冊封琉球使録の中から読み解く「封舟」の能力その三

鉄瓶・錆び鉄

2013年03月24日 14:43

先日県立図書館に行って「指南広義」程 順則著
(てい じゅんそく、1663年11月27日 - 1735年1月1日)
は、第二尚氏王統の琉球王国の士族。
琉球名は寵文(ちょうぶん)。名護親方(なぐうぇーかた)


を閲覧コピーしてきましたが如何せん全て中国語で書かれたいるので
所々字面の意味するところから大意を推測するしかありませんが、
その中から海図らしき絵図がありましたのでご紹介します



見にくいのですが左から福建までの目標と成る島影をスケッチした絵です。
左端が中山(琉球)次が慶良間・久米島・大正島(赤尾嶼)・久場島(黄尾嶼)
そして魚釣島(釣魚嶼)最後の右側にある島が花瓶嶼という島で閩港沖合にある島です。
ここまで来るともう福建閩港は目の前なのです。
写真は今の福州閩港入り口付近の写真です(グーグルアースより)
実際の閩港は川の上流にあります


グーグルアースでこの花瓶嶼を探すと其処は台湾基隆港の北に小さな島がいくつか見えます。
今では台湾の観光地となっていると聞いています。
別の海図を見ると

地図には当時の琉球は見えませんが今の台湾が「小琉球」と成っているのがわかります。
話はそれますが、実は現実に台湾高尾の南約20キロに
「小琉球」地いう島が実在しているのです。
高尾に観光に行った時には日帰り観光ができます

さて話は戻りますが色々な航海に関する本を読んでいますと
福州から琉球(中山)に行くときはかなり慎重に航路を定め航海をしている
様子が読み取れますが、帰路は結構大まかなのです。
慶良間や久米島はほぼ視界のなかですから進路等はさほど気にする事もなく
航海できますが、その先はほぼまっすぐ西に行って着いた大陸の港に行けば
言葉が自由に通じ何処かが分かるので、
沿岸沿いに移動することが容易であったのだろうと推測できます。
ある冊封琉球使録には風の影響や潮流によって今の伊是名島やはたまた徳之島辺りまで
北に寄ってしまい、中山まで南下することを余儀なくされている事が書かれています
又、南に行ってしまうと琉球と太平山(宮古島)の間を
太平洋まで行ってしまうリスクがあります
「中山傳信録」の中にこのような記述があります。
「指南広義に描かれている方位は少し北に向きすぎているきらいがあるので、
 ようよう注意することが肝要」

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