に向け6~7ノットで順調に機帆走。満天の夜空とは行かないが雨雲の合間に星が煌めいている、何気に湿気のせいかキラキラ感が無い。ワッチ後一眠り次のワッチは午前4時から二時間夜明けまでである。
明け方の雲間から星が見えるがはっきりとした星座は確認できなかった。
停泊中の二週間あまりも昼夜を問わずスコールと雨雲で夜空を仰ぎ見る余裕はなかった。

南国らしい夜明けはいつも見る「明けの明星・ビーナス」が高い角度で見えた。
雲間から日が昇る前に扇状にはっきりとした幾筋かの光は洋上で見る何時もの輝きであった。波は大きなうねりの中に東寄りの風で生じた波長の短い波が重なり時たま大きく揺れる。カタマラン特有の船首が造る波が双胴の中心に集まり同期すると船体の腹をバンバンと叩く、慣れないその音に何事かとビックリするがそのうち聞き慣れた音になる。
買い込んだインスタント食品に沸かした湯を注ぎ朝食とする。差し入れの有った二種類のバナナがいいデザートになる。

パラオ・ロコールの市内はメインストリートを挟んで商店や銀行、学校、ダイビングショップ、マッサージ屋、土産屋、ホテル、レストラン、銀行、ホテル等々が並んでいるが、ここの所のパンデミックで閉店、休業の所も少なくない。沖縄と同様に観光客を中心とするあらゆる商店、施設が似たような経済状況下にある。「ルル」君が携帯からリンクした
スピーカから地元の音楽を作業中BGMの様に流していたが、リズムはレゲエ調がメインでノリの良いリズムである。
歌詞の内容は現地の言葉や訛りの強い英語でよく理解できない。明らかに聞き覚えのメロディーでもアレンンジされていて原曲の雰囲気はパラオ風になっている。

先にも書いたが右ハンドルの右側通行で左右に曲がる時は道路上に三車線ある走行区分の中央車線に入りウインカーを出す事がルールだが、交差点で対向車も中央線に入って来るので一瞬正面が対峙しビックリする、おまけに小さな路地に曲がる時などは停止線も確認できないので、ぶつかるかと気をもむ。思い出すと昔グアムで走った時も同じような経験をしたことが有る。それと信号機が見当たらない。パラオ国中に無いのか知らないが少なくともロコールをあちこち行ったが見当たらなかった。
出航から二目貿易風が強く波も悪く天気雨ワンポにする。ジブはフルである。
艇速は時に11ノットを超える、波が船腹を叩く衝撃が激しい、スプレーが船首のネットを通過しメインサロンの窓に激しくあたる。応急的に備えたオートパイロットはその役目を果たしているのでキャビン内に腰かけてのワッチとなる。この頃から航海燈はマストトップだけとする。三日目には落ち着きフルメインに戻し艇速8ノット前後を維持、左右に展開したトローリンロッドはまだヒットなし。
見事に360度の水平線で本船の影も見えない。時々シャワーの様なスコールが有るが、日が差すと日中は広くないデッキの日陰を探しアチコチとくつろぐ所をさがし移動するのがクルーの行動パターンとなる。まるで那覇の大通りで影を探して歩くのに似ている。

本来ならばキャビン内はクーラーが効き快適なのだが、いかんせん臨時のジェネレータの容量では冷蔵庫等と同時には利用できない。海面は群青色で波模様は何と無く吐噶喇列島を航行しているような気がする程である。雨雲は少なくなる。
見事な日没後、夜空は星が輝いている、憧れの南十字星を探すとそれは船尾に流れる星あかりに照らされた航跡の彼方に見る事が出来た。幸いに新月の頃で星はその輝きを邪魔される事無く光っている。船首方向に大熊座を確認できたので視線を少し右に振るとそこには北極星・ポラリスも見えるが何時もより低い、
当然であるまだ北緯8度台なのだ。パラオが北緯7度程度、東経134度程度なので日本と時差は無い。目的地の宮古島荷川取港は24度、東経125度、距離凡そ1200海里にもなる。一日の行程150海里で8日の航海である。
ヘディング335度がラムライン。途中風に合わせて多少の進路変更はあるが北上である。艇は波に揺られ左右に首を振るが気にする事は無い先は長いのだ。

突然リールがジージーと鳴りラインが勢いよく出て行く、「ルル」君の出番だ。
かなり強い引きでその大きさを感じつつ艇を風に立て低速を落とす。
見えてきた魚影は長く銀色に見える、左舷の船尾のステップに揚げられたのはバラクーダ体長50センチ余歯が鋭く激しく暴れる、いつもの様に船尾パルピットに吊り下げた、
こん棒で慣れた手つきで頭部を叩きコックピットに運び、尾の方の30センチ程を残し
切断、頭と胴は破棄する。
せっかくだが捌くにはそれ程ギャレーは広くない。何日か後にも同じ魚種が釣れたが更に大型であったが同様の手順で、捌きやすい身の部分だけを取る事になる。
ある日ドラッグを締めすぎていてカジキらしき魚の当たりがあった途端に切れてしまった。他にも釣れた日は違うが型のよい本鰹が釣れさすがに頭以外は艇長が慣れた手つきで処理、しばらく刺身としてビールの友となった。この時腹に白子が有ったのでこれは煮物にして食事の副菜となる。

ジェネレータを使っている時は炊飯器でそれ以外はガスコンロ、圧力釜で米を炊く。
食事は艇長と「ルル」君宮沢氏が交互に用意するが揺れるギャレーである出来具合は推して知るべし。差し入れのバナナは次第に熟成しすぎてきたのでその程度を見はかり海上投機となる。持ち込んだオレンジとリンゴは各自自由に食べる。卵は茹でる事が多かった。
便利なものでインスタントの味噌汁にパックの豆腐と玉ねぎを入れ暖かいご飯も出た。
残ったご飯はふりかけでお握りとする。パンはピーナツバターを塗って食べたり、
ベーコンと卵の時もあるがパンは日持ちせずカビが生えてきたので残りは破棄となる。
購入時英語が良く読めずに買った冷凍ソーセージはホットドック用に味付けされていて塩味と油分が多く一度に一本食べる事は出来なかった。
レタスは足が速く三日後には殆ど傷んで、後はキャベツと冷凍ニンジンとジャガイモと玉ねぎが活躍する事になる。
長距離レースでは何時でもキチンと料理できるヨットマンは引く手あまたな時代が有ったが、昨今はレトルトが発達し栄養も味も陸上とそん色なく食べられる時代になったが我々も一部その恩恵に預かっている。
航海中のシャワーはカタマランだから出来る海水シャワーである。風下側に大きな桶を置き海水を汲み普通のボディーシャンプーで体を洗ったら桶の海水で流し仕上げは真水でサッと流す。後はタオルで拭くだけである。海風が気持ちいい。洗濯も同様である。
時には丈夫なネットに下着やシャツを入れ海面を引き流す事で洗え、シャワーと同様に真水で塩気を落としライフラインに掛けて干す事も有るようだ。
私は今回一度海水シャワーを経験したが、穏やかな状況下でしか出来ないので寄港しない今回の航海、介護などで使う使い捨てタオルと下着を用意し大いに役に立つ。
四日も経つと体も船上の生活行動が馴染み排便等も日常となる。昼間の海面と空は雲の模様の変化と波浪の色や形状の変化以外特に変わりなく、

艇長は吉川英治の三国志全巻を持参しホテルに宿泊時から航海中も読みふけっている。
私も出る前に入手した、日本の帆船建造に尽くした実録「太郎と弥九郎」を持参すべく準備していたが失念してしまったので、この度は邂逅の長旅になってしまった。

それにしても日差しの強い日中より風に打たれる夜のワッチは天空を仰ぎ、乏しい知識ながら星座を探し銀河を探し自らの星座「さそり座」を探し夕刻のワッチと深夜の時と明け方の時との変化を観察する事で思いを巡らせることが出来た。
海象が安定しフィリピン海付近の夜にははっきりと南十字星が確認でき対面に北極星が見える。夕刻時にはサザンクロス近くの「さそり座」はアンタレスの輝く頭部をもたげたような姿勢に見え、深夜のそれは獲物を狙う様に横たわっている。明け方に成ると役目を終えた様に水平線に隠れるが如く見える。
海面は日照が無くなると色を失い漆黒となり海面は星明りに照らされた泡が白く光る。
水平線から天中に掛けてやや青みを帯びた黒から次第に底の無い深い黒に緩やかに変化し満天の星はその輝きを競っている。
北方の大熊座の北斗匹七星もまた北極星ポラリスを中心に大きく反時計回りにその姿勢を変え明け方には柄杓が海水を汲むような姿勢になる。
時たまミンダナオ島のある西方に飛行機の明かりが点滅するのを見ることが有る。
もちろん流れ星も銀河も仰ぐ事が出来るが、揺れている船上で見続けるには首がつらく成るのだ。北上するにつけ次第に北極星はその緯度の様に高くなっていく。
夜の三回のワッチ毎に天空はその色と深みを変化させ腰かけて前を注視していると彼方の星がチラついて見え本船かと見紛う事も有る。又、ある夜は右舷遠方に二隻の本船赤燈を視認した、二隻は同じような方角に進んでいるが艇速の違いか二隻は次第に重なり又離れて行った。自船の航跡は時たま夜光虫が光りその様子は幻想的である。
明け方のワッチは特に素晴らしい。
日没時に輝く「宵の明星」は一足早く「明けの明星」として太陽の露払いのごとく輝きを強め天空の星にその「おふれ」を伝えんとする。この明星と呼ばれる金星・ビーナスは一番星とも呼ばれるが、夜中は殆ど見えない。

次第に東の空は明るくなり海面近くの雲も色帯びてくる。有明である、
運よく航海中は殆ど月の無い夜で宮古に着く前夜の有明には東に盃の断面の様な三日月を見る事が出来た。次第に東雲色に輝きを増し雲間にその光線が筋を成し扇の如く光り出す。絵に描いたような旭日朝日である。天空の星達はその明るさにかしずき夜空を去っていく。
明星の金星はそれを確認するかの様に最後に消えていく。
太陽が顔を雲間から出し海と空に色を届ける。群青色の海面は生き生きとなり波頭の白い泡が躍る。空はかすかな薄青い色から次第に紺碧の空となり、クルーの肌を焼く。
夏を迎える夜の空は緯度の低い事も有り湿度のせいか冬のそれとは煌めき方が違うようだ。
長期係留中に付着していた緑褐色の苔がハル一面に付着していたが高圧洗浄機で洗浄したハルに夜明けの光が当たり白いハルは明るいオレンジを帯びた赤い色に染まる。
ワッチ当番の私と宮沢氏の顔も朝日に向かいそのエネルギーをもらう。

ワッチが明けてもそのままコックピットに留まると夜明けと共に全員起きてきた。
朝のルーティーンは両舷に立ててあるロッドから疑似餌を流す事である。
湯を沸かしラテを飲む「ルル」コーヒーを飲む私、ビールをサーモスの保温カップに移し飲む艇長、そのまま缶を気持ち良い音を立てて開け、目覚ましとする伊藤氏、
時間は波音と共に過ぎて日常が始まる。
残行程500海里東の風も弱まり次第に南から南西に変化する。
30度程ヘディングを西に向け台湾方面に向けタックを変える。艇速は6ノット前後。
パラオからフィリピン海を大きく時計回りの様な弓なりのコースを取る事になる。
6月に入ると南西の風も力強くなり再び宮古向け進路を変えるがタックはそのままである艇速も8ノット以上になる

境界線は無いがフィリピン海から南シナ海そして東シナ海の海域に入ったような海面である。心なしか昼間の海の色はパラオ付近よりさめてきたような感がする。
夜はポラリスも幾分高く見る事が出来、明け方は北東にカシオペヤが視野に入る。
ワッチの度にキャビン内のタブレットに表示されている位置情報は帰港地までの残航表示されている。現代の航海情報である。慣れた航海とはいえ帰心矢の如し、
到着の時刻を予想する事になる。艇長は入国に関する税関や検疫等の書類の記入漏れがないか確認と全員のコロナ陰性書類を揃えている。
残航50海里植物検疫で持込みできない野菜類、肉などを海上投機、果物は全て食す、
税関で申告する物品は何もないが各自確認し、艇長は衛星電話にて保安庁や諸関係官庁に接岸予定時刻を連絡、
日没前までの接岸であればCIQ全て対応するとの返事。気がかりなのは「ミニー」はJCI中間検査が切れている事だけで有る。来間島が視認できた、
前夜の雨も上がり視界も悪くない波も穏やかで船内の片づけ、私物のパッキングをぼちぼちと始める。
やがて島の西側沖にあるリーフ先端の立標が視認する。

330度の進路で更に進み、伊良部大橋を通過する航路ブイを右に回頭、
セールを降ろしジブを巻き取る。
これまでも何度か車で渡った事の有る伊良部大橋全長3500メートルあまり、
桁下27メートル「ミニー」は悠々と橋の下を通過できる。艇長は携帯で再度関係機関に連絡し予定より早くなる事を連絡。
荷川取漁港に最近出来たクルーズ船桟橋付近が定位置の係留場所。
6月3日午後5時半接岸、既に税関、検疫、保安庁、小型船舶機構の係官等が待ち受けている。私にとっては台湾レースで石垣港入国以来二回目のヨットによる入国手続きで今回は係官の多さに多少の驚きを受けた。

キャビン内に係官が乗船、税関職員4名明らかに上司に連れられた若い職員で通常の本船ではないヨットでの手続きを経験させようとしているのが見え見えであった。
面白い質問を若い係官が艇長に聞いた「この日を入国に選んだ理由をお聞かせください」「ヨットは風任せですから、事前に入港予定は決められません」「???」。
検疫官は船内で履いていたビーサンの裏を消毒後、PCR陰性検査証明書を確認して
「厚生省のホームページから三日間のコロナ健康情報アプリをダウンロードし報告してください」「義務ですか?」「協力お願いいたします」役人ですから一応伝えなければならない仕事をしている、しかし「私たちは8日間船上で誰も身体に異常をきたしていないので、更に三日自主隔離をする必要が有るのでしょうか?」
気にしていた船検の件も無事に済み形式的な全ての手続きが終えるのに凡そ2時間弱やっと上陸するが足元は揺れ、いわゆる陸酔い状態であった。

24ノースクラブハウスのゲストルームにバッグを降ろし早速シャワーを浴び航海中の潮を流す。上陸後の夜食は「ルル」君の要望で宮古牛の焼肉料理を堪能。翌日船に残されているビール、インスタント食品、調味料等々をクラブハウスに運び船首ハッチ内に入れてあったゴミ袋を取り出し宮古の指定ゴミ袋に分別。買い込んだジェネレータ、冷蔵庫も運び出す。夜は艇長馴染みの「郷屋・はなれ」にて日本食やっと帰国したことを実感する。
翌朝シルバー料金で那覇に帰る。

思えば二年以上前パラオ独立25周年記念レースに参加するこのカタマラン「ミニー」を横浜まで回航しその翌年パラオから回航する予定がコロナというパンデミックで大きく狂ってしまったが、これでこのレースに出るプロジェクトの完遂となった。
同行の 伊藤豊氏 宮沢譲氏 ルル君そして誘ってくれた渡真利将博氏に感謝

2022年令和4年6月10日記憶の確かなうちに記録する、他の事は思い出の中にしまう。

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