てぃーだブログ › 男の独白

【PR】

  

Posted by TI-DA at

2023年09月24日

普天間

かなり前に書いたブログですがもう一度掲載します

 このブログで政治的問題について書く事はは、ばかりますが、あえて少しかきます。
昨今の普天間問題は、個人的には細かい事は別に、広く国民に対し沖縄が置かれている
日米安全保障条約上の位置づけと現状を少しでも知っていただけた意味で、
良い機会であったと思っています。
しかし、全てのマスコミを見聞きしている訳では無いのですが、一つ重要な検証と総括
が為されていない様に感じます。
それは、歴史に「モシモ」は有りませんが、
戦後、沖縄に基地が造られなかったら・・・
今はどうなっただろうか?日本の繁栄はあったのだろうか?・・・
日米安保が締結されていなかったら、?????
誰かこの様な視点でシュミレーションをしてください。
それぞれがその事を想像し、考えるいい機会だと思います。
その事が、真に沖縄に基地が必要か、日米安保が必要か、
の根底を思い描く機会と思っています。
けして、現状をそのまま認めるわけでは有りませんが、これを機会にもう一段深く、
これからの沖縄、日本を広く見直すチャンスと思っています。



1853年7月浦賀にペリー艦隊が来て、米国独立記念の祝賀と称し
大砲を何発も鳴らし、江戸幕府を脅し開港を迫った。
その時からさかのぼる事2カ月前にペリーは琉球国・那覇沖に来て同様に大砲を鳴らし
脅し、上陸し、交易を迫り、琉球を補給基地として浦賀に行ったのです。
更にペリーは帰国後、琉球の地政学的位置の重要さに気付き、当時の米国政府に、
将来米国がアジア地域にその勢力を展開する時は、琉球が敵地で有る事を
報告したとされています。
キーストン・オブ・パシフィック


1964年頃丁度ベトナム戦争が始まってすぐの頃から米国は沖縄に嘉手納以外の
戦略的空港を画策していたようです。
そこが今問題の辺野古なのです。1966年には、ほぼ今の計画に沿った飛行場建設の
プランが米軍の中で報告されています。日本国はさも自分たちで計画したかのような事を
話していますが・・・・・・・


19669年の報告書に有る計画図

では、鳩山さんも退任時のスピーチで”日本はこのまま50年~100年外国に
その安全を委ねていても良いのでしょうか”
と云うような事を述べていましたが、
本当に日本は自ら国を守るようになるのでしょうか?もしそうなったら、
沖縄に基地を置くのでしょうか?
結局米軍基地が日本軍の基地になるのではないでしょうか


V字型滑走路案の前の計画図似ていますね

1609年薩摩侵略により、琉球は実態として薩摩の傀儡国となり、
さらに1872年強制的に「琉球藩」となり、1879年明治12年「琉球藩」から
「沖縄県」にされたのです。
日本国は、自らになると思った小石を靴の中に取り込み、
その後自分の足裏で踏みにじり石ころに垢を擦りつけて、
1945年ついにその小石を靴の中の小指の先に追いやり
足の不快感を取り除いたのです。
その事によって足も体もは成長し大きく成って行ったのですが、
事今となって小石にたまった様々な物が原因で指が化膿仕掛かって来たので、
取り除くには、切って捨てるかこの際、他所に移植してしまうか
綺麗に消毒し再び靴の中に置いとくか、自分で出来ないので他人にその方法を覗っている
ように見えるのです。とは言っても自らの国を自ら守る事は自明の理です。



何れ、歴史はこの普天間の事を忘れてしまうかも知れませんが、
出来る事なら目の黒いうちにその行方が見たいと願っています。  


Posted by 鉄瓶・錆び鉄 at 15:00Comments(0)私のTUBUYAKI

2022年06月18日

カタマランヨット「ミニー」パラオからの回航記

カタマランヨット「ミニー」パラオレース後二年余を経て宮古島へ回航乗船記

成田国際空港グアム経由パラオ~宮古島荷川取港2022年5月11日~6月3日

北へ


もう二年以上になるかカタマランヨット「ミニー」でパラオ独立25周年を期した日本パラオ親善ヨットレース」に参加の為、宮古~宜野湾マリーナ~横浜ベイサイドマリーナへと回航するとの渡真利氏からの電話を承諾してから・・・私は宜野湾マリーナから東京からの宮沢氏とともに合流2019年末冬の北上である、あれから二年余

2022年3月再び渡真利氏から一本の電話、いよいよコロナ騒ぎで封鎖されていたパラオに条件付きながら入国が可能になったので帰国できなかった「ミニー」を引き取りに行くのでどうか?との事である。パラオには少なからず縁が有るので即了承。
それは亡父の若かりし頃の「海王丸」の実習航海でポナペやパラオに寄港した時の写真やその様子の話を子供ながら聞いていたことが有るからである。行く事で多少の供養になるかとも思った。
5月の出発で予約を取るが、航空会社の減便の為大阪からの便がキャンセルとなり改めて東京~グアム~パラオの便を取り直す。
11日成田に渡真利、伊藤、宮沢が出国カウンター前に顔を揃える。米国経由の為PCR検査陰性証明書は一日前の書類が条件であった。慌ただしく書類を揃え無事搭乗。
私にとっては久しぶりの海外渡航である。ユナイテッドの機内でスピルバーグの「ウエス・トサイド・ストーリー」が前の座席の背中にある小さなスクリーンに映し出されていた。オリジナルの記憶が有るのであの時のシーンがこの様に演出されているのか等と思いながら最後まで見てしまった。見ただけでも大体理解できた。

グアムで短い時間の乗り継ぎ、ターミナル内を階下と階上へと移動、入国と出国、日付が変わろうとする頃パラオに到着。渡真利氏のパラオの友人の手配で迎えの車に乗りホテルに深夜チェックイン。車は右ハンドルの右側通行チョット戸惑う。雨模様。
翌朝泊まった宿は「ホテル&アパート」と表示されている。外観は何となくコロニアル風の3階建てで部屋の前の廊下はテラス風にかなり広い、その廊下から目の前には静かな入り江に幾つかのヨットが係留ブイに舫われ漂っている。海面からすぐ緑に囲まれた大きな岩の様な小島と低く伸びた島の様な茂った小島に囲われたこの入江はRPYC(ロイヤルパラオヨットクラブ)が管理しているようだ。目の前の大きく茂った木で見えなかったがこの入江の手前側にパラオレースの表彰式が行われたポンツーンの有るカフェが有る。
この店の責任者は渡真利氏の既知の方で朝食後「ミニー」の係留を解きにこれまた当地の友人の操る双発の大型船外機付きボートに抱かれてカフェのポンツーに移動。長い間の高温多湿に傷んだエンジンは働かなかった。手際のよい移動で右舷を浮桟橋に付ける事が出来た。電気設備は無いが水は十分に使う事が出来る。
実はこの入江に浮かんでいるカタマランの中の一艇は友人がオーストラリアから沖縄まで回航途中である。この船も長期に渡って外国に留め置いたせいか操舵系に支障をきたしていたので私たち同乗者の宮沢氏が依頼された用品を東京から持参していたのである。
昨夜到着した空港でその用品は渡されている。私達はこわごわとキャビンに入ると予想通りいたる所中はカビに覆われていた。
早速、用意した漂白液を希釈し艇内の拭き掃除である。ハルに付着した汚れは現地の「ルル」君が借りてきた高圧洗浄機で洗い落とす。渡真利艇長は動かないエンジン蘇らせるべく懸命である。日中の暑さと頻繁に降るシャワーの様なスコールの為クッションなどの日干しがやりにくい。
電動のトイレやキャビン内の照明等々電気系も接触不良や湿気で生じた錆で断線状態。
力のなくなったバッテリーを新品と交換。すごい汗で脱水による体の維持の為水やポカリは欠かせない。昼食は当地の友人から借りたホンダのワンボックスカーで距離500メートルほど離れた「ドロップ・オフ」に向かう、
いかにもリゾート地のオープンレストランである。いきなりの暑さで食欲があまり無いが渡真利艇長の勧めでクラブサンドを二人でシェアーする。さすが量が多いいシェアーが適量であった。私はアイスティーだが他の三人はローカルビールでポキ(鮪)のサラダ、ツナミハンバーグを食する。この場所ではフリーWi-Fiが繋がるが、「ミニー」の係留場所にはその環境下には無い、両舷の前方にある係留索等を保管するスペースのハッチを開け中にあるダメージを受けて使用できない様々な物をデッキに揚げ破棄と洗浄をする。
カタマラン特有の船首部分のタランポリンのネットを留めてる細めのロープも風雨に曝されていて傷んでいるので数十か所あるすべてのそれを交換する事とする。太陽光発電パネルからのバッテリーへの充電経路もその役割をしていなかった。
まずはエンジンの回復である。もっぱら渡真利艇長の役割であった。極暑の一日、夕刻前にホテルに撤退する。

初日はひとまずこれからの整備に必要な用品等を購入のリストを作りする事になる。
ホテルは長期滞在もできるキッチンと冷蔵庫も有り、二人ずつ隣り合わせの部屋で夜食は集まって渡真利艇長の手料理と缶ビールでこれからの作業の打ち合わせをしながら床に就く。宿にはフリーWi-Fiのピンコードが割り当てられていたが数日の有効期限であった。
翌日スコールの合間を見てキャビンのクッションや毛布類を日干する。パラオレース後にギャレーに残されていた調味料、保存食料品も賞味期限に不安な物を全て破棄する、
水タンクも残りを捨て、新たに満タンとして何度か空にする事で完ぺきとは言えないが洗浄する。それにしても切りの無いような掃除と洗浄と電気系のチェック、キャビン内の壁と床至る所の拭き掃除である。
艤装品の動作確認で何日かを終える。部屋での食事の為の食料と酒も買い出しをする。
市内にかなり大型のスーパーがメインストリート沿いに二軒向かい合わせにある、右の店か左の店かで互いの会話の中で通じる事になる。
どうやら右の店はオーナーがモスリムの様で休業日が他店と異なっていた。
それぞれ二階は衣料品や家電用品を売っている何でも有りの大型店であった。

日本人の経営する飲食店も幾つかあり殆ど居酒屋的メニューでパラオ風のメニューも有る、いずれもパラオに来る日本人ダイバーにとっては安心できるメニューの様であり当地の住民にとってはチョットレベルの高い店の様だ。
所で、売られていた日本ブランドのビール缶A社の辛口が多く見られたが全て330㎖
である更に製造国は中国でした、容量が日本と違う理由は?
買い出しに行くと肉は安いが野菜果物は高い事がわかる、ほとんどフィリピンか米国からの輸入で海が荒れると、それらが店から姿を消すとの事。かつての沖縄と似ている。
酒類も安い税率の違いだろう。購入している現地の人たちの殆どがカードであり、店員が購入後の袋詰めや車までの運搬もやってくれる。多様な言葉と人種が住んでいるので店員は日本人と見ると多少日本語で対応できる。
使うカーゴのサイズも大型のものが多くアメリカ的であった。その為なのかレジのカウンターはベルトコンベアーの様に商品を一定以上置くとレジ係はベルトを移動させバーコードを読み取っている、レジ作業は椅子に腰かけているのである。
日本のスーパーとは大分違う。パラオの平均的所得は日本円で月10万円程度と聞いた。

夜、沖留めのカタマランのオーナーとキャプテン役の友人Y君、クルーを渡真利艇長が既知のインドカレーの店に招待する。実はY君とオーストラリアに行く前にパラオでミーティング出来たら面白いねと話していた事が期せずして実現し縁の不思議を思う。
更にオーナーも私の知人であったのには驚きだった。
渡真利艇長に二人を紹介しながら本格的なインドカレーでの会食となった。
オーナーは達者な英語で注文の仕方から食通らしい所を感じた。渡真利艇長は何度もこの店に来た事が有るので、好みのメニューを注文していたが、私達はお勧めカレーの説明を聞き注文をして互いの無事な航海とこれからの親睦を新たにした。
私とY君はこの地で再会する事のタイミングの妙に話題が行った。同行の皆もそれぞれにヨット談義に盛り上がっていた。「ミニー」によるタイのキングスカップ連続優勝の話は特にオーナーの関心をさらった。

翌日も整備作業はいたる所のダメージの回復に手をこまねいている。両舷の船室に備えられている電動トイレが配線の腐食や、ポンプ等の不調により機能しない。
手動ビルジポンプも動作せず、事前に予想していたので持参した部品との交換等々エンドレスな整備作業が続く。あまりの暑さに船室内の何処に居ても滴る汗には閉口する。
私は携帯をズボンのポケットに入れていたが汗で動かなくなってしまった。
「ルル」君に修理出来る所に出してくれるよう頼む。同行の伊藤氏は熱中症の症状を呈したのでホテルに戻り休むことになった。幸いにホテルと桟橋までは二百メートルも無い。
当地に向かう前は整備に一週間程度のつもりであったが、必要な部品用品がなかなか手に入らず何とか工夫するしかなかった。備え付けの発電機も腐食の為使えず又冷蔵庫も止まってしまっているので急遽小型のエンジン発電機と冷蔵庫を購入し持ち込むこととなる
以前から搭載の小型の冷凍冷蔵庫も十分冷える事は無いが取り敢えず使える状態である。作業の合間を見て回航中の食料の買い出しをする。生鮮野菜等は出航前日に購入する事として、ディーゼル燃料の予備ポリ缶や発電機用のガソリン用ポリ缶も購入、
ポリ缶は良くできた安全重視となっていた。日本の安全基準との違いを感じる。
デッキの両舷に20リットルの燃料ポリ缶を七缶ずつ固縛する。ガソリン缶はコックピットテーブルの下に置く。

何日か経ち一応のヨットとしての機能の回復を確認するためにその日はロックアイランドエリアをクルージングする事になる。その景色は絵葉書の様に素晴らしく世界中からダイビングに来島、又クルージングで寄港する理由が良く解る。パラオは島の周辺をリーフで囲われ中はラグーン状態で穏やかな海である。十年以上ここに通ってダイビング客を誘致している本業の24ノースの社長である渡真利艇長の本領発揮であった。

戻ると左舷側のエンジンがどうも調子が悪い事を彼は気にしていた。
先日食事に誘った返礼かY君のオーナーから「ドロップオフ」での夜食のお誘いが有り
19時すぎに合流し互いのヨット談議に花が咲く楽しい一夜となった。プールサイドではレゲエ調のノリの良い聞いた事のある曲をリズムマシンとシンセを使い3人で歌い演奏していた雰囲気は実にリゾートである。
ショートツアーの帰りにセーリングカヌーに出会った。アウトリガーを付けた小型の帆船である。南太平洋の島々を大型のこの様なカヌーで縦横無尽に航海していた人々の末裔でもあるパラオの人々である、泊地から近い所に保管されているカヌーを見に行った。
体験乗船も出来ると聞いたが残念であった。細部には「サバニ」と似た構造が見られた。

知人が艇長を務めるカタマランの操船上の不調にも目途が立ち一両日に沖縄に向け出港する事になったが思わぬ長逗留になった様だ。我々の方もオートパイロット系のモーターが動かないため念のために持参したラットに装着するタイプを急遽装着する事とする。英語のマニュアルに難儀するが何とか機能するようになった。
パラオレース後今日までの期間に船検期間が経過し、このままでは帰国時に違法となってしまう様だ、もちろん事前にその事は承知している渡真利艇長は出国前から国の機関等と打ち合わせを繰り返しここ現地から船体の状態を写真で送る事で書類を完成させようとしていた。安全備品、航海燈、喫水下の状態などの写真を撮り送っていた。
全く役所仕事である。コロナ騒ぎで出国も入国できない中、船検切れでこのままの航海での日本への入国は違法に成るという。理不尽この上ない。
その間も知人からのバナナやヤシの実、マンゴロープ蟹などの差し入れが有る。有難い。
バナナは沖縄の島バナナと同じような味の小さめのも有った。蟹も同様である。

殆どの国でレジャーボート・ヨットの登録制度は有っても日本の様な厳格な免許や船検制度が無い時代に国際的な事情でこのような事態になってしまった事など配慮無しである。今回のレースに参加したヨットで同じような事態になり帰国後、やかましく取締りにあい調書を書かされ罰金処置になった船も有るようだ。しかし、たまたま外国船籍で日本人オーナーのヨットは何のお咎め無しに入国しているのです。
何分にも進水後からこの日までもう若くはない「ミニー」はタイのキングスカップでの連勝の記録と宮古迄の長距離航海、更に横浜までの遠征の後パラオ迄のレースに加えてその二年あまり後に宮古迄帰途につく相当の距離を走った事になる。ダメージも大きく経年劣化もあり、再生には色々と手が掛かる。クルージングを兼ねたテストセーリングの後、渡真利艇長は左エンジンの不調を改善すべくエンジンルームを開け上部ハッチとドアーも開け暑い部屋の中、短パン一つで整備中いつもなら十分気注意するスプレー缶を使用後、エンジン起動を試みたその瞬間小部屋に漂っていた可燃性ガスに引火。
外で作業していた我々はボンッ!と衝撃を感じる音に驚きと同時に「消火器!―」の声、即座に粉末消火器をエンジンルームの艇長に渡し火は収めたが噴霧中の消火器を持ちだす途中メインサロンやコックピットにそのピンクの粉末は飛び散り散々な状況となった。
艇長は消火後即デッキに上がり海に飛び込み焼けた体を海水につけた。
あがって来た時艇長の頭の前部の髪は焼け、まつげも眉もその影響を受けていた。
その後足や腹部、顔などに火傷の症状がはっきりと表れ、備えてあった薬品箱から抗生剤と塗り薬を処置する。
もし部屋のハッチとドアーが空いていなければ爆風で何がしかの損傷が生じていただろう。
その後は散布されたピンク色の消化粉末を拭き取る事でその日が暮れた。ホテルに帰ると次第に火傷の症状はひどく成り体温も上がり鎮痛剤と解熱剤も服用する事になる。
艇長はシャワーにも入れず早々と床に就く。それでもビールはやめない。
翌日後その事を知ったパラオの知人達が心配し当地の民間療法で使う薬品や塗薬を持って来る人が何人もいた。これまで培って来た人脈のお陰である。
この間にも行く所々で知人に会い再会の挨拶となる。

時にはすぐ隣に浮かんでいるテーブルの有る小屋の下でBBQの招待を受けたりした。
静かな入り江の海辺に個人でBBQも出来る海上に浮いた小屋など沖縄はもちろん日本では到底望めない環境である。

街中には日本人の経営する飲食店も幾つかあり、何店かに食事に行った、そこは地元の人たちも来店するので日本のネイミングのメニューであるがそれなりの味と盛り付けである。日本国内でも海外の料理が日本受けにアレンジされているのと同様である。
でもヤッパリ日本食のメニューにホッとする。日本酒や焼酎も有るがさすがに泡盛は見なかった。刺身盛り合わせも魚の違いで日本の様にはいかないがチューブのワサビと醤油はいつものブランドで馴染みが有る。
それにしても渡真利艇長と宮沢さんは料理の心得も有りホテルのキッチンで我々の朝食や夜食を度々造ってくれる。出来ない私にとっては有難い事であった。艇長は船検関係で当局と連絡し合い、同時に同行するパラオ人「ルル」君の日本入国のビザ取得の手続き、
パラオ出国の書類や日本入国の為の様々な書類等々もすべて渡真利艇長がホテル滞在中に書上げる、慣れているとはいえ見事である。この様な手続を見る経験は初めてである。
その後私の携帯が無事戻って来たが動作しなかったのは一時的な湿気の様だった。
船は思いのほか回復や諸手続きに時間が掛かり延泊を2回結局二週間にもなった。
ようやく船内に寝泊まり出来る環境になり支払いを済ませ移動した。先に来ていたY君の乗るカタマランも操舵装置の修復も終わり沖縄向け出航する事になる。3人で沖縄まで約1300海里である。ビールで安航を祈念し別れを惜しみつつ再会を約した。
我々もあと一息。日本入国の条件である出国72時間前PCR陰性証明を得なければならずパラオの医療機関に向かい全員陰性の証明書を取得、三日以内に出国しなければ再度検査となるその二時間前に滑り込みで「ルル」君のビザの取得も完了し税関等の関係者が桟橋に来て回航要員5人のパスポートにスタンプが押された。ポンツーンには10名余のパラオの知人友人が見送りに来ていたが再会を望み明るく見送られる中、
日没前に舫いを解き一路宮古島へ向かう。

島の東側から外洋に出るが今までの静かな入り江とは違いリーフの外はウネリも波も有りいきなりのピッチングとローリングに数時間体がついていかなかった。早速宮沢氏がワッチ表を作成、一人二時間で三時間のオフに一時間オーバーラップを作る。
私の二時間のワッチの間最初の一時間は伊藤氏と重なり二時間目は宮沢氏と重なる私がオフになる時渡真利艇長に代わる交代で朝までワッチを続けるが昼間は基本同様のワッチが組まれるが、実態は多くの目で周りをそれとなく見回す事になる。
夕刻出航後夜間はパラオ諸島の東のリーフを避けて沖合を北に向け6~7ノットで順調に機帆走。満天の夜空とは行かないが雨雲の合間に星が煌めいている、何気に湿気のせいかキラキラ感が無い。ワッチ後一眠り次のワッチは午前4時から二時間夜明けまでである。
明け方の雲間から星が見えるがはっきりとした星座は確認できなかった。
停泊中の二週間あまりも昼夜を問わずスコールと雨雲で夜空を仰ぎ見る余裕はなかった。

南国らしい夜明けはいつも見る「明けの明星・ビーナス」が高い角度で見えた。
雲間から日が昇る前に扇状にはっきりとした幾筋かの光は洋上で見る何時もの輝きであった。波は大きなうねりの中に東寄りの風で生じた波長の短い波が重なり時たま大きく揺れる。カタマラン特有の船首が造る波が双胴の中心に集まり同期すると船体の腹をバンバンと叩く、慣れないその音に何事かとビックリするがそのうち聞き慣れた音になる。
買い込んだインスタント食品に沸かした湯を注ぎ朝食とする。差し入れの有った二種類のバナナがいいデザートになる。

パラオ・ロコールの市内はメインストリートを挟んで商店や銀行、学校、ダイビングショップ、マッサージ屋、土産屋、ホテル、レストラン、銀行、ホテル等々が並んでいるが、ここの所のパンデミックで閉店、休業の所も少なくない。沖縄と同様に観光客を中心とするあらゆる商店、施設が似たような経済状況下にある。「ルル」君が携帯からリンクした
スピーカから地元の音楽を作業中BGMの様に流していたが、リズムはレゲエ調がメインでノリの良いリズムである。
歌詞の内容は現地の言葉や訛りの強い英語でよく理解できない。明らかに聞き覚えのメロディーでもアレンンジされていて原曲の雰囲気はパラオ風になっている。

先にも書いたが右ハンドルの右側通行で左右に曲がる時は道路上に三車線ある走行区分の中央車線に入りウインカーを出す事がルールだが、交差点で対向車も中央線に入って来るので一瞬正面が対峙しビックリする、おまけに小さな路地に曲がる時などは停止線も確認できないので、ぶつかるかと気をもむ。思い出すと昔グアムで走った時も同じような経験をしたことが有る。それと信号機が見当たらない。パラオ国中に無いのか知らないが少なくともロコールをあちこち行ったが見当たらなかった。
出航から二目貿易風が強く波も悪く天気雨ワンポにする。ジブはフルである。
艇速は時に11ノットを超える、波が船腹を叩く衝撃が激しい、スプレーが船首のネットを通過しメインサロンの窓に激しくあたる。応急的に備えたオートパイロットはその役目を果たしているのでキャビン内に腰かけてのワッチとなる。この頃から航海燈はマストトップだけとする。三日目には落ち着きフルメインに戻し艇速8ノット前後を維持、左右に展開したトローリンロッドはまだヒットなし。
見事に360度の水平線で本船の影も見えない。時々シャワーの様なスコールが有るが、日が差すと日中は広くないデッキの日陰を探しアチコチとくつろぐ所をさがし移動するのがクルーの行動パターンとなる。まるで那覇の大通りで影を探して歩くのに似ている。

本来ならばキャビン内はクーラーが効き快適なのだが、いかんせん臨時のジェネレータの容量では冷蔵庫等と同時には利用できない。海面は群青色で波模様は何と無く吐噶喇列島を航行しているような気がする程である。雨雲は少なくなる。
見事な日没後、夜空は星が輝いている、憧れの南十字星を探すとそれは船尾に流れる星あかりに照らされた航跡の彼方に見る事が出来た。幸いに新月の頃で星はその輝きを邪魔される事無く光っている。船首方向に大熊座を確認できたので視線を少し右に振るとそこには北極星・ポラリスも見えるが何時もより低い、
当然であるまだ北緯8度台なのだ。パラオが北緯7度程度、東経134度程度なので日本と時差は無い。目的地の宮古島荷川取港は24度、東経125度、距離凡そ1200海里にもなる。一日の行程150海里で8日の航海である。
ヘディング335度がラムライン。途中風に合わせて多少の進路変更はあるが北上である。艇は波に揺られ左右に首を振るが気にする事は無い先は長いのだ。

突然リールがジージーと鳴りラインが勢いよく出て行く、「ルル」君の出番だ。
かなり強い引きでその大きさを感じつつ艇を風に立て低速を落とす。
見えてきた魚影は長く銀色に見える、左舷の船尾のステップに揚げられたのはバラクーダ体長50センチ余歯が鋭く激しく暴れる、いつもの様に船尾パルピットに吊り下げた、
こん棒で慣れた手つきで頭部を叩きコックピットに運び、尾の方の30センチ程を残し
切断、頭と胴は破棄する。
せっかくだが捌くにはそれ程ギャレーは広くない。何日か後にも同じ魚種が釣れたが更に大型であったが同様の手順で、捌きやすい身の部分だけを取る事になる。
ある日ドラッグを締めすぎていてカジキらしき魚の当たりがあった途端に切れてしまった。他にも釣れた日は違うが型のよい本鰹が釣れさすがに頭以外は艇長が慣れた手つきで処理、しばらく刺身としてビールの友となった。この時腹に白子が有ったのでこれは煮物にして食事の副菜となる。

ジェネレータを使っている時は炊飯器でそれ以外はガスコンロ、圧力釜で米を炊く。
食事は艇長と「ルル」君宮沢氏が交互に用意するが揺れるギャレーである出来具合は推して知るべし。差し入れのバナナは次第に熟成しすぎてきたのでその程度を見はかり海上投機となる。持ち込んだオレンジとリンゴは各自自由に食べる。卵は茹でる事が多かった。
便利なものでインスタントの味噌汁にパックの豆腐と玉ねぎを入れ暖かいご飯も出た。
残ったご飯はふりかけでお握りとする。パンはピーナツバターを塗って食べたり、
ベーコンと卵の時もあるがパンは日持ちせずカビが生えてきたので残りは破棄となる。
購入時英語が良く読めずに買った冷凍ソーセージはホットドック用に味付けされていて塩味と油分が多く一度に一本食べる事は出来なかった。
レタスは足が速く三日後には殆ど傷んで、後はキャベツと冷凍ニンジンとジャガイモと玉ねぎが活躍する事になる。
長距離レースでは何時でもキチンと料理できるヨットマンは引く手あまたな時代が有ったが、昨今はレトルトが発達し栄養も味も陸上とそん色なく食べられる時代になったが我々も一部その恩恵に預かっている。
航海中のシャワーはカタマランだから出来る海水シャワーである。風下側に大きな桶を置き海水を汲み普通のボディーシャンプーで体を洗ったら桶の海水で流し仕上げは真水でサッと流す。後はタオルで拭くだけである。海風が気持ちいい。洗濯も同様である。
時には丈夫なネットに下着やシャツを入れ海面を引き流す事で洗え、シャワーと同様に真水で塩気を落としライフラインに掛けて干す事も有るようだ。
私は今回一度海水シャワーを経験したが、穏やかな状況下でしか出来ないので寄港しない今回の航海、介護などで使う使い捨てタオルと下着を用意し大いに役に立つ。
四日も経つと体も船上の生活行動が馴染み排便等も日常となる。昼間の海面と空は雲の模様の変化と波浪の色や形状の変化以外特に変わりなく、

艇長は吉川英治の三国志全巻を持参しホテルに宿泊時から航海中も読みふけっている。
私も出る前に入手した、日本の帆船建造に尽くした実録「太郎と弥九郎」を持参すべく準備していたが失念してしまったので、この度は邂逅の長旅になってしまった。

それにしても日差しの強い日中より風に打たれる夜のワッチは天空を仰ぎ、乏しい知識ながら星座を探し銀河を探し自らの星座「さそり座」を探し夕刻のワッチと深夜の時と明け方の時との変化を観察する事で思いを巡らせることが出来た。
海象が安定しフィリピン海付近の夜にははっきりと南十字星が確認でき対面に北極星が見える。夕刻時にはサザンクロス近くの「さそり座」はアンタレスの輝く頭部をもたげたような姿勢に見え、深夜のそれは獲物を狙う様に横たわっている。明け方に成ると役目を終えた様に水平線に隠れるが如く見える。
海面は日照が無くなると色を失い漆黒となり海面は星明りに照らされた泡が白く光る。
水平線から天中に掛けてやや青みを帯びた黒から次第に底の無い深い黒に緩やかに変化し満天の星はその輝きを競っている。
北方の大熊座の北斗匹七星もまた北極星ポラリスを中心に大きく反時計回りにその姿勢を変え明け方には柄杓が海水を汲むような姿勢になる。
時たまミンダナオ島のある西方に飛行機の明かりが点滅するのを見ることが有る。
もちろん流れ星も銀河も仰ぐ事が出来るが、揺れている船上で見続けるには首がつらく成るのだ。北上するにつけ次第に北極星はその緯度の様に高くなっていく。
夜の三回のワッチ毎に天空はその色と深みを変化させ腰かけて前を注視していると彼方の星がチラついて見え本船かと見紛う事も有る。又、ある夜は右舷遠方に二隻の本船赤燈を視認した、二隻は同じような方角に進んでいるが艇速の違いか二隻は次第に重なり又離れて行った。自船の航跡は時たま夜光虫が光りその様子は幻想的である。
明け方のワッチは特に素晴らしい。
日没時に輝く「宵の明星」は一足早く「明けの明星」として太陽の露払いのごとく輝きを強め天空の星にその「おふれ」を伝えんとする。この明星と呼ばれる金星・ビーナスは一番星とも呼ばれるが、夜中は殆ど見えない。

次第に東の空は明るくなり海面近くの雲も色帯びてくる。有明である、
運よく航海中は殆ど月の無い夜で宮古に着く前夜の有明には東に盃の断面の様な三日月を見る事が出来た。次第に東雲色に輝きを増し雲間にその光線が筋を成し扇の如く光り出す。絵に描いたような旭日朝日である。天空の星達はその明るさにかしずき夜空を去っていく。
明星の金星はそれを確認するかの様に最後に消えていく。
太陽が顔を雲間から出し海と空に色を届ける。群青色の海面は生き生きとなり波頭の白い泡が躍る。空はかすかな薄青い色から次第に紺碧の空となり、クルーの肌を焼く。
夏を迎える夜の空は緯度の低い事も有り湿度のせいか冬のそれとは煌めき方が違うようだ。
長期係留中に付着していた緑褐色の苔がハル一面に付着していたが高圧洗浄機で洗浄したハルに夜明けの光が当たり白いハルは明るいオレンジを帯びた赤い色に染まる。
ワッチ当番の私と宮沢氏の顔も朝日に向かいそのエネルギーをもらう。

ワッチが明けてもそのままコックピットに留まると夜明けと共に全員起きてきた。
朝のルーティーンは両舷に立ててあるロッドから疑似餌を流す事である。
湯を沸かしラテを飲む「ルル」コーヒーを飲む私、ビールをサーモスの保温カップに移し飲む艇長、そのまま缶を気持ち良い音を立てて開け、目覚ましとする伊藤氏、
時間は波音と共に過ぎて日常が始まる。
残行程500海里東の風も弱まり次第に南から南西に変化する。
30度程ヘディングを西に向け台湾方面に向けタックを変える。艇速は6ノット前後。
パラオからフィリピン海を大きく時計回りの様な弓なりのコースを取る事になる。
6月に入ると南西の風も力強くなり再び宮古向け進路を変えるがタックはそのままである艇速も8ノット以上になる

境界線は無いがフィリピン海から南シナ海そして東シナ海の海域に入ったような海面である。心なしか昼間の海の色はパラオ付近よりさめてきたような感がする。
夜はポラリスも幾分高く見る事が出来、明け方は北東にカシオペヤが視野に入る。
ワッチの度にキャビン内のタブレットに表示されている位置情報は帰港地までの残航表示されている。現代の航海情報である。慣れた航海とはいえ帰心矢の如し、
到着の時刻を予想する事になる。艇長は入国に関する税関や検疫等の書類の記入漏れがないか確認と全員のコロナ陰性書類を揃えている。
残航50海里植物検疫で持込みできない野菜類、肉などを海上投機、果物は全て食す、
税関で申告する物品は何もないが各自確認し、艇長は衛星電話にて保安庁や諸関係官庁に接岸予定時刻を連絡、
日没前までの接岸であればCIQ全て対応するとの返事。気がかりなのは「ミニー」はJCI中間検査が切れている事だけで有る。来間島が視認できた、
前夜の雨も上がり視界も悪くない波も穏やかで船内の片づけ、私物のパッキングをぼちぼちと始める。
やがて島の西側沖にあるリーフ先端の立標が視認する。

330度の進路で更に進み、伊良部大橋を通過する航路ブイを右に回頭、
セールを降ろしジブを巻き取る。
これまでも何度か車で渡った事の有る伊良部大橋全長3500メートルあまり、
桁下27メートル「ミニー」は悠々と橋の下を通過できる。艇長は携帯で再度関係機関に連絡し予定より早くなる事を連絡。
荷川取漁港に最近出来たクルーズ船桟橋付近が定位置の係留場所。
6月3日午後5時半接岸、既に税関、検疫、保安庁、小型船舶機構の係官等が待ち受けている。私にとっては台湾レースで石垣港入国以来二回目のヨットによる入国手続きで今回は係官の多さに多少の驚きを受けた。

キャビン内に係官が乗船、税関職員4名明らかに上司に連れられた若い職員で通常の本船ではないヨットでの手続きを経験させようとしているのが見え見えであった。
面白い質問を若い係官が艇長に聞いた「この日を入国に選んだ理由をお聞かせください」「ヨットは風任せですから、事前に入港予定は決められません」「???」。
検疫官は船内で履いていたビーサンの裏を消毒後、PCR陰性検査証明書を確認して
「厚生省のホームページから三日間のコロナ健康情報アプリをダウンロードし報告してください」「義務ですか?」「協力お願いいたします」役人ですから一応伝えなければならない仕事をしている、しかし「私たちは8日間船上で誰も身体に異常をきたしていないので、更に三日自主隔離をする必要が有るのでしょうか?」
気にしていた船検の件も無事に済み形式的な全ての手続きが終えるのに凡そ2時間弱やっと上陸するが足元は揺れ、いわゆる陸酔い状態であった。

24ノースクラブハウスのゲストルームにバッグを降ろし早速シャワーを浴び航海中の潮を流す。上陸後の夜食は「ルル」君の要望で宮古牛の焼肉料理を堪能。翌日船に残されているビール、インスタント食品、調味料等々をクラブハウスに運び船首ハッチ内に入れてあったゴミ袋を取り出し宮古の指定ゴミ袋に分別。買い込んだジェネレータ、冷蔵庫も運び出す。夜は艇長馴染みの「郷屋・はなれ」にて日本食やっと帰国したことを実感する。
翌朝シルバー料金で那覇に帰る。

思えば二年以上前パラオ独立25周年記念レースに参加するこのカタマラン「ミニー」を横浜まで回航しその翌年パラオから回航する予定がコロナというパンデミックで大きく狂ってしまったが、これでこのレースに出るプロジェクトの完遂となった。
同行の 伊藤豊氏 宮沢譲氏 ルル君そして誘ってくれた渡真利将博氏に感謝

2022年令和4年6月10日記憶の確かなうちに記録する、他の事は思い出の中にしまう。
  


Posted by 鉄瓶・錆び鉄 at 15:00Comments(0)ヨットと帆船と私

2022年01月13日

沖縄にスーパーヨットをの記事を見て

令和4年1月12日「琉球新報」に出ていた記事に対し以前(平成2年5月)私が業界紙に投降した記事を掲載します。
投稿からかなりの時間が経過しましたので現状の認識と差異が有りますが、基本的には今もこの様に感じています。
拙文ですが読んでいただけたら幸いです。

沖縄観光 質の転換には
マリーナを本格活用すべきだ
________________________________________
ステータスなくした沖縄の海
 沖縄観光としての本質的な要素はどこにあるか? 何が観光の要素になっているのか、今一度見直してみる必要があると最近考えています。
 御承知のように、琉球列島はその地政学的要素から歴史に翻弄された経緯があり、その事自身観光的な素材でありますが、なによりも温暖な海洋性、島嶼的な要素が大きいと考えます。海洋生物を始め様々な動物、植物、景観、気候、風土が相当に大きな観光素材です。確かに戦後、慰霊観光から始まった事実はありますが、今やその比率は低下しています。
 もちろん修学旅行やパック旅行で戦跡をたどって、去る大戦の歴史的な事実を見つめ、失われた多くの命やその歴史に思いを新たにする事は重要な事であり、個人的には日本国民会員が焼香に来るべきと思っています。
 さて、昨年のテロ騒ぎの後、行政を含め様々な対応がチグハグな事やその影響を推し量りかねたのか、結果的には観光客が激減し、さあ大変だ! という事で「だいじょうぶさぁ~沖縄」キャンペーンが始まりましたが、これら一連の動きの中で思わず不思議だなーと感じた事は、いままで観光客が四百万人だった時はどうしていたんだろう。三百五十万人の時は? という事でした。
 私の思い至った事は「安売りの結果」という結論になりました。県の観光収入を一つの目標にするならば、それは人数と金額の掛算である事になります。確かに、航空運賃は安くなり沖縄に行きやすい価格になりましたが、それは沖縄に行く事が大衆化していく事であり、だんだんと沖縄観光が「ステータス」を下げている事になった結果ではないでしょうか。
 数年前の沖縄観光は今以上にステータスがあったと思います。沖縄に行った事が自慢となった時代があったのです。特に海に関するスポーツ、レジャーをした事は周りから羨ましがられたものです。
 県は飛行場沖合い展開を含め様々な事情から目標とする入域客を毎年のように高めていますが、それに伴い社会的インフラの整備が追い付かないのが現状であると考えます。例えば、「水と電気」。もし観光客三百万人程度ならこれ以上の「貯水ダム」は無くて済むのではないでしょうか。県の人口の何倍もの人が来て、旅に来たのだからとシャワー、風呂を思いっきり使用したり、ホテル代は払ってあるのだからとクーラーや電気を付けっぱなしにする事等々。又、上下水処理やゴミの処理等。離島に行く程大変な状態である事は、現地で見ると良く分かります。今やこれらが本島内でも問題となって来ました。
 また、レンタカーの増加によって渋滞がひどくなり、多くの経済的損失があることは良く知られた事です。カーナビの発達で那覇市の公設市場付近などは紛れ込んで来たレンタカーが多くの業務用車両に迷惑をかけ、時間的なロスを生じさせていたりしています。
 人数と金額の掛算が沖縄観光の観光収入ならば、人数をある程度制限し、人が増える事による環境への負担や、社会的負担をこれ以上増やさない為にも、掛算の片側の金額を増やすようにもっと努力をすべきであり、安易に人数を増やす事は見直すべきと考えます。
 観光客一人に対して何人の県民がサービスをするかという比率を高める事が価値を高める事に通じると考えます。例えば、沖縄に来るクルーズ船等は乗客と船員の比率は一対一程度です。沖縄は安売りの結果、その比率は低下し「顧客満足」指数は低下しっぱなしではないでしょうか。これまでのホテルの優秀なギャルソンは高給だからとリストラされ、腕の良いシェフも同様に切り捨てられ、巷に料理屋乱立の供給源となっています。観光のステータスを高める事がより質の向上になり単価の上昇になると思います。
 グアム島観光も最近のあまりの低価格化により名門ホテルの中には廃業となる所や大手日系ホテルは資本の撤退をしています。結果、コンドミニアム的民宿的な簡便な一泊五千円程度の宿が主流となっているようです。沖縄もこのような状態になっても良いのでしょうか?
 沖縄観光のリピーターのかなりの割合いをダイビング客が占めている事は御承知の事と思いますが、公的施設にダイビング客のための施設があるでしょうか。ありません。観光ダイビングのサービスの向上の為に、例えば宜野湾マリーナにダイビング専用の泊地を設ける(現在は県条例上出来ません)とか、那覇港湾施設内にダイビング専用係留場所を設け、休息室やシャワー室を設置したり、ダイビングショップから来る車の専用駐車場の確保などいろいろなサービスが提供できると思います。
 プロ野球のキャンプも結構ですが、野球場をはじめとする設備投資は回収できるのでしょうか。キャンプによる経済波及効果が大きい言えども実質的にはその負担は県民に掛かって来ると考えます。もっと沖縄の自然を活かしたスポーツキャンプがあるのではないでしょうか。例えば、シーカヤックキャンプ、野鳥観察キャンプ、サバイバルキャンプ、ボーイスカウトのジャンボリー、ヨット合宿、ダイビング、トローリングなど小さな施設で、それほど大きな注目を集めないかもしれませんが今盛んに云われている「エコツーリズム」的視点の観光をもっと増やし、さらに海洋深層水を利用した湯治場的な宿や、渡嘉敷、座間味等へのクルージングなど、多少ゆとりのある階層の人々にもっと魅力のある沖縄を作っていくべきと考えます。
 もう一つ、旅行に行く時に楽しみにする事はなんでしょう。珍しいものを見聞きする事や、体験する事、さらに「美味しい食事をする事」と「気持ちの良いサービスを受ける事」だと思います。沖縄に欠けているのが最後の二つと思います。
 確かに、沖縄の食事は健康的な長寿食かもしれませんが、関係者の皆さん! 本当に観光客が食事する料亭や、居酒屋、レストラン等の食事が美味しいと思いますか。離島の民宿に泊って近くの海で取れた海産物を美味しく食べたいと期待していったお客さんが、なんと云って帰ったか本音を聞きましたか。沖縄の人情や人柄に対する評判は高いものがありますが、食事の評判は低い様です。もちろん美味しい料理を食べた方もたくさんいると思いますが。本土の民宿村や有名な原村や清里のペンション村では、宿の女将さんが集まり役場も一緒になって料理研修会や、もてなしの研修等を行って来た結果が今の評判を作って来たのです。沖縄には沖縄のやり方があるのかもしれませんが、全国に通用する標準的なスタンダードを身につける事が必要なのではないでしょうか。また、県内の宿はホテル形式の宿が多すぎる様な気がします。もっと旅館的な宿を多くし大きなお風呂と座敷、中居さんの給仕等視点を変えて宿も作るべきと考えます。海洋深層水の大浴場等は大いに客を呼べる事だと思います。海の環境豊かな離島の民宿での朝食が「ポーク卵」では、これからの継続はないと感じます。
2000隻収容のマリーナが完成
 さて、ここから私の専門のヨットにかかわる具体的な施策を提言したいと思います。県では中城湾を始め、将来は浦添地先にもマリーナを計画しています。加えてフィシャリーナという小型のマリーナが糸満に建設中であります。さらに今年初め北谷漁港隣にフィシャリーナの建設が決まったようです。これら全てのマリーナが完成する平成十八~二十一年頃にはなんと全体で実に二千隻余の収容能力を持つ事になります。この事を海洋リゾート観光に活かさない手は有りません。
 まず保管料金を全国的に魅力ある料金として(現行料金を今回の値上げ以前程度にする)全集用能力の五〇%程度を(沖縄県民だけで一杯にできない事は明白です)県外から積極的に募集して保管することを観光政策の一つとすべきであります。
 今や航空料金は安くなりその事を踏まえて、少なく見ても、保管する船一隻当たりで四~八名程度の利用者が年間三回~六回、一回当たり四~七日間として一隻当たりで延べ三十六~三百三十六人にもなり、それに収容能力の半数の数一千隻を掛けると実に最大三十三万人以上となり、相当な数になります。さらにこの人達の使うお金は一般的なパック旅行や団体より多くの物品の購入や経済的消費をする事は確実であります。現に宜野湾港マリーナに県外の方が何人か船を置いています。その方々が使うお金はかなりの額になります。
 また、収容能力の五〇%、約一千隻の県外からの船が保管されると、次のような事業が可能になります。もちろん県内の人達の船に対しても同様のサービスをする事が出来ますが、県外の人達にこそ役立つ事業です。どのような事業かと云いますと、実は県外の方が沖縄に船を置く時の最大の懸案は台風です。この台風対策に対し安心できる維持管理、運行サービスの分野です。他にも、ご存じのように船はヨットと云えども燃料、エンジンオイル等の交換や補給、船体の清掃、修理補修、船底の塗装、法定検査の代行等多岐に渡ります。また、県外のオーナー達が来沖する前に、すぐ出港できるように点検したり、食料の準備、釣り、ダイビングの準備などがあります。
 ハワイのマリーナでも同様に本国のオーナーが預けてある船に対するサービスが徹底しています。地中海ではドイツや内陸のオーナーに対し同様な事業があります。近くの海のガイドを含め、このような事業は新たな雇用をつくり出す事が出来ます。
 同時に沖縄のオーシャンリゾートとしての「ステイタス」を高め、質の向上に役立つものと信じます。
質の向上の秘策はマリーナの有効活用にあり
 いま、沖縄観光はとかく人数だけを追っていて「質」面の対応が遅れていると思います。観光経済を人数×単価とするならば、これ以上の人数を求める事は島の環境処理能力を超えてしまい本来の沖縄の魅力を失わせてしまう事になると考えます。水、電気、ゴミ、下水処理、産業廃棄物などもはや限界です。いくら工業力や、科学をもってしても島の面積には限度があります。座間味島や渡嘉敷島などの廃棄物は目を被う惨状です。
 九月十一日以後の観光業界の模様は端から見ていると、これまでの「質」の向上に目を向けていなかった事が良く分かる気がします。前年比二〇%少なくなったからと云って大騒ぎですが、では三年前の同時期はどうだったのでしょう。観光客の実数ではさほど変わらないと思います。しかし、客単価が下がったため、あるいは一人当りの収益が下がったためにこのような騒ぎになったのではないのでしょうか。
 沖縄の観光の原点は地勢学的に置かれているこの環境である事を再認識し、これをもっと活かしエコロジカルに利用し、末永く役立てる事だと考えます。それは「海」「海洋」「歴史」「風土」がキーワードとなると思います。
 沖縄でダイビングをすることは十年以上前は全国何処へ行っても羨望の目で見られました。沖縄でダイビングをする事がダイビング業界では「ステイタス」だったのです。もちろん今も一定のステイタスはあります。次は沖縄の何が「ステイタス」になるのでしょうか。慰霊観光から始まったとされる沖縄観光もここに来て大きな転換点を迎えていると恩われます。
 「沖縄に行きたい、行ってみたい」と思わせるのは何か? 言い古された事ですが今一度原点に帰ってみて沖縄の観光的素材を見つめて、それを磨いて、守って行く事が沖縄観光の地位の向上、「ステイタス」が高くなる事だと考えます。県民や県が本当に沖縄の観光を経済の根幹とするならば、役所を含め業界や関連団体、県民も一丸となってその道のプロを育成し、取組むべき課題と思います。
 昨今クルーズ観光が注目されていますが、那覇港は物流の視点でのみ作られています。私は十年程前にマイアミ、バハマを旅行した事がありますが、マイアミはともかくバハマの観光用の港は実に素朴でボーディングブリッジなどは無く、ただシンブルな長いバースが二本あるだけでした。そこに数万トン級の観光専用船が四隻も横付けされ島の人々がタラップのそばに来て来島を歓迎している風景は、遠く泊港の三十年以上前を彷彿とさせる光景でした。沖縄にもクルーズ船のためのバースを設置すべきであります。それこそ「万國津梁」の国としての港になる事と思います。僭越ですが、今から沖縄にアジアのハブ港を建設し世界に提供しようとは無謀な事です。もし本気でハブ港を作るのならその岸壁の総延長は十キロメートル以上、バックヤードの面積は那覇新都心の三割程度の面積が必要と思います。このような規模を作ったとしても荷役に掛かる様々なコストはとても海外に太刀打ちできません。
 先に述べたように五百万人とか八百万人とかさらには巷間云われている一千万人も夢ではない、というような観光客を受け入れようとすると、それに費やされる様々な消費物を受け入れなければなりません。するとさらに港が必要になります。
 埋立や海の環境問題や廃棄物が増えます。エネルギーが必要です。水も必要です。このような循環で良いのでしょうか? 個人的には沖縄の海に多くのマリーナが整備され日本一の海に多くのヨットやボートが地中海の海のように風景として見られる様になる事を楽しみにしていますが、観光にリンクしない、ただレジャーのためだけのマリーナ建設ではトロピカルリゾートの達成は望み薄のような気がします。
 何のためにマリーナを建設するのか、どのようなマリーナにしたいのか、どれだけの地域を対象に利用者を募集するのか、全国か県内か。利用者と観光との連携は…、もっとマリーナを観光的に活かすべきと考えます。現在、宜野湾港マリーナは観光や事業用の船の保管は条例上できない事になっています。
全国から問い合わせ、沖縄の海は日本有数のゲレンデ
 この際、全てのマリーナを観光リゾート局か観光コンベンションビューローの管理下において観光政策の中でマリーナを考える時期と思います。
 県の提唱している滞在型のリゾートとしていくためにも、今後できるマリーナは料金面で全国的な魅力を作り、それぞれのマリーナは近隣の海面の特徴を活かした施設にすると良いと考えます。
 例えばフィッシング中心、小型ヨット中心、ダイビング中心、クルージングヨット中心などとして計画し、さらに県外からの船が増えれば附随してメンテナンス維持管理も増え、専門の事業所も出来、観光と雇用にもつながります。
 例えば、二月十六日の沖縄タイムス「公共事業を問う」に書かれているように県は中城湾だけでも七百三十隻も収容できるマリーナを計画していますが、御承知の様に中城湾は全域特別港湾であります。この事はマリーナに保管されている船の運行上、ボートは特段問題は有りませんが、セーリングクルーザー(エンジンを有しキャビンがあるヨット)はフルセーリング(エンジンを利用しないで帆だけで帆走する)が出来ない法的な規制が有ります。このような規制のある海域にマリーナを作るからには規制の解除又は、一部解除を決めているのでしょうか? そうでなければ中城湾外まで機走し久高島沖に出て始めてフルセーリングができる事になります。
 そこで西原与那原地区にできるマリーナは小型のヨットとモーターボート、シーカヤック等を中心としたマリーナとして運用し、中城湾の南側をセーリングエリヤとして特定し特別港湾としての法を一部解除し利用する事としたら如何でしょう。オリンピック候補選手の合宿にも利用されるこの海面は小型のヨットにとっては日本一の海面なのです。水深二十~三十メートルで周りは陸地に囲まれ、流れてもどこかの海岸に辿り着く事が出来、さらに競技する場合に設置するブイの投入も簡単であり風が強くても波があまり立たないこのゲレンデは本当に絶好な海面であります。
 さらに申し述べるのならこの西原与那原マリーナにディンギーを四~六種類、各十艇以上合計七十艇以上と、レスキューボート数隻及び付帯設備を常設するならば全国各地から高校、大学、社会人のヨット競技団体が年間を通じ合宿に来る事になるでしょう。
 同時に修学旅行や県民のマリンスポーツ体験の場所にもなり、大きく観光沖縄に寄与し、近隣の自治体等の観光経済にも寄与する事と成ります。
 実例として広島市にあるマリーナには子供用の一人乗りヨットが百隻以上用意され毎年全国から選抜された少年少女数十名とその父母父兄が一週間も滞在し競技を行います。借りる事ができるヨットが有り、近くに宿泊所が有ればできる事なのです。もちろんこれだけではありません。年間を通じ多くのレースや大会が有ります。しかし、広島の海面の状況は風が弱くあまり良くないのです。
 私はこれまで国体監督や役員として参加しましたが、行く先々で沖縄で合宿したいが、借りられるヨットは有りますか? と聞かれます。現に、愛知県蒲郡では数年前まで渥美湾を利用してこのような合宿が盛んでした。しかし、諸般の事情で出来なくなり、今このような合宿地が求められているのです。沖縄で合宿をしたくても各地からヨットを運搬する費用が高額なため実施できません。現地にレンタルヨットがあれば多くのヨット競技者や愛好家が合宿に来ます。今や人の運賃の方が安い時代です。
 また、このヨットを購入する資金も公的団体が競輪事業やお年玉葉書などの助成制度を利用すれば団体負担は相当に少なく済みます。
 負担する費用の総額でもプロ野球のキャンプに便われる雨天練習所一つの費用にもなりません。七十艇でおよそ七千万円、その他艇庫、救命ボート、備品など一億円、合計一億七千万円の負担金二〇%で三千四百万円で可能であります。
 また、現在進行中の埋立を勧めるものではありませんが、沖縄市泡瀬に計画中のマリーナは勝連沖合いへのレジャーフィッシングの基地としての性格を持たせ観光フィッシング(乗り合い)を導入する事も可能であり中部地区の観光に大きく寄与する事になります。本当に海を観光の目玉として利用するには環境に優しい自然を相手にするスポーツにもっと目を向けて欲しいと願います。
 それにしても、現状の宜野湾港マリーナの保管料金は今や全国主要都市並みとなり県外から沖縄に保管したいとする魅力を失っています。あの豪華な素晴らしい環境の長崎ハウステンボスのマリーナの料金と一五~二五%しか差がないのです。このような料金で中南部一帯にできる合計二千隻収容のマリーナを県民だけで一杯にできるのでしょうか。例え国庫の補助があるとは云え一部建設費用は県の起債によって完成するのですから、県民が負担する事になります。その起債分を利用者負担とするよりも、県の観光政策の一環として県民に対するインフラとして提供し、利用料金を全国的に魅力ある制度として、全国の利用者を積極的に誘致し全ての利用者がもたらす経済効果によってその償還を図るべきと考えます。(「観光とけいざい」02年5月合併号、6月1日号)
  


Posted by 鉄瓶・錆び鉄 at 17:20Comments(0)へそ曲がりの言い分

2021年03月05日

大震災から十年後の希望の話 (再掲載10回目)

 以下の話は平成23年4月27日~5月1日までブログアップした文章を震災の周年を
 祈念し、再掲載いたします。長い文でごめんなさい。


この話は、私の得た情報と年の功で得た知識から、大震災から10年後を想像して書きました。でも結構確かなデータも含んでいると思います。物語風にして、久しぶりに上京し、
友人の店が3号店を開店したのでお祝いに行くという設定ですが、期せずして一昨年12月ヨットを横浜まで回航した時
この友人の店に行くことが実現し想定した縁を感じました。今年10年が経過しましたが、多くの課題は
解決していないのが実情です。改めて災害と人災に着いて考えてみる機会にして下さい。
震災10年目の今回をもって以後の再掲載はやめにいたします。
災害に会われて今もって大変な状況下にある多くの方々に心からお見舞い申し上げます。  「文中青の太文字はその後の状況を考察し加筆した部分です」
第1章 上京(状況)
あれから十年も経ったがその間、東京には行った事がないので最近3号店を開店した友人の店を訪ねることを口実に上京してみることにした・・・・・・・
五月の連休も過ぎたある日、久しぶりに羽田に着いた。広く大きくなってから
もう何年経つのだろう。聞くところによると、
あの大震災の有った東北地方の海辺の町と港は様変わりしていると云う。

港の傍にあった市場や海産物加工工場は頑丈な高いビルのピロティー部分はこれまで通り市場
として、その上層階に加工工場を移し、ビルの4階まで通じる広い大きな
駅の様なエスカレータは津波の避難用だと云う。
この頃は一定の震度で自動的に非常用発電機が動き少なくとも3時間程度は働く事が基準となっていた
4階から陸橋のように一直線に伸びる車も通れる道は一番近い高台の避難場所へと
通じているとの事。避難場所には多くの非常用器具、充電用発電機、食料が保存された倉庫や
移動用のソーラー自動車や電気自動車・ハイブリットと補助バッテリー付き自転車が置かれているらという。

町の人々は、新たに造られたニュータウンへ引っ越し、生活基盤である港へハイブリット
の車や充電式自転車で通っている。一部の人々は元の町の中に建設した耐震津波ビルや
耐震津波団地の中で暮らしているとも聞いている。
地盤沈下した土地は、団地造成時の土砂を積み上げ少なくとも海抜1メートル以上に造られた
それにはオランダからの技術指導もあったという。
(H24年現在国はこの様な事を検討中とのこと)海辺の防波堤は一定の津波防衛効果を期待するも、絶対の信頼を得る事無く再建されたが
あの時を防止できることは誰も信じていないようだ。

また、新しく敷設された軌道列車は、車体の屋根がソーラー発電になり、
車体下部に蓄電されるよう設計され今までの供給電力の8割でこれまで以上に
快適に走るらしい。原発はまだ完全に処理されていないが、一応の安全が保たれているとの事。
(H24年現在国は廃炉を認めているが、国中の原発を停止し廃炉にすることは決めていない)
しかし、原発の煙突に螺旋状に付けられている階段がハッキリと見えるエリアは、
数年前に国が買い上げ更地になり、植栽された樹木で緑地となっているのを写真で見た。
そこに住んでいた国民は、国が用意した「アトムタウンA町・B町・C町・D町」に移住し、
今でも年二回の健康診断を国がやっているらしい。
(この事も政府は検討中だがいずれそうなると思われる)
しかし、遺伝子レベルでの異常の発生はやっぱり他の地域より僅かではあるが多いという。
またアトムタウンは相互にソーラー電車で結ばれ同時に在来線にも乗り入れが出来るので
町や東京に行くのも便利になった様だ。
東京の地下鉄は、直下型地震に備え一段の強化と浸水時に対する排水作業を
無停電装置で行えるようにしたとの事。



第2章 移動(変化)
赤坂の友人の店に行くのはまだ早いので、銀座に寄ってみた。
ここに来るのも本当に何年振りだろう。
あの頃はやっと世界的証券ショックから立ち直りかけて、世界のブランド店が次々とオープンし
表参道や青山は再び泡が膨らみかけてきたような時だった。
夜の銀座はパリの夜のように落ち着いた街明りと成っていると友人が言っていた。
必要以上の照明は無くなり、夜は星もチラチラと見えるようになって来たとの事だ。


そういえば日本中があれ以来、普段の生活を見直し、分け合えば足りる生活を始めていた。
人口統計は年々減少傾向を示し、出生率の僅かな向上では人口減少を止めようがなく
経済活動年齢はいやが上にも上昇し一般的定年は65歳に成っている。
年金の開始は来年から70歳になるという。
私はもう75歳を過ぎようとしているが、
まだ残る返済の為に未だに店のカウンターの中に立たざるを得ないが今少し頑張ろう。
世の中は、あれからエネルギー自給率を高め、同時に消費量を抑えることに莫大な研究費と
コストをかけて、今やソーラーパネルはエネルギー変換効率5割以上の向上を見せ、
変換効率80%にも成ろうとしている。更にその形状はフイルム化し、
あらゆる曲面に対応出来るようになった事で、電車や車、屋根、外壁、屋上に設置できる
ようになっている。

建築家や都市計画家はエネルギー効率の良さが世界的にも一つの評価になってきたようだ。
都市の屋上は、緑化やソーラー化で上から見るとまるで緑と銀色の市松模様に見える。
人工的に植林された杉が手入れをされないことで、花粉症の発生源に成って来たが、
その南向きの山の一部は杉を伐採し土砂崩れを防ぎ、代わりに巨大なソーラーパネルが
設置され地域の電力需要の多くを賄っている。それらを広範囲な地域をネットワーク化
することにより次世代送電網を形成している。おかげで花粉症も少しは減少しているという。




第3章 改革(改制)
耐震と免震構造は一段の進化を遂げ、高層建築のエレベータは非常時に近くの階まで動き
扉が開く事により、閉じ込め事故は無くなっていたが、
停電時には最小限のエレベーターが自家発電や蓄電池により少なくとも一週間は動く
ことが建築基準となったようだ。
あの時30階、40階まで階段を登ったという苦労話は今は無くなった。
来店したお客様の中にはその後高層階から低層階や戸建てに移り住む方もいた
高層住宅の家具は原則造り付けと成り、家具の倒壊による人的被害は最小限に
設計されるようになった。建売住宅の家具も同様な基準が適用されている。

一方、風力発電は全国にあの頃440基以上あり、設置条件が平均風速6m/h以上
となっていたが技術革新により多少の条件緩和があるようだ、
風力に対する変換効率向上はあまり無いが、やっと50%になり、かなり実用されている。
しかし、自然任せの発電に変わりはなく夏の無風事態の対応と、
羽が回転する時の低周波騒音と蓄電池とインバーターを組み合わせた安定電圧と
電力供給時間が課題となっている事で、それほど多くの増加はないようだ。

これまで発電と配電が一体であった電力会社はその業務の分離で次世代送電網
の確立や広域単独電力会社は分割され、加えて電力を得る為の多様化と分散化は
エネルギー危機に対する施策に鑑みアナログ的な水車発電や海水揚水発電等も
小需要地域やその敵地よっては、これらの組み合わせで十分に利用されつつある。
一部には波動発電、深海と海面の温度差を利用した海洋発電も実用化の一歩手前という。
海辺の街には朗報である。
H24年国は沖縄でこの海洋発電の実験プラントを稼働させることを計画中と発表
あの震災時には国内電力需要の約四分の一の24%を原子力発電所で賄っていたが、
福島の廃炉(停止)以後、
新たな原子力発電所が建設された事は聞かない、でもあの原発事故以後、
世界的にその安全性への関心が高まり、安全基準や建設方法の積極的進化があり
いずれ再び建設されることは明らかである。
昨今の様々な情報ではまさしくこの様な状況と思われる

それは、枯渇していく化石燃料に頼る事が出来ない事は世界的に明らかで、
加えて隣国をはじめアジア新興国の電力需要を賄えないからである。
我が故郷の沖縄でも原発の必要性はあの時以前から論じられていた
いつまでも化石燃料に頼る事が出来ないのは明白だからである。
しかし、あれから10年未だに建設の動きはない。
きっと本島の近くの無人島が候補となり、静かに研究を重ねている事だろう。

日本のエネルギー輸入依存度は全体で80%以上にもなり化石燃料にいったっては
100%であることは今も変わらないが、
あれからは国民全体がその消費と工夫と技術革新によって総需要は下がり今はもう、
輸入依存度は18%以上も減少していると、この前のエネルギー白書に書かれたいた。
自動車の電化は進み、ガソリン車は全体の65%以下となりハイブリット車と電気自動車の
普及は需要増と共に価格も下がり、あと十年もすると化石燃料車は全体の15%程度になる
見込みと国は見ているらしい。
その根拠の一つに沖縄近海の海底からの天然ガスの採取が可能になったことがあげられる
船舶に於いてもエンジンは化石燃料から原子力へと少しずつシフトしている。
当時から軍事的船舶は原子力エンジンを積載した空母や潜水艦等は存在していた事から、
次第にその技術は民間にも開放され導入が始まってきた。
家庭電化製品は新しい素材やLED電球、プラズマ発光等々の発達により、
天井全体や壁の一部が照明器具となり冷蔵庫、IH調理器、空調機等は一段の省エネが進み、
その殆どを住居の屋根や、法定化されたマンション屋上のソーラーパネル等によって得られる
エネルギーによって大半が賄われる事になっているようだ。
夜間の照明については自然界に存在する様々な生物の持つ熱を発しない発光システム等の
研究が実用化されてきたことが大きいと云う。

あれから、国は国家の非常事態に対応する組織の改革に乗り出した。
それは当時の国の指導者や政党の混迷ぶりに、国民は新たな指導者と政治体制を求め
政治家も、政党も国民を幸福にしない国から、真の主権者である
国民を幸福にするための政治
に心がけるように成って来たからである。

下の画像は地震の発生源から太平洋上に拡散する津波のシュミレーション画像です




第4章 変化(変質)
あの震災時には国はまるで戦時の大本営発表のような情報発信や、
国際的にもあまり例を見ない記者クラブ制度による情報の一本化で国民の目を背いていた
震災直後の日本人の実に整然とした行動や自制心のきいた身の置き方は、
世界中から称賛されたが、思えば何時でも、お上の下に国家体制に組まれやすい
国民性の表れのような気がしていた。むろん暴動や、殺りく等が起きなかった日本人の
教養の高さと規律の良さの表れであったのではあるが、・・・

国の知らしむべからず、寄らしむべき的な体制は何時までも変わっていない様な気がした。
ジャーナリスト達のもっと多角的に多様な情報取得と、その発信が今でも望まれている。
(孔子の「寄らしむべき、知らしむべからず」は別の解釈もあります)

その後、国家非常事態に対応するために国は、防衛省の自衛隊を防衛軍に組織替えと
同時に国家維持隊の創設を昨年成立させた。
また、任意ではあるが、18歳以上30歳未満の国民に対し、
防衛訓練又は国家維持隊への1~2年の入隊を奨励する事も盛り込まれた。
法律によってその間の身分は保証され、期間終了後は元の会社や勤務先、
学校に戻れる事に成っている。入隊経験者は非常時にはそれぞれ予備役として
国家、国民の為に、その役務を果たすことが義務付けられたようだ。
同時に国家機能や機関の分散が始まり、
その候補地は過去千年レベルで自然災害の少ない地域が検討されている。
あの福島原発は未だに事後処理をしているとの事だが、陸路からは厳重に管理され、
一般の国民にはその様子が知られることは今は殆どないのは、
現在も情報管理下に有るためだ。
事故処理には海路からその専門家や作業員が入域し、残された核燃料棒や汚染物を
特殊な容器の中に取り込み、フランスの核処理会社に移送して処理しているらしい。
発電所の土地や極近隣の土地は、洗浄しても本来の自然環境を取り戻すには
あと何百年も掛かるという。

銀座から新橋までの街を歩いていると、何かしら二十年以上も前のような
落着きを持った賑わいを感じる。
レストランは最近やっと一般的になった人工照明を使った野菜工場で栽培された
トマトや青野菜、果物等が提供されるようになっているし。
魚も蓄養や養殖技術が発達し、あのマグロでさえ、
人の手によって海岸の入り江や湾の中で養われるようになった。




災害に会われて今もって大変な状況下にある多くの方々に心からお見舞い申し上げます。
第5章 体制(態勢)
企業努力と技術革新や日本人特有の忍耐と工夫で、今や日本は、
人口が減少しているにも関わらず、豊かで自然で普通の生活が送れる国として
国際的にも評価されるようになってきた。
震災時の国民的なボランティア活動はその後起きた自然災害の度に組織化され、
今や力強い頼れる組織となり、NPOやNGOとの連携、協力体制が確立し
懸念されている東海沖地震や都市直下地震に何時でも対応できる体制が有ると云う

昔の京都議定書で約束した炭酸ガス排出量はすでにクリアし世界で最も空気がきれいな
国の一つとされている。しかし、近隣の大国やアジアの新興国は未だにその途上にあり
日本の省エネ技術や環境技術は世界のトップ技術となり、
各国から支援を要請されているとの事。まさしく怪我の功名の様なものだ。

震災時には多くの国民がこれからの日本の将来に対し様々な事態を考えたと思うが、
いつの間にか、其の事は少しずつ忘れ去られようと成りつつもあるようだ。
当たり前のソーラースマートフォン、デジタルテレビ、スーパー、コンビニ、
毎日の移動エネルギーや食べ物等、交通手段等々が復旧復興し日常が
戻ってきた様に見えるが、国民の国民たる証明を示すIDカード制が導入され、
それには詳細な個人の出生や本籍、現住所、家族、血液型、遺伝子型等が記録されていて、
災害時に個人の特定や、輸血、移植などに約立つように成っているという。
あらゆる通信手段は衛星通信が標準と成りつつあり、
その普及率は実に国民の70%を超えようとしていた。
GPS込のソーラースマートフォンはいかなる時も即個人の位置が把握でき、
救助や援助に空から派遣できるという。国民は個人識別番号を割り当てられID化され、
そこに入力された戸籍や国民健康保険番号等の個人基本情報の
バックアップデーターの保存基地として、北海道中央部、京都奈良地区、
沖縄の普天間返還跡地(計画中?)に設けられ、非常時に対応できるように整備されていた。
その場所は地震や津波等の天災が相当の長期にわたって起きた事の無い
場所が選定されたとの事だ。





最終章 回顧(懐古)
新橋から最新の地下鉄に乗のって開店時間に合わせ、赤坂の友人の店に着いた。
今でも沖縄の地産食材料理はここでも人気があるらしい。
予約してあったカウンターの端っこに座り、昔の思い出話を肴に若かりしときの
沖縄での暮らしを語る友人は、孫がこの店を引き継いでくれるまで頑張り、
いずれ石垣に帰る様な事を話していた。
幾つに成っても故郷忘れ難しだ。
大震災あの時、震災地の故郷を離れて見知らぬ地に避難した多くの家族や町の住民達や
原発事故で強制移住させられた全ての町の住民達は、
家族によっては移住地にそのまま定着し、新たな街の住民に成る人や、
国が設けたアトムタウンにその生活を移す人など様々な人生を送る事と成ったが、
ようやく少し落ち着いてきた様子が、ドキュメンタリー番組で流れていた。

そこには10年たっても残された基礎だけの住居跡や隅に忘れ去られた瓦礫の一部と
いまだに仮設住宅や、避難先から仕事もなく高齢で行く所も無く暮らしている人々が
少からず居る事も同時に紹介されていた。
偶然にもちょうど震災からしばらくの間あの普天間問題が並行して
日米間で協議されていたが、安保条約に付随する基地を全国の地域で負担しようという
沖縄の意思は無視されていたように、原発破壊による放射能問題も又普天間の問題と
同じようにその分散や受け入れは殆ど無く、大部分が近くの地下や人気の無い山間に
集積され、ただただ時間に任せている状態が今も続いているとの事。
昔「小禄は日本ですか」という話があったが、福島県民は日本人ですか?
沖縄県は日本ですか?日本国の範囲は何処から何処まででしょう。
結局、普天間は辺野古に移転する事になったが、未だに完成していない。
国は完成後には新たに創設された防衛軍も利用しようとしているようだ。

最近の教科書には日本国有の地学的仕組みや地震と津波と原発の三重苦の事実が
偽りの無い経過とこれから起こりうるかもしれない時の行動規範が教えられていた。
また災害時の非常用装備品の中で、特に海岸地域の住民には津波で海に流され
多くの方が亡くなった事を教訓として、海難事故用の位置情報発信器と
夜間自動発光器付きの自動膨張ライフジャケット等が付け加えられるようになった。
(ヨットでは既に利用されています)
日本が世界に自慢していた地震予知研究はその投下費用と成果が見直され、
非常災害時の国民の安全に対する研究と対策に基軸を移している。
そういえばこの前の3月11日は「あれから10年」の特番が放映され、
津波や地震そして原発の事故の様子や避難先の様子などが流れていた。そしてあの時の
心は誰にも見えないが、心使いは見える。
    思いは誰にも見えないが、思いやりは見える
金子みすず
あのACジャパンの広告もテレビを見ている人々をフラッシュバックさせてくれた・・

翌日の午後、羽田からの飛行機はよく晴れた空の下、

本島西側の海岸が眼下に見えるコースをゆっくりと降下していた。

穏やかな波のある紺碧の海面と見覚えのある半島や岬は、
改めて故郷の豊かさと、有り難さを教えてくれた。

私が父の年齢に達する頃には、日本は経済的豊かさよりも
社会的豊かさが重んじられる国になっているだろう・・・・

私の期待と希望を込めて書かきました。

平成29年3月5日再掲載
  


Posted by 鉄瓶・錆び鉄 at 15:00Comments(0)私のTUBUYAKI

2020年11月21日

映画「マイルスデイビス」を見た

先週マイルスのドキュメンタリー映画を見た。映像資料の収集に素晴らしさを感じた。
改めて彼の思いや素晴らしさと反骨精神の根底を感じた。丁度10年前投稿した内容を
再掲載する。あれから10年75歳になったのだ

仕事の間に「マイルスに訊け」を読んだ。

著者の「中山康樹」氏は私の愛読書であった「スイング・ジャーナル」編集長をしていた事もある音楽評論家である。あの「オノ、ヨーコ」に批判的な日本人評論家でもある。まだ20代のチンピラの私ががジャズをさも知ったかぶりで聞いていた時代である
1958年に録音された、キャノンボール・アダレーの「サムシン・エルス」ルーノート盤の1曲めの「枯葉」黒いジャケットの右側に書かれたSOTHIN'の下にELSEの黄色くそして力強い書体
それを見ただけで何かを感じさせたデザインである。印象的なイントロに次いで発せられたミュートの利いたマイルスの4っつの音を聞いた途端
体の動きが止まり、呼吸すら止まって仕舞うほどのショックと感動を覚えた記憶がある。聞き覚えのある名曲「枯葉」のメロディーはその時、時空を超えて宇宙の中から囁いているが如く体の中に沁み込んでいった。
その前の1956年「クッキン」には「名演と言われている「マイ・ファニー・バレンタイン」
が録音されている。この曲もブルースを身上とするマイルスの音で、思わずしんみりとしてしまうサウンドである。
この本の中に
「”ジャズ”という言葉は使わないでくれ。そいつはアンクル・トム言葉だ。
白人がオレ達に押し付けた言葉だ。それにオレは、この世に”ジャズ”なんて
言葉がある事すら知らなかった、「ダウンビート」を読むまではな。」
ジャズミュージシャンに分類されることを拒否し続けていたマイルスは”ジャズ”という言葉もまた黒人に対する差別用語として嫌っていた。
と書かれているページは何度も読み返してしまった。20代から30代へとマイルスの嫌いな”ジャズ”を聞き込んでいくと、この音楽は常に
時代の感覚を写し出し、反抗し、挑戦し、挑発し続けている音楽であった事が解る。あえて過去形にしたのは、最近は“ジャズ”をノスタルジーとして演奏する風潮が有るように思えてならないからである。確かに演奏技術や技法は高度になり、すごい事をしていると思うが、其処には挑発や感動が感じられないのである。もしかすると、もう私にそのセンサーが萎えてしまったのかも知れないが。



もう2つこの本からマイルスの言葉を記したい。「明日に向かって何もしないなんて、オレには耐えられない」
65歳でこの世界から去った時「終わってしまう前に、終われ。」

何という言葉。私もすぐ65歳になるのだ。  


Posted by 鉄瓶・錆び鉄 at 22:40Comments(0)

2020年08月05日

沖縄の古書からの記録「尖閣列島」 再掲載

この話は以前アップした話の再掲載です。戦後75年になりますが記憶すべき実話

 開催されていた「りうぼう」7階の「県産本フェアー」で
八重山の食12カ月「食在南海」石垣愛子著・を見つけて昨日までの休業日に
読んでいると思いがけず以下のような記述があった。そのまま転記します。
チョット長いのですがご時世ですので読んでみて下さい。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

尖閣列島

第二次世界大戦末期、昭和二十年七月、石垣港を出港し台湾へ向かう集団疎開
船二隻が、尖閣列島魚釣島近海で米軍機の銃撃を受けた事件があった。
第一千早丸と第五千早丸である。乗っていた多数の人命が失われた。
銃撃を逃れあやうく難を逃れた人びとは、魚釣島に上陸し、飢餓死寸前で生還した。
当時、沖縄戦も終わり多大な損害を受けた日本が、本土決戦も時間の問題かに見えた
頃のことである。石垣島も台湾への疎開を余儀なく強いられ、
年寄りと子供たちが乗船した最後の疎開船であった。
百八十名、五十トン級焼玉エンジンのポンポン船で時速五マイル位であった。
尖開列島はほとんど小島や岩礁からなっていて、八重山群島の西表島の北北西
約百五十キロメートルの距離にあり、面積は一番大きな魚釣島が三・八平方キロ
メートル、南小島が〇・三五平方キロメートルである。昭和二十年六月三十日
午後九時頃、石垣港を疎開船二隻は出航、西表の船浮港に二泊して、
七月二日午後七時頃出港した。

生きながらの火葬のような残酷

疎開船のルートは、尖閣列島魚釣島に接近し、左折、西南へ曲がって台湾に達
するという、三角形の二辺を行く、敵機の目を避ける安全コースであった。
しかし、七月三日の午後二時頃、遠くに爆音とともに機影を発見、
しだいに爆音が大きくひびき、機銃が発射されたのである。
デッキの上は、負傷した人や、絶命した人、無意識に海中に飛び込む人々で
惨惨たる場面であったという。第五千早丸は船火事を起こし、
船尾より燃えつきて沈んでいったという。
「生きながらの火葬のような残酷な姿であった」と生存者の手記にあった。
第一千早丸は機銃弾で穴があき、エンジンも故障したが、
魚釣島へ奇跡的に上陸したのである。
七月四日の夕方であった。船上の遭難者の死体は陸上へ移し石を積み、
手厚く葬った。食糧は全部陸揚げして共同生活を始めたわずか十四、五日で
つきてしまった。
孤島の生活は水だけは不自由なくあったが、各自で雑草の葉や根を探し食べられ
るものはすべて食べることになった。
長命草、アダン、クバの芯、小魚、カニ、ヤドカリなどである。
しかし次第に栄養不良、下痢などを起こし、衰弱が目立ち、上陸三十日頃から
死亡者が続出し始めた。
 島に着いて数日後、第一千早丸を連絡に派遣しようとしたが、
エンジンがトラブルを起こし、外部との連絡手段は完全に失われ、
文字通り孤立無援となった。
皆が衰弱して行くので、協議の結果、連絡用の小舟を作ることとなった。
幸いなことに船大工の岡本氏が避難者の中におり、必要な大工道具も持っていた。
島の周辺に流れ着いた破船から板材、釘などを集め、岡本氏の努力によって
長さ五メートル余り、幅一メートル余りのくり舟が出来上がった。
そして皆の持ち合わせの布や着物で、帆も造った。
およそ二週間で完成したのである。この船に乗る連絡の決死隊が選ばれた「希望者の中からよく泳げる強健な体格の者」
というのが条件であった。九名に決定した。
積み込むものは、コンパス、船中食糧としてクバの生の芯などであった。
 九名の決死隊は、頭髪を切って紙に包み、遺髪として島に残る人々に渡した。
すると一人の婦人が、母が米寿(八十八歳)のお祝いに着たという、赤い着物を
引き裂いて腹巻きを作り、一同に渡した。
一同は押し頂いて固く締めて乗船したという。
見送る人達も生きる希望を九名に託し、神仏の加護を祈りつつ、万感を込めて
見送ったという。

生死をかけた苦難のコース
 
決死隊の乗ったくり舟は八月十二日午後五時頃島を発ち、
一路南南東石垣島の方向を目指して帆走した。
舵取りは、三名が交替で漕いだ。北西の順風で、空も晴れて、満天の星空の下、
一晩中すべるように快走した。昼間は二、三度敵機に見つかり、
その都度全員海中に飛び込み、くり舟をひっくり返してその下にかくれた。
敵機は沈没したと思ったのか、銃撃を受けることはなかった。
敵機が去ると舟を起こして乗り、また漕ぎ出すということを繰り返したのである。
これは、毎年旧暦五月四日のハーリー競争のプログラムの中にある、
糸満漁夫独特の転覆ハーリーの実演である。
敵機におそわれた生か死の間際でこの水遁術で難を逃れたのである。
七月十四日朝、前方に山の頂上が見えた。「あれは石垣島だぞ!!」
と一同喊声を上げ、力いっぱい漕ぎ出した。
水平線上に平久保半島、屋良部半島が現れ、島の全貌が見えた。
十四日午後七時頃、川平石崎の南峯底地湾の北岸に到着した。
空腹と疲労困ぱいで、意識はもうろうとして立ち上がれず、
助け合いながら這うようにして上陸、よろめきながら川平の部隊にたどり着き、
ことの次第を報告したのである。魚釣島を出発して五十時間。
海路およそ百七十キロメートル、生死をかけた苦難のコースであった。
ことの成り行きは一瞬にして伝わり島は騒然となった。
関係諸機関による緊急対策が論じられ、翌十五日飛行機による緊急連絡と、
食糧の投下があった。魚釣島では、爆音に驚き、木陰や岩陰にかくれていたが、
日の丸機とわかり飛び出して万歳を叫んだという。
食糧の投下は、ビスケットとコンペイ糖であった。
そして、二、三日中に救助船が迎えに来ることを伝えた。
八月十八日早朝、救助船が三隻到着した。火を焚いて入港の位置を合図した。
軍医も同船していた。餓死寸前の骨と皮ばかりの生存者を三隻に分乗し、
同日昼前魚釣島を出発、翌十九日昼前に石垣島に着いた。
ほとんどが担架で運ぱれた。その時終戦を知ったのである。
生存者百三十名であった
(南方同胞援護会機関紙特「集尖閣列島」と「尖閣列島」緑間栄著を参照)。
 
昭和四十四年、尖閣列島周辺海域に莫大な石油資源が埋蔵されているとの調査
結果が発表され(主に石油及び天然ガス)、世界の注目をあびるようになった。
中国や台湾が同列島に領土権を主張してきたのである。
襲撃を受け島の近海で散った人達や餓死で亡くなり島の土となった人びとの霊
はどう感じているだろうかと、思いはそちらの方へといく。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・








  


Posted by 鉄瓶・錆び鉄 at 13:15Comments(1)私のTUBUYAKI

2020年04月15日

何故辺野古に固執するのか?私の理解

密かに進んでいる辺野古問題!コロナの国際的危機に乗じて!!


様々な情報がネットに出現していますが、個人的には埋め立て反対か否かの前に何故
今の政権はこれ程までに辺野古に固執するのか
明確に理解できません。国際情勢は色々あるでしょうが、
辺野古が完成し使えるようになるまで今の紙上の情報では10~15年
又はそれ以上とも言われていますが、内外の軍事基地などの
専門家は飛行場としては短く実戦では使えないとも書いていますが、
政権は自衛隊を軍隊として憲法でも定めようとしています。
同時にアメリカは日本に自ら守る様に仕向けています。
世界では中立国と言われているスイスやオーストリアやスウェーデン等にも
軍隊は有ります。同時に最近の軍備は益々発展し軍用飛行機などは
短い距離で離発着出来る事が可能な戦闘機なども出来ています。
辺野古の飛行場が短い事は大きなハンデイーには成らないと思います。
かつて浮沈母艦とも例えられた沖縄に現政権は
将来日本軍空軍基地としての飛行場として
考えているのではないでしょうか。
背後の辺野古陸上施設はその基地機能を維持するに十分な
面積を持っています。昨今の海上自衛隊の船が
航空母艦ではないかと推測されているが
この船の甲板の長さは僅か250mほどです。
最近の短距離で離陸と垂直着陸が可能なSTOVL機 
F-35Bが20機可能とされたいます。
辺野古飛行場ではオスプレイを始め十分な使用が出来ると思います。
同時に沖縄からの航続距離は非常事態を想定する限り
そんなに遠くまで飛ぶ必要は無いでしょう。
この様な事が現政権は青天井の予算と工事期間を認めているのでしょう。
しかし、現実として日米安保体制が解消し
日本が自ら自国の防衛をせざるを得なくなったらどうなるのでしょう。
スイスの様に国民全員がハリネズミの様に何時でも
外敵を防げるようにするのか中立国として自分の軍隊を持ち
戦争は仕掛けないが、攻められたら国家の威信にかけて
防衛すると覚悟を決めるのか?
いかなる国とも軍事同盟は結ばない選択をするのか。
それとも軍備を持たず、基地を作らず、武器を持たずとするのか。
答えは出ませんでしたが、
県民投票を機会に世界の憲法と軍備と平和との関係を
考えるきっかけになりました。
  


Posted by 鉄瓶・錆び鉄 at 11:00Comments(0)へそ曲がりの言い分

2020年04月04日

コロナ騒ぎをSFする。

この時期不謹慎とは思いながら書きます
2019年12月31日いよいよ来年はオリンピックの年
地球外生物は密かにカウントダウンしていた。

「3.2.1.新年おめでとう!
 さあ!これから最新のウイルスを地球にばら撒く時が来た
 大きな大陸からにしよう。その内地球中に広がるから」
「このウイルスを地球に撒いたらどうなるの?」
「何も破壊しなくてもそのインフラがそのまま手に入るからだよ」
「そうだね!爆弾や原発破壊で地球が汚染されたり、色々壊れたりしないから
 居なくなった地球人の後にそのまま住めるネ」
「でも、少し時間がかかる事になるかな」
「どうして?」
「これまでも時々撒いて来た何種類かのウイルスを消すのに時間が必要なんだ」
「大変な事なの?」
「懲らしめてやるつもりで色々ウイルスを開発し地球人に試して来たけど
 何故か地球人は気が付かないんだ~」
「少し自慢しすぎだネ」
「そうなんだ、宇宙で一番きれいで豊かな星なのにどうして地球人は
 住んでる所を大切にしないのだろう」
「今度の新型ウイルスで少しは目覚めるかもしれないが、そうなったら
 一緒に地球に住めるようになるかもしれない」
「そしたら、僕にも友達出来るかな?」
「難しいかもね、地球人にはこの原因が解らないから」
  


Posted by 鉄瓶・錆び鉄 at 15:00Comments(0)へそ曲がりの言い分

2020年03月18日

ジャズを聴く時

ジャズを聴く時



村上春樹が書いたジャズに関わるエッセイを読んでいる、ジャズ喫茶をやっていたこの人の音楽に関する話は面白い、でも代表作などは読んだ事はない。そんな時部屋に流れている音楽はインターネットラジオが聞けるコンポで探したドイツのバッハのチャンネルを聞きながらが何時もの時間。本を読むときは何故かバロック的な音楽の方がよろしい。ジャズを聴きながら読むとついその演奏や音の行方に思考が持って行かれてしまうからだ。文体をかみしめながら読む時にその隙間を与えてしまい文脈が途切れるような気がしてしまう。ジャズだと体が反応するというかその気になってしまうのでバロックを聞きながらがいい。元々サロン的音楽が源の様だからかも知れない。何かの情報誌にドライブ中にジャズを聴く事は勧められないと書かれていた、運転に神経が集中しないらしい、何となく分かる気がする。しかし、何らかの数字や資料の整理、税務申告などをPCで打ち込む作業をする時は、手元のPCで作業をしながらネットでジャズ番組を聞くそれもニューヨークのチャンネルが良い、打ち込み中にデータの確認がリフの様にリズムに乗って出来るからだ。加えて時々米語でMCが入るがこれも音として聞こえてくるからである。かつて米国在住の叔父に新聞を読みながらニュースが理解出来たら英語も一人前と言われた事が有る。ましてハリウッド映画の字幕を読まずに会話を理解するなどは私にとっては、もってのほかである。ですから仕事の為の単なるPC操作時には音符の合間と隙間に打ち込みが出来るので軽いジャズを聴きながらでもいい。本気でジャズを聴くからには耳をそばだてるか、酒の肴に聞くかである。本気もウソ気も無いが・・・。


小説などは書かれている筋を想像したり、交わされる会話から人物の性格などを想像したりその場のシーンを思い描いたりしながら読むので私にとってはバッハがいい、読む事の邪魔にならないが読むリズムも創ってくれる。これが交響曲などになると本は読めない。やっぱり酒だ。若い時はいわゆるジャズ談議などしたことや生意気にディスクジョッキーと称してラジオ番組を持っていた事もあった。今になって思うによくもあんな理解や情報でやれたもんだと恥ずかしく思う。そのきっかけは当時新聞でジャズの事を書いていた渡嘉敷唯夫氏が与儀の琉米会館で定期的なジャズレコード鑑賞会を開いていた時、東京帰りの私は氏に生意気にも解説しているジャズはもう古い!今はモダンジャズだと訴えた事がラジオに出る事のきっかけとなった。氏が持っていたジャズ番組に出てみないかと、その気になって足かけ2年半以上ラジオ沖縄でやってしまった。でもそれは改めて歴史や時々のエピソード演奏家などを調べ勉強する事にもなった。そんな所で自分の音楽に関する関心の始まりは高校時代放送部に居た事ではないかと思う。屋上の小さな部屋に校内放送の為のアンプとテーブルにマイクが有るだけであったが、入部した時の一年先輩と気が合いその部室にアナウンスブースらしき小部屋を造り、局らしい雰囲気を出し、それまで学校の連絡事項程度の校内放送をほぼ毎日昼食時間に音楽とその解説や、各クラブ活動の報告等を始めた。学内に有ったレコードを選曲する時、多少なりとも事前に聞き簡単な解説文を用意し女子部員にライブでアナウンスした時代が有る。その頃ビートルズの出初めで個人の所有物を流したら即!校長室に有るリモコンマイクから怒鳴られ先輩の部長はしばらく静かにしていた。でも時にはメサイヤ全曲を音楽室で放課後鑑賞会をするなど学校らしいこともした。巷ではRBCラジオでアメリカントップフォーティーがほとんど時差なく放送されていた時代でしたので、校内放送も当然にかけていいと思い何度か叱られつつ洋楽をながしていた。この様な事がジャズを含め洋楽を聞き始める事につながったのではないかと思う。何の抵抗もなくアメリカを素直に特に西海岸を受け入れていた青春だった。




上京後新宿や四谷、新橋のジャズ喫茶に出入りするようになり夢中になった。多少東京にも慣れると勤めていた職場の関係もあり六本木周辺のライブハウスや実習先に近い横浜まで遠征した事もあった。新宿の「DIG」に行った時、まじめに会話も無しで唯々聞き入っている雰囲気に違和感を覚えた思いがある。歌声喫茶が盛んな時代である。ジャズとて音楽である、楽しむ事でそこにあるウイットや批判、訴えなどを聞き取りながら楽しむときに奏者の背景を知る事によって何を言わんとしているか等に聞き耳を立てて体で感じる事もある。時にはBGMとして酒席の場でも聞く。特に歌の場合その歌詞の歌い方で歌い手の訴えたいことや歌詞をどう解釈しているのかが解るような気がする。同じ歌詞でも歌い手によってまるっきり変化するような時もある。「奇妙な果実」のように時代背景を知らずしてビリーホリディーは聞けない。サッチモの「この素晴らしき世界」は時代なのかそのまま表題の解釈で歌っている昨今だが、サッチモが歌った時代は明らかにベトナム反戦の意をもって歌っている。その事に気が付かなければならない。


私はラジオ番組で年の暮れの曲は毎回この曲を選んだ。いつしかTVのCM曲で使われて、その意味が失われている気がする。でも歌は世に連れ、世は歌に連れ・・・・・。またとりとめもない事に成った。  


Posted by 鉄瓶・錆び鉄 at 09:35Comments(0)ジャズの話

2020年02月19日

大森実氏の訃報 再掲載

この記述は最近の沖縄における基地の問題や日本の自衛の問題等を自衛考える機会にしてほしいと
古いブログを再掲載いたします。

突然ですが私に広く世界に向けて視野を広げてくれた師である
大森実氏の訃報を昨日の新聞で読みました。
1967年頃チョットしたきっかけで、当時氏が発刊していた
「東京オブザーバー」と云う週刊新聞を通じお会いする事が出来ました。
沖縄から出て東京で暮らしていた頃です。ジャーナリストとして既に多方面で活躍していた氏は
毎日新聞の特派員記者としてベトナム戦争の取材で現地に入り、日本にニュースを送っていました。
後にその時書いた記事がきっかけで、当時のアメリカ大使より抗議を受け、
毎日新聞社を辞めざるを得なくなった方です。
常に世の中の情勢をジャーナリスティックに捉える視点は素晴らしいと感じていました。

私はその後両親の事情で帰郷してしばらく後、確か琉球新報の講演か何かで来沖された時に
お会いした際「メースB写真が撮りたい、どこかないか」「可能性のあるところを知っています」
「カメラマンを送るからよろしく」の様な会話の後、暫くして廃刊になった「東京オブザーバ」の
カメラマンだった方が(名前は失念してしまいました)来沖し、尋ねてきました。
一緒に恩納村の谷茶にあるミサイル基地に行きました。勿論、鉄条網の中ですから近づく事は出来ません

当時国会で「核抜き本土並み返還」が議論されていた頃ですから尚更のことです。
車中で「時々ミサイルを格納庫を開けて頭を出している事があるのです」「そこが撮れたらベスト」
の様な会話をしていました。
なぜその様な事を知る事が出来たか?

当時私は車に凝っていて、その場所の近くから山頂のレーダーサイトの入口まで
オキナワスポーツカークラブ主催のヒルクライムレースに参加していたのです。
写真はその時の様子です。
そのクラブは軍人、軍属、民間の愛好家が集まっていたのです。嘉手納飛行場の中で
ジムカーナレースをしたり読谷村旧日本軍飛行場跡地でレースをしたりしていました。
その時、問題の「メースBミサイル」の基地を見ていたのです。
通常はこの道はフェンスで閉ざされていますが、このヒルクライムの時は参加者などは
入る事ができました。
細長い写真の右側に観戦している人たちが写っています。その背景に写っているのが
あの「メースB核ミサイルの発射基地」なのです
そのコマを立てて見るとよくわかります


近くの1号線脇に車を止めて藪の中をフェンスのそばまで行くと幸いにも
8基の内の1基が扉を開けミサイルの頭を覗かせていたのです。
彼は周辺の写真やミサイルの写真を撮り、私達は急いで帰り、その夜祝杯をあげた
思い出があります。
一カ月ほどしてその写真は報道月刊誌のグラビアを飾り、日本国初めてのスクープとなったのです。
ミサイル基地のある事は知られていましたが、本体が格納庫から露出し写された写真は、
復帰前の核抜き本土並みの議論に一矢を刺したのです。
1969年か70年にこの核ミサイル「メースB」は撤去され、
今は創価学会沖縄研修道場となっています。

その後も大森氏とは来沖される毎に何度かお会いし何時も身につまされる話を聞いていました。
あのカメラマンはその後ベトナム前線に取材に行ったが行方が分からなくなったと氏から聞かされました
訃報に接し40年の時を遡り懐かしくも悲しくも思い出しました。

余談ですが、坂本九がその頃歌った「エンピツが一本」浜口庫之助作曲は、大森実氏
応援歌」だったのです。

   ご冥福をお祈りいたします  


Posted by 鉄瓶・錆び鉄 at 16:01Comments(1)