冊封使徐葆光が残した「中山傳信録」に見る当時の封船について
以下は原田萬雄氏が和訳した「中山傳信録」からの抜粋に
近代ヨット(帆船)としての個人的注釈の試み
ヨット愛好者の皆さんに当時の帆船の様子を知っていただきたいと思っています。
以下の文章は1683年の冊封の時の使われた帆船の規模の話です。
一号船には使臣が一緒にのりこみ、二号船には兵役をのせる。一号船は前後に四艙あり
各艙は上下三層になっている。下の一層は閉鎖してあって、
巨石が載せられており(
バラストです)日用器具がつみこまれている、中の一層は、
使臣の居室になっている。その両側を麻力(
ボンク・バース)といい、
二層に仕切られている(
二段ベット?)。左右に八間(8部屋)あって従役の部屋である
艙口(
ハッチ又はドックハウス入り口)の階段は、くの字形にかけられている。
艙中の広さは六尺ほどで、寝台ひとつがおける。高さはハ、九尺。上は甲板に穴をあけて
天窓の枠(
ハッチ)になっている。三尺四方ほどで、これで採光している。
雨が降ると蓋をするので、昼なお暗く夜のようになる甲板の右側は操船の為に開けてある
左の端に、かまどが数基すえられている。木造の閣(たかどの)が、
舷の外ヘー、二尺ほどはみ出しているその前後を、葦簾(よしず)で囲って
子屋を一、ニカ所作り、日中はこの苫屋(とまや)に、代わる代わる入って、
船艙の中の暑熱を避ける
(
たぶんトイレと兼用、今でも一部の船では舷の外にはみ出したトイレがある)
水艙の水槽には、人をおいて管理させる。[かずとり]を使って給水するが、
一人一日あたり水甕一杯である(
今のヨットレース等では1人2リットル程度が標準)
船尾の虚梢は将台といい、旗矛をたて、籐牌や弓矢がそなえられている。
兵役のラッパ手が将台の上にいる。将台の下が神堂で、天妃と諸水神が祀られている
その下は柁楼(
ブリッジ)である。楼の前の小さい船室に、羅針盤が配置されている
(ナビゲーションルーム)。夥長(スキッパー)・柁石・接封使臣の針路係がここにいる
船の両側には大小の大砲が十二門、左右にわけて並べられ、兵器も相応のものである
蓆蓬と布蓬(
竹で編んだ帆と布で創作られた帆)が九張はられている
(張る事が出来ると思う)。甲板には大木を三本よこたえ、軸を設け帆綱をまきつけて
廻転させ(
ウインチ・キャプスタン)、蓬(
帆)を上下する。
船戸以下計二十二人、それぞれに分担がある。なかでも、最もすばしこいのは鴉班で、
正副の二人かおり(
マストマン。・バウマンか?)、帆柱にのぼって見張りをするが、
上り下りはまるで飛ぶようである。
兵丁はみな操船になれており、船それぞれに百人いて、操船の補助をする。
一号船は千総(人名です)が指揮をし、二号船は守備(人名です)が指揮をする。
一号船の長さは10丈(約32m)、幅2丈8尺(約8.8m)高さは1丈5尺
(船底からデッキまでと思う)である
以下は過去の船のデータです
嘉靖三十八年(一五五九)の封舟は、旧式によって造られ、長さは虚梢ともで十五丈、
幅は2丈9尺七寸、高さは1丈4尺であった。
万暦七年(一五七九)に作った封舟は、虚梢ともで(長さは)14丈、幅二丈九尺、
高さ一丈四尺であった。
崇禎六年(一六三三)、冊使の杜三策の従客の胡靖の記録では、
封舟の長さは二十丈(約64m)、幅六丈であった。
本朝の康煕二年(一六六三)の張学礼の記では、形は機の梭のようで、長さ十八丈、
幅二丈二尺、高さ二丈三尺であった。