いま私は昨今話題の「尖閣諸島」をきっかけにするのではないが、以前から
明・清と琉球との冊封に使われた船「封舟」「進貢船」の帆走能力や帆船としての様々な
スペックに興味がありこれまで古書店で当時の使録を機会あるごとに収集してきました。
「中山傳信録」「冊封琉球使録集」「使琉球記」や東恩納寛惇の「黎明期の海外交通史」
バジル・ホールの「大琉球航海記」等に書かれている当時の帆船にまつわる航海術や食糧
風習・乗組員の数等を抽出してみたいと思っています。
かなりの情報になるので一定の集約を見るのは何時に成るか分かりませんが
所々面白そうな記録を見つけたら、此処に書いてみたいと思っています。
最近琉球の(沖縄の)歴史について分かりやすく当時の絵画や絵図をふんだんに使い
色鮮やかに記述された本が多く出版されていますが、その内容は人物や物品
風習や文化等が中心です。
今更私が似たような分野を面白く取り出しても自己満足にしか成らないので
最も興味がある得意とする分野「ヨット」をキーワードに読み解いてみたいと思います。
ある時期,数年にわたりヨット教室の講師をしていたことがあります。
その時何時もこの様な事を参加者に聞きました。
「琉球王府時代当時の帆船は中国の福州まで最短で何日掛ったのでしょう?」
多くの参加者は福州までをかなり遠くにあるとイメージしています。
返事の多くは10日~30日ぐらいです。実はいわゆる順風満帆の条件では
5日前後で航海していたのです。記録には4日というのもあるようです。
もちろん気候的条件が整わないときは30日以上もかかった事もあったようです。
当時使われていた羅針盤は下図の様な方位で表されていました。
盤の中央には小さな磁石を用いた羅針器がありその周りにこの様な方位を表す
文字が刻まれていました。これは「唐針(カラハーイ)」とも呼ばれていて、
時には「風水」にも使われたようです。
使われている文字はお気づきのように十二支と八卦・十干に使われている文字です
ある時は占いや易にも使われています。
船の大きさは、平均的に長さ44メートル、200トンにもなる大きさで
沖縄県になる明治までの約500年の間に10万人程度の行き来があったとされています。
徐葆光の「中山伝信録」によると船には琉球の今の座間味島出身の船員が
多数乗っていたとの事、また重要な航海士や操舵手にも琉球人がその役割を
負っていたことが書かれたいます。