ヨット乗りが考察する中山傳信録

鉄瓶・錆び鉄

2018年09月12日 12:00



これまで進貢船に関する書物を何冊か集めて時に任せて読んでいるが、何時もその操船方法が分からず想像するにも具体的艤装と設備等を知る必要が有り、この際訳注された原田禹雄氏の「中山傳信録」から封舟の項を個人的に考察を試みる事にした。その為の資料は末尾に記します。「~」までが私の解釈です。
中山傳信録
    
原田禹雄訳注の書より           


                       冊封琉球国王副使 徐葆光 纂
封舟
  従来、冊封には造舟が重大事とされた。以前の冊封を歴考すると、各地から木を伐り出し、夫役を動員してさわがしく、造船所を開いて造船を監督し、公金を浪費した。不正官吏が関与すると、弊害がはかり知れず、年月をかさねて、やっと使事をはじめたのである。前、明からわが清朝の冊封の始めに至るまで、予算を要し、日時を要すること、前後と も全く同様であった。康煕二十一年(1682年)使臣の汪揖と林隣地は、すぐに使用中の二隻の戦艦を封舟にあてた。以前の弊害が始めて解消したのである。
 現在までの三十余年のあいだ、天下は太平で、海浜は交通がひらけ、沿海の県や鎮は、巨船を多くもつようになった。冊封の命が下り、私共は、福建に到着する以前に、(閩浙)総督の(覚羅)満保に文書を送って、各紙に大船を選ばせて(封舟の)用にあて、あらかじめ修理をして、諸具をすべてそろえてもらった。二隻とも浙江の寧波府から採用し、すべて民間の商船であった。往時の封舟とくらべると、大きさはほぼ同じであるが、経費が軽減されることと、船脚の速いことは、これまでなかったことである《宋の徐兢の『(宣和)奉仕高麗(図経)』をみると、神舟は二隻で、ともに名字が勅賜された。客舟は六隻で、計八隻であった。
「この記述はそのまま読んでしまいがちだが以前はわざわざ造船所を作り冊封の為に造船いていたがお金が掛かり過ぎたり、そこに不正が有ったりしていたが、戦艦をそれに充てて経費を節約していたことが分かる。初期の琉球の進貢船は明(みん)から払い下げられた船を使っていたようですから両舷に砲門が有りました。今回の商船を徴用するという事は単に経済的な事以外にさほど外敵に襲われるリスクがなくなった事もあると思はれる。同時に船足が早くなった事は造船技術の発達と船体が竜骨を中心に肋材を人の肋骨の様に組み強度と容積を増やした船体を作り全体がV字型になった事もあると思う。戦艦は使用する木材の厚さ等などで総重量が大きく船足に影響していたと思われる」
明の封舟は一隻のこともあれば、二隻のこともあった。今回は二隻である
一号船には使臣か一緒にのりこみヽ二号船には兵役をのせる・一号船は前後に四艙あり、各艙は上下三層になっている。下の一層は閉鎖してあって、巨石がのせられており、日用器具がつみこまれている。中の一層は使臣の居室になっている。その両側を麻刀といい、ニ層に仕切られている。左右に八間あって従役の部屋である。艙口の階段は、くの字形にかけられている。艙中の広さは六尺ほどで、寝台ひとつがおける。高さは八、九尺。上は甲板に穴をあけて、天窓の伜になっている。三尺四方ほどで、これで採光している。雨が降ると蓋をするので、昼なお暗く、夜のようになる。甲板の右側は操船のためにあけてある。左の端に、かまどが数基すえられている・木造の閣が舷の外へ一、ニ尺ほどはみ出している。その前後を、葦簀でかこって小屋を一、二ヵ所作り、日中はこの苫屋に、かわるがわるはいって、船艙の中の暑熱を避ける。
「一号船の最下層にバラスト用の石が乗せられていたと記されているがその重量についての記述が他の書物からも見当たらないが後に述べられている船の大きさから想像するに300㌧クラスの船と思われるのでその15~20%位として4~6トンは有ったのではないでしょうか西洋の帆船でもこの様なバラストを積んでいる。階段がくの字になっている事は踊り場にも一層ありその下の層に行く階段も含めての、くの字の階段ではないか。前後に四艙という事は隔壁で仕切られていた事で使臣の部屋の麻刀とはこの書籍の注釈に、素早く、てきぱき、と記されているが有事に素早く出入りが出来る単なる二段ベットの様な事ではないかと思う。甲板の右側は操船の為に開けてあるとの記述は今少し探求の箇所である」
 水艙の水槽には、人をおいて管理させる。「かずとり」を使って給水するが、一人一日あたり水甕一杯である。船尾の虚梢は将台といい旗矛をたて、籐牌や弓矢がそなえられている。兵役のラッパ手が将台の上にいる。
「隔壁と隔壁の間の水艙の水槽が何で造られていたかを想像するに大きな壷が相当数倒れない様マス目状に組まれた桟の中に置かれていたのではないか。現代のように水密の容器は陶器以外には想定できない。一人の一日の水はヨットでも2リットルが標準である。近代の帆船も船尾近くに楼がある、当時200人ほど乗船していた記録が有るので一日400ℓ程になり72000ℓ積んでいたようですから単純に180日分の量になる?72000ℓとは7トンの重量になる?」
将台の下が神堂で、天妃と諸水神が祀られている。その下は柁楼である。楼の前の小さい船室に、(羅)針盤が配置されている。夥長・柁工・接封使臣の針路係がここにいる。船の両側には大小の大砲が十二門、左右にわけて並べられ、兵器も相応のものである。
「近代の船舶でも操舵室(ブリッジ)には神棚やお守りがある、そこには総舵手、航海士、船長が陣取る。コックピットである」
蓆蓬と布蓬が九張はられている・甲板には大木を三本よこたえ軸をもうけ帆綱をまきつけて廻転させヽ蓬を上下する。船戸以下計二十二人、それぞれに分担がある。なかでも、最もすばしこいのは鴉班で、正副の二人がおり、帆柱にのぼって見張りをするが、上り下りはまるで飛ぶようである。兵丁はみな操船になれており。船それぞれに百人いて、操船の補助をする。一号船は千総が指揮をし、二号船は守備が指揮をする。
「竹を薄く削いで編んだ帆蓆蓬と布製の帆が全部で9張・デッキに丸太を3本横たえ、とあるが、描かれている絵を見ると、両舷に渡るような丸太が描かれているが次の文章にある様に幅2丈8尺は当時の寸法でも8m以上にもなるデッキにその様な丸太を甲板の行き来を遮るような配置はいざという時に動きにくくなり作業性も悪く信じがたい。西洋の帆船は甲板に垂直に1mほど立てた丸型の筒にロープを蒔き付けその上部に棒を何本か差し込みその端に取り付いた船員が筒を回る様に作業する。多分、片側を舷側に仕組んで2mほどの幅でもう片方を支える丈夫な支柱が有ったのではないか。それと巻き上げる為に何かしらの歯車と逆転防止の仕組みが無いと思い竹製の帆の上げ下げが人力だけでは大変難しいし、揚げた後丸太の回転を止める為の仕組みが有ったはずである。もしくはロープの端を止める方法が有ったと思う。丸太のまわりに穴を穿ってそこに棒を何本か刺し幾人かのクルーが力を合わせ巻き上げ、停止する為の歯車にくさびを刺す。降ろす時はくさびを外し刺した棒を掴みながら帆がその重量で落ちるのを防ぎながらゆっくりとする事が求められる。同時に帆柱の先端と途中には少なくとも一つ以上の滑車が有ると思う。それでも帆の重量はそのまま丸太にかかる。帆の側にも滑車が付いていればその力は二分の一になり作業性がます。ヨットや帆船でも帆を操るロープは何時でも動かせるよう簡単な作業で固縛と解除ができる様になっている帆船のブレーピンやヨットのクリートや最近のシートストッパーのような仕組みが必要です。その様な考えを解決してくれた本が(山形欣哉著・歴史の海を走る、中国造船技術の航跡)に有った。想像していたロープの止め方や甲板の丸太の形状と使い方が図解で示されている。
同時に竹で編んだ帆の重さの事や使われているロープの材料等々私の一番の関心事である如何に操船したのかのさんこうになる。氏は県立博物館に常設展示されている進貢船の復元にも携わった当時の船の研究者です。」
 一号船の長さは十丈、幅二丈八尺、高さは一丈五尺である《前明の封舟は船尾の虚梢をふくめて長さは十七丈、幅三丈 34一尺六寸、高さは一丈三尺三寸であった。
(一号船は船長約30m船幅8m船底から甲板まで高さ4,5mでほぼ100ftのヨットに近い)
嘉靖年間、正使の陳侃と副使の高澄らは、題本をもって定式を訥いたてまつった。嘉靖三十八年(。五五九)の封舟は、旧式によって造られ、長さは虚梢ともで十五丈、幅は二丈九尺七寸、高さは一丈四尺であった。(船長45m船尾上のキャビンが多少甲板より後ろに出ている事か?船幅8m余、高さ4m余、少し細長いか?)
万暦七年(一五七九)に作った封舟は、虐梢ともで(長さは)十四丈、幅二丈九尺、高さ一丈四尺であった。(船長42m、船幅8m余、高さ4m余前の船型とほぼ同じ)
崇禎六年(一六三三)、附使の杜三策の従客の胡靖の記録では、封舟の長さは二十丈、幅六丈であった。
(船長60m余、船幅18m余とは少しずんぐり船型に思える)
本朝の康煕一一年(一六六三)の張学礼の記では、形は機の梭のようで、長さ十八丈、幅二丈二尺、高さ二丈三尺であった。
(船型は機織り機のシャトルの様な船型で船長55m弱、船幅6,5m、高さ6,5m余ずいぶん細長い)
康煕二十二年(一六八三)の汪揖の記では、二隻の鳥船を選んで用にあてたが、船の長さは十五丈あまり、幅二丈六尺であった。『海防附』に「熢火営の鳥船一隻、長さ十一一丈三尺、幅二丈五尺。閩安中営の鳥船一隻、長さ十二丈二尺、幅一一丈六尺五寸」とある》。前後の四艙は四つの水艙で、水槽四つと水桶十二があり計七百石の水が貯えられる。(貯えた水は72000ℓ程に成るが少し疑問?)                                 
柁は長さ二丈五尺五寸、幅七尺九寸である西洋の製造法であって、來板柁と名付けられ,勒吐が不要である鉄刀木で作られ、塩柁といい、海水の中に漬けると、ますます固くなる《前明の封舟では、鉄力木の柁を三門作ることになっていた。各門の長さ二丈五尺五寸である、大纜で(柁に)つないで、船底から(船を)かこんで船首につながる。これを勒吐といい、籐で作る。今回のニ隻の封舟は、すべて商船を選んで使用した。二号船は、鳥船の作り方で、勒吐が二条用いられていた。一号船は西洋の來板柁なので、勒吐は不要であった。また、副柁も置かなかった。開洋の時に、福建の有司と副柁を置くことについて論争になった。本船の夥長の林某が、「船の柁は、西洋の造り方で、最も堅固で安全でございます。副柁がなくともよろしゅうございます。それに柁の重さは万斤もあり、船内に副柁を置くところはございません」と言ったので、遂に副柁を置かなかったのが、これまでと少々ちがう点であるとのことである》。
「柁は舵の意であるが西洋式の舵とこれまでの舵の違いが興味深い、西洋式とはラダーシャフトが船体船尾と蝶番の様に船体と繋がっているので「ガッションの様なもの」舵軸と舵面が安定し横からの波の衝撃に対し強くなるが、舵軸「ラダーシャフト」の下端を記述の様に藤蔓で造った丈夫なロープを両舷から船首まで取り回し固定していると書かれている「当時の船を描いた画にも勒吐が描かれている」その為舵軸が左右に不安定あそびなが有り広い舵面に横波が当たると勒吐が切れ操船不能で流される事が起きる、その為予備の柁「副柁三門」を要する必要がないと船長が言っている」
大桅は長さ九丈二尺、周囲九尺。
(メインマストは長さほぼ28mで根本の周囲2,9mの大木、甲板からでも23m、ヨットで見ると80ftクラスにもなる)
頭桅は長さ七丈二尺、周囲七尺。(フォアーマストは長さ22m周囲2,2mこの事からスクーナー型の船型であることが分かる)
櫓は二本で、長さ四丈、幅二尺三寸。
(入出港時に使用したか。櫓は2本準備されている、長さ12m余、幅70センチ程)
椗は大小それぞれ二つ。大きいものは、長さ二丈七尺。小さいものは、長さ二丈四尺。すべて幅八寸及び七寸。个の字の形をしている。すべて鉄カ木で作る。
(碇・錨を大小2個用意していたことが分かるが、画には船首左右両舷に縛られる様に描かれている。形状は个の字を逆さにした様な形で現在の形状と同じ、鉄刀木は固く重い黒檀、紫檀に類似)
椗の上に棕欄縄が二本、長さ一百托、周囲一尺五寸《字書をみると、碇は舟をつなぎとめるおもりの石である。矴と同じ字である。椗という字はない。今は木で作るので、俗字は木ヘンである》。
(碇のアンカーロープは長さ、190m余ロープの周囲は48cm直径約15cm少し太すぎるように感じる。縄の材料は何か?)

この書物「中山傳信録」は封舟以外にも多くの項目で当時の琉球の見分を記している。それらの事は多くの研究者が取り組んいる。私の関心事である「帆船・船」についての考察を独断であるが書いてみた。
参考にさせて頂いた本は以下の通り
「重編使琉球録」・「歴史の海を走る」・「海の日本史再発見」・「使琉球記」・「朱印船時代の日本人」・「航海術・海に挑む人間の歴史」・「熊野海賊」

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