久しぶりです。あれから色々な事があって此処にたどり着けませんでした。
落ち着いてきたので再びこの作業に打ち込みます。
冊封使徐葆光が残した「中山傳信録」に見る当時の封船について
以下は原田萬雄氏が和訳した「中山傳信録」からの抜粋に
近代ヨット(帆船)としての個人的注釈の試み
当分は本文に書かれている寸法や重さ等を今使われている尺度に換算してみますが
幾分本当に当時そのサイズだったのか疑問に感じる事がありますが、
和訳された本書に書かれている注釈に準じて換算します。
個人的な考えは後に記したいと思っています。まずは、
ヨット愛好者の皆さんに当時の帆船の様子を知っていただきたいと思っています。
さて、前回その時々の船の大きさや偽装のことを書きましたが
大きい船にはこのように書かれています
前後の四艙は四つの水艙で、水槽四つと水桶十二があり、
計七百石(約7万ℓ余)の水が貯えられる。
柁(舵)は長さ二丈五尺五寸(
約8m舵軸を含む思われる)、幅七尺九寸(約2.5m)である。
西洋の製造法であって央板柁と名づけられ・・・・・
勒吐「ろくと」(
これより以前の船では舵を直接動かすティラー「舵柄」が無く
舵に籐で作った二本のロープを取り付け両舷に回し船首よりデッキに回し込み
ウインチ(キャプスタン)に巻き付けることで舵を切っていたと思われる)
この絵の舵に注目してください舵に取り付けられたロープのようなものが見えそれが船首にまで
伸びているのがわかります。これが
勒吐です
・・・・・勒吐が不用である。鉄力木(鉄のようにかたい木「黒檀・紫檀の類」で作られ、
塩柁といい、海水の中に漬けると、ますます固くなる《前明の封舟では、鉄力木の舵を三門作ることになっていた
(舵が壊れることがよくあったので予備を積んでいた)。
各門(舵)の長さは三丈五尺である。大纜で(柁に)つないで、船底から(船を)かこんで船首につながる。
これを勒吐といい籐で作る。
今回の二隻の封舟は、すべて商船を選んで使用した。二号船は、鳥船(福州閩付近の船の形式)
の作り方で勒吐が二条用いられていた。一号船は西洋の夾板柁なので、
勒吐は不要であった(
ラダーシャフトにティラーが組まれている)
また、副柁も置かなかった。開洋の時に、福建の有司と、副柁を置くことについて論争になった。
本船の夥長(スキッパー操舵長)の林某が、「船の柁は、西洋の造り方で
(
舵軸(ラダーシャフト)をデッキ上まで伸ばしこれにティラー「舵柄」を組む、
おそらく常に二人で抱えていたと思う)、
最も堅固で安全でございます。副柁がなくともよろしゆうございます。それに柁の重さは万斤もあり
船内に副柁を置くところはございません」と、言ったので、遂に副柁を置かなかったのが
これまでと少々ちがう点であるとのことである》。
大恑(メインマスト)は長さ九丈二尺(約29m余)、周囲九尺(約2.8m≒直径89cm)
頭桅(フォアーマスト)は長さ七丈二尺、周囲七尺。
櫓は二本で(帆を使わない時櫓で船を進めたと思われる。例えば入江の風のない静かな海で)、
長さ四丈、幅二尺三寸。
掟(錨)大小それぞれ二つ。大きいものは、長さ二丈七尺。小さいものは、長さ二丈四尺。
すべて幅八寸及び七寸。奎の字の形をしている。すべて鉄力木で作る。
掟(アンカー)の上に椋欄縄(アンカーロープ)が二本、長さ一百托(約190m)
周囲一尺五寸(直径約15cm)
大恑の蓆蓬(メインセール)は、幅五丈二尺(約16.5m)、長さ五丈三尺で、
帷櫨索(ハリヤードか?)は三本、長さは三十五(67m)托、周囲一尺二寸。
線母索(セールトリムのためのロープ?)は二本で、長さは、十五托(28m)、周囲一尺五寸。
頭桅(フォアーマスト)の蓆蓬(トップスル又はロイヤルセール?)は、幅二丈二尺、長さ二丈八尺。
大恑の先端の蓬(帆)を頭巾頂と名づけ(
これは当時の絵を見ると布製と思われる)、
官舟だけか使用を許され、商船は使用できない。長さ五丈四尺、幅は五丈
大椀の下の布蓬を、篠桔と名づける。長さ六尺、幅は一丈五尺。
頭桅の上の布蓬を頭瞼と名づける(フライングジブ又はフォアーステイスル)上がとがり、
下が角形の三角形で、長さ三丈、下幅は二丈ハ尺。捕花布蓬は長さ囲丈ハ尺、幅は三丈四尺。
計、蓬(帆)は九道。(様々な形状と仕様目的の異なるセール合計9枚)
いずれにしても泊港にある泊大橋の桁下が25mですからいかに大型の帆船であったかが
解ります。両手で抱え込むようにロープを掴み、竹の皮(たぶん)で編まれ屏風のように
折畳める重い帆を上げ下げし更にその帆の端から延びるロープを操りセールトリムをし
福州から琉球まで約700海里にもならんとする距離を、砂時計と小さな羅針盤と
人の経験と勘の艇速、更に星を使って
冊封の為に琉球に来ることは
大変な決断と成しえた時の名誉とがあったと思います。
そしてこの冊封が琉球の歴史において24回(23回説あり)もなされ、その度に
300人~500人とも言われている使節団の半年以上の琉球王府の接待は
如何に大変なことかが想像できます。
加えてそれぞれの航海に琉球の船乗りが(海人)多数乗り込みまた重要な立場で
この船を操っていたことは大いに自慢していいことと思います
慶良間諸島や渡名喜、久米島の海人がいなければ或いはこの様な航海も
出来なかったかも知れないのです。
・・・・・・・・喝采!!!!