海に消えた人達の記憶

鉄瓶・錆び鉄

2011年04月18日 15:05

今度の事で明け方の微睡の中で思い出した海に消えた人達がいる。

第一話遠い記憶の中にウインドサーフィンで八重山から与那国を目指した
一人の青年がいた。彼はよく単独でチービシや慶良間・久米島等
と本島の間をセーリングしていた。
転勤を機に八重山諸島の間を同じように楽しんでいたとの事、
ある時、それなりの経験から、次の目標を与那国までの単独セーリング
を思い立ったのでしょう。スタートしてしばらく経っても与那国に
到着したような形跡もなく、仲間たちが捜索を始めたが、大きな成果もなく
打ちひしがれていたと云う。何日かたって彼のボードが島の海岸で見つかったが
其処には彼の姿は無かった。

第二話沖縄国体が終わって二年ほど経ったある日、友人からタンデム(二人乗り)
ウインドサーフィンで、台湾を目指す男が来るのでチョット手伝ってくれ。と話があった。
それはカヌーにデッキを付けたようなボードに二つのセールが展開できるように作られたウインドサーフィンと云うには変わった船型であった。
細長いボードと云うか船体は、デッキの下に人一人が寝られるくらいの
空間と多少の持ち物や食料が詰め込めるようになっていた。
確か年が明けて間もない季節風の吹く寒い頃だった。
宜野湾マリーナから、私たちの乗った船に牽引されて、沖合のリーフの
外まで行き、リリースした。危なげなそのセーリングは何かを予感させる後ろ姿であった。
遠く小さくなるまで見定めて帰港した。何日経っても何の情報もなく、
家族からも如何なっていますか?との連絡があったが、
行方知れずのまま時間が過ぎ今日に至っている。

第三話当時日本が開催する最も長距離のヨットレースがグワムレースであった。
1991年の暮れ寒い神奈川県小網代沖をスタートして、暖かいグワムまで凡そ
1800キロのレースは過酷でもありロマンでもありその達成感は何にも代えがたい
経験になるはずであった。スタートして4日目海は冬らしく時化ていた。2艇遭難!
その中で「たか号」は、大きな波をかぶり横転浸水しクルーはライフラフトに
乗り移り漂流。その後ラフトの中で次々と命は失われ、一人だけ救助された
他の一艇「マリンマリン」はいくつかの事故が重なり時化の中でキールが落脱し転覆
脱出できた二人が転覆したヨットにしがみ付いているところを救出されるも一人生存。



たか号」には私も時々乗ったことがあるヨットの設計者でベテランのセーラーとしても
知られていた武市氏も含まれていたが、帰らぬ人となった。生存者の佐野三治氏の本がある。




第四話1997年、セール大阪と題しアジアでは初めての大掛かりな帆船レースがあった
世界各国からの帆船15隻とヨットを含め50隻余の参加であった
コースは香港~沖縄~鹿児島~大阪を一か月余りをかけて帆走するのである。
特別なカテゴリーでその時はヨットもそのレースに参加ができる事に成り、
沖縄からも4艇のヨットが参加した。

私もクルーとして参加する予定であったが、主催者のメンバーであった故大儀見薫氏の
推薦でで寄港地沖縄の受け入れをするスタッフに加わる事になった。
参加したヨットの中にはあのアメリカスカップの日本チームキャプテン南波誠氏も参加していた。
私が本格的にヨットを初めてまだ間もないころ、J24クラス全日本大会のヨットレースが
渥美湾で開催された。そこに参加した時、色々とサポートしてくれたヨットマンが南波誠氏であった。

南波氏の操るヨットは順調に香港~沖縄~鹿児島と帆走し、最後のレグ鹿児島から大阪までの
スタートを私は晴天の大隅半島の沖合で知人のヨットに乗り込み見送った。
その後、沖縄に帰り翌日南波氏のヨットの遭難をニュースで知った。
まさか!の思いと何があったのだ!との思いが頭をよぎった。
1997年4月23日、四国の沖合で時化の中、ワッチ交代の間隙に
大波を受け大きく傾いたときに波を被り浚われたとの事
その後ヨット仲間を中心に何日も捜索したが未だ行方不明である。

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