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Posted by TI-DA at

2020年02月19日

あの時のカメラマンが解った!再々掲載です

 この記事は2010年ジャーナリスト「大森実」氏の訃報を紙上で知った時から思い起こした記憶を基に書いたブログですが
昨今の安保や基地にまつわる色々な状況から改めて掲載します。

ある時ブログのアクセス元のキーワードをチェックしていると、
2010年3月28日のブログにある「大森実」のキーワードがヒットしていた。
それは・・・・・

むかしベ平連という地下組織が有った。
ベトナム反戦脱走兵を援助する組織であった。あの東大安田講堂事件の頃である。
そこにかわっていた山田健司氏の逝去の報があった。
その、追悼の記事の中に、氏の知人に大森実氏の主宰する
「東京オブザーバー」紙の記者「中島照男」の事が、大森実氏の書いた
「虫に書く」の中に詳細に書かれているとの記事を見つけた。
この記者こそ、私の知人カメラマンであり、あのスクープのきっかけを
造った記者である
早速アマゾンで古書を探し、ついでに「石に書く」も取り寄せた。
なんとなく、あの時の事が書かれている様な予感がし、
斜め読みでページをめくった。




アッタ!!358ページ~363ページをダイジェストする。少し長いが綴ります。
「望遠つきをか?」
「ニコンの一三五ミリだ」
中島は翌日、上田と別行動をとった。中島にとって沖縄取材最後の日であった。
上田泰一は別行動だと言われて、かえって好都合であった。
上田泰一は、太平洋大学の洋上セミナーに参加したことのある◎◎という沖縄の青年と
偶然、会ったのを幸い、柳生の案内する自動車で、石川市恩納のメースB大隊に向かった。上田の狙いは、メースBの核弾頭である。私は上田泰一に、メースBの詳しい話を語ったことがある。上田の異常に執拗な質問に食いつかれたときだ。「あの構築物。倉庫を横倒しにした八つの発射炉をもつ構築物の人口は、構築物の背面にあるそうだ。
人間が一人、やっと通れる狭い鉄の諦が入口だ。地下室へ階段が続く。地下一階には、
十五、六坪の部屋が、五つあるはずだ。一つは発電所、一つが司令室だ。つまり、中国とシベリアに、核弾頭をぶち込むメースB発射の押しポタソのある部屋だ。コンピューターに八個のボタンが並んでいる」小さなずんぐりした身体の上田泰一は、
背中を丸め、身を乗りだして、私の話に興奮した。
「司令室の外に長い廊下がある。幅が一メートル、高さが天井まで二十メートルくらいだ。廊下には計器がいっぱいだ。放射能識別器もある。その廊下のつき当たりに、赤紙が貼ってある」「赤紙?」「その赤紙には、発狂した者、酒乱した者は、
将校でも射殺せよと書いてある。発射台へは、その地下室を下りる。裏側の鉄の罪を間くと、核ミサイルのメースBが裏から見える。発射台の両側は、人間一人ずつ通れるほどの間隔があって、その中に、メースBが人っている。ロケットの長さは十五メートル。核弾頭は、直径が、一・五メートルくらいだ。色は、青みがかった黒だ」
「青みがかった黒!」
「撮りたいか?」
上田巻一は、どくっと音を立てて、唾を呑んだ。
「撮りたいですとも!」
「撮ったら、世界一の犬侍ダネだ! 日本国中が、ひっくり返るぞ!」上田巻一が、メースBの核弾頭を狙う気にたった端緒は、私がこうして上田を発情させたから
かもしれない。「でも、よく知ってますね、所長!」
上田泰一は、那覇で会った太平洋大学卒業生の◎◎とその友人から、
「恩納の、あの怪物は、時々、夕方になると、鉄扉の蓋を開いて、虫干しをするよ」と何気なく聞かされて、飛び上がって喜んだのである。
「連れて行って下さい」
恩納のメースB大隊の人口には、赤線が引かれ「これより入湯禁止」と書かれていた。
自動車の運転手は、厭な顔をしたが、上田は強引に、車を乗り入れさせた。
坂道を登りつめると、雑木林があった。車を林の中に入れた。
上田はバッグから、秘かにカメラを取りだし、準備をして、時を稼いだ。
メースB発射台の鉄の扉が開いたのだ。
幸運、ラッキーとはこういうことを言う。上田は、落ち着いて、ゾリゴール300ミリの望レンズをカメクにつけた。ほかに135ミリつきのニコン一台、タイム60分の1、絞り六・九。西陽がさして半逆光だった。上田泰一は、望遠300ミリで21枚、135ミリで5枚を握り、最後に、ユコン135ミリで6枚撮った。上田泰一は赤いシャツを着ていた。遊びにきて迷いこんだ形を装ったのだ。
車の中にころげこみ、『それ! 走れ!」
上田楽一は、赤いコロナを、そのまま空港に走らせた。時計を確かめると、中島照男の那覇空港発の飛行機に、間に合うぞと思ったからだ。
上田泰一は、空港ロピーに、両手をズボンのポケ″トに突っこんだまま、くわえタバゴの中島が立っている姿を発見した。
「中島さん、核弾頭が撮れたかちしれませんよ」
「ほんとか?」と中島は、ぎょっとしたようだった。
「ほんとです。核弾頭ですぞ!」
「撮れてるか!」
「絶対!絶対、撮れてるはずだ」
セルロイド・カプセルに納めたフィルムを、上田は中島に手渡した。
中島は自分のカバンの底にそれをしまった。
「現像の条件は、押してほしい。ちょっと露出不足気味です」
「よーし、分かった。君、ほんとに撮れていたら、大変だぞ!」
「税関をうまくパスして下さいよ」
「まかしておけ」
中島照男は、ポケットの中から、皺だらけになった十ドル紙幣を4枚、上田にくれた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 
「よくやったぞ、上田!」
私は土田泰一と中島コンビに「社長賞」として、金三万円也をだした。中島が、上田が自費で沖縄に行った事実を報告していたからだ。
次号、東京オプザーパーは、上田泰一のカメラが見事に捕えたメースBの、発射炉中で不気味に光る、青ずんだ黒色の核弾頭を、紙面全部を潰して、掲載し、こういう大見出しをつけた。
 
「これが、核つき返還だ!」

以上がその時の状況であり、それは祖国復帰2年前の事である。
此処までがこの本のメースBに関する記事の要約です。
文中の◎◎は私の本名であります。確かその時の写真を持っていたが何時しか紛失してしまった。当時、中島氏が沖縄に来た時、行きつけのジャズ喫茶で合い、復帰前の沖縄の状況を話した事を、この本を読み鮮明に記憶がよみがえって来た。
その後、来沖した大森氏と合い、中島氏のベトナムでの行方不明を聞いた。
その事は著書「虫に書く」に詳細が書かれている。 
現在この施設はある団体の研修施設に成っている。恩納村の大きなホテルの先から右に入るとその施設はある

                                 合掌  


Posted by 鉄瓶・錆び鉄 at 16:00Comments(2)私のTUBUYAKI

2020年02月19日

カタマラン「ミニー」パラオレースに向けて回航記

カタマランヨット「ミニー」回航乗船記・宜野湾マリーナ~横浜ベイブリッジマリーナ
2019年11月末~12月初旬

それは一本の電話から始まった。旧友の渡真利氏の声である。
型通りの季節の挨拶の後「回航を手伝って欲しいのだが時間は有るか」の要旨であった。
来たか!と云うような予感が有った、それは年の初めに「日本パラオ親善ヨットレース」の概要が発表された時、私は暫く国内で実施されていない長距離レースに加え行き先がパラオである事に一種の懐かしさを感じたのである。
私幼少時代から父の自慢話で練習船「海王丸」で航海した時の話を聞かされていた。ポナペ・パラオ等の様子や航海記念のアルバムを開きその中の写真を指しながら前近代的な島の様子や民族衣装の話をしていた。又、沖繩とも日本統治時代から盛んな交流が有り漁法の指導や島に移り住み住民との交流が有った事が今でも続いている。
加えてその、渡真利氏は以前より宮古の冬のダイビング閑散期にパラオに渡り全国からダイビング客を招きパラオの海の素晴らしさを伝え、現地のダイビング業界に刺激を与えていた事を知っていたからである。それとなくエントリーするのでは無いかと思っていて彼のFBを覗いていた所、参加する為の安全講習を受けてきた記述があった。出るな!と思っていて、それから暫く経ってからの電話だったのである。
11月26日・何回かの打ち合わせで宮古を発って宜野湾マリーナに寄るのでそこで乗ることに成った。同時にもう一人のメンバー宮沢氏も東京から那覇に来て同乗する事になっていた。その夜、家人も一緒に宮古から乗って来たパラオからの「ルル」君と24NORTH職員「栞」チャンと渡真利氏と共通のヨット仲間の伊良波夫妻とで近くの居酒屋で食事と親睦とこれからの航海の元気付けをし、キャビンに戻り、更に一杯飲み交わし夫々のバースの寝床に就いた。左舷のVバースが割り与えられた。両舷にヘッドとシャワーが有る。更に左舷のヘッドはシャワートイレである。見事!
翌11月27日朝から近くのスーパーで当面の食料の買い出し燃料補給をすませ、10時頃出港、季節の割にはさほど寒くない。順調に本部半島から水納島の水道を目指す。すると左舷のエンジンが不調をきたし、水納島を交わした所で機関を止め、修理のため本部港を目指す、艇長はエンジンの有るバース下を開け、エンジンのチエックに入り込む。片肺でゆっくりと本部大橋をくぐり旧本部港に接岸すべく進んでいる時、エンジンは復調。すぐさま元来た方向に向かい、伊江水道を抜ける。夕闇が迫る頃再びエンジン停止。度重なる機関の不調に、戻るか進むかの決断を迫られる中とりあえず古宇利島から運天港を目指しゆっくりと片肺で進む。私はこの港に何回か入港した経験があり日が暮れていたが航路ブイもありラットを取った。艇長は再度エンジンルームに入りルル君と再起動に労を取っていた。何度かの始動で機関は動き出し再び辺戸岬を目指す。すっかり夜になり、一騒動も落ち着き栞チャンが夜食の準備をする。調子の悪いエンジンをいたわり回転数を1200回転ほどで使うことにする。挺速6~7ノットでカタマラン特有の揺れ方の中メインキャビンのテーブルでまるで停泊中かの様な安定して食事が出来た事に驚きを感じた。不調の原因は燃料フィルターのようだ。オートパイロットに舵を任せ辺戸岬・与論島・沖永良部島・徳之島と進む。太平洋側を艇長以下五人の乗員で3組のワッチを組む。私とルル、宮沢さんと栞チャン、渡真利艇長は一人で、一組二時間のワッチである。20時から始めることとする。一組の睡眠時間は四時間。与論島を過ぎる頃から外洋性のウネリと北東の季節風が冬らしい波をくれるがいとも易く波を超えトップまで張ったメインに70%ほどのジブで軽快に機帆走をする。挺速7~8ノット。最近の航海計器はもちろんGPSを使うのだがラップトップに海図を入れ自挺の位置と対地スピードが表示され。ヘディングのラインが海図上に表示されることで安心度も高く使い勝手が良い。このカタマランにはスピードセンサーが無かったので対水スピードは経験と勘に頼ることに成る。一日三食しっかりと栞シェフが料理を提供してくれる。夜食はワイン、泡盛、ビール等お酒も豊富に出てくる。素晴らしい!過去この様な食事でレースや回航に乗った事は無い、初めての経験となる。
28日・夜間次第に風波高まりほぼクローズドリーチ気味の中、奄美大島の古仁屋港のある早朝奄美瀬戸東側から入る。オールオハンズでさほど広くない大島と加計呂麻との海峡をタッキングで古仁屋港に向かう。海峡は波も無くタッキングのトレーニングにはもってこいの海面であった。数回のタックで古仁屋港が視認できる位置でセールを下ろしジブを巻き全員ライフジャケットを装着、保安庁対策である。私にとって今年二度目の寄港である。鹿児島~奄美~沖繩との航路を行き来するフェリーが接岸する裏に瀬戸内町が設けたビジターバースが有る。
町の中央を流れる河口にかかっている橋の西側のたもとに有り、船のサイズにも拠るが3隻ほどの船が係留できる。水の補給と燃料の補給、食料、お風呂、飲食店等々歩いて行けるバースで外洋が時化ている時は一時避難するには良いポイントである。そばには公園と公衆トイレも有る。我々も夜からの前線通過を過ごす為に結局二泊する事に成った。舫いを取りデッキを水で洗い補給し、ルル君はすぐ近くのコンビニ店の横でフリーWi-Fiを使い東京に来ている奥さんと携帯で話に行った。艇長は不調なエンジンと不安定な電気周りを点検する。横浜到着時に整備する部品調達の手配など宮沢氏と共に連絡を取った。
一息ついた所で歩いて銭湯に向かう「嶽乃湯」である。良き時代の銭湯の佇まいで敷かれているタイルは年季が有りかなりの部分が剥げ落ちている。幾つかの蛇口も使えない。前回来た時は老いた婦人が番台に座っていたが今日は聞く所によると施設に入っていて風呂屋の道向かいの家に代理のオジサンが番台宜しく入浴料を徴収に来る。あと何年風呂に入れるのだろうか。
シャワーは付いているが、回航の楽しみの一つがこの様な銭湯である。ルル君はまだ銭湯が苦手の様で船のシャワーを使った。
キャビンの食事は発電機を回し炊飯器で米を炊きガスコンロも使え普通の家庭料理を食する事が出来た。冷蔵庫からワインを取り出しコンビニから氷を入手しての晩餐である。
沖縄近海でトローリング中に釣ったシイラ(万引き)は冬が美味しい旬である。艇長の見事な捌きで冷蔵庫に寝かせてあったのを刺身にして食した。美味!
翌朝、見事な虹が大きな弧を描いていた。食後コインランドリーにシャツや毛布を洗濯しに行く。近くのスタンドに軽油を頼むと係留場所まで小型のローリーで来てくれた、船のタンクを満杯にし、予備のポリ缶6缶に全て満タンにする。近くに道の駅があり二階の事務所にバース利用の連絡と係留料を支払いに行く。なんと水道代として五百円ぽっきりである。中にある二階のレストランで昼食をとる。窓から加計呂麻島に行き来するフェリーの発着港を望む事が出来る。波を被った私のバースはハッチから海水が漏れるのでコーキングをする。日中は細々としたメンテナンスに暮れ夕方銭湯に行きキャビンで食事。翌朝、前線も移動し外は多少荒れているが、足を延ばす事にして朝11時出航。入って来た海峡を出る。波高2m風18knot以上真上りタックを繰り返し奄美空港北にある宇宿漁港を目指す。直線で約30海里タックを繰り返すので実測は30%以上の航程である。何回かのタック時にバテンが一本ポケットから抜け海に落ちてしまった。タックの時にセールに掛かるストレスは大きな力である。初めての港なので夜間入港は避けたい。空港沖を進み港入り口の浮標が見えた。冬の日の入りは早い16時頃から薄暗くなってくる。風と波の悪い狭い航路を艇長も慎重にセールを降ろしたカタマランを操縦する。港内は奥に数隻の漁船が停泊している。港内を回り停泊場所を探す。狭い場所にまあまあの係留場所を見つけ一晩の厄介になる事とする。早速メインをチェックフルバテンのリーチ側の留め具に異常が有りそこから抜けたようだ。応急処置として一番下のバテンを切って短くし抜けたポケットに入れて留め具を補強した。以後ワンポの状態でメインを展開する事になる。港には事務所も無く了解を得る手段も無いので取りあえず停泊、多分空港建設の為に造られた港なのだろう。日も暮れて少し波で揺れる中、普段通りの夜食を取り、酒を嗜んで床に就く。隣の飛行場に発着するジェットの音が聞こえるが耳を塞ぐ程ではない。
翌朝、食事を済ませて舫いを解き港を出る。東の雲の下に喜界島が平たく霞んでいる。琉球王朝時代は奄美大島よりこの島の方が江戸上りにも重要な島であった。
次第に海は治まって来た。吐噶喇列島を一気に通過し屋久島か種ケ島に向かう事とする。
航程130~160海里相変わらずエンジンは片肺であるが風向が良く機帆走で7~8knot以上。時にはエンジンを止める事も有る。多少潮に乗っているらしい。列島から東に離れた沖を通過する為に携帯が通じない。
規則的なワッチを繰り返しトラブルもなくカタマラン特有の揺れの中夜明けには屋久島を望む位置に来た、明るくなってルル君がトローリングロットを出す。小一時間ほどした所で大きな当たりが来た。ルル君が大きな声で叫び見ると大物の様子、艇速を落とし釣り上げるのを助ける、見事なキハダマグロが上がった、素早く締め艇長の相変わらずの包丁さばきで三枚に下ろし冷蔵庫に入れる。その後も種ケ島西之表港までの間でカツオ3尾、シイラ等を釣る。奄美で新しい包丁を購入した事が生きている。
種・屋久との間は丁度屋久島の風下となり穏やかな海面であった。左方向に話題の馬毛島その遠方に硫黄島がかすかに見え噴煙を望む事が出来た。日もすっかり上がり西之表港の一文字防波堤がはっきりと見える。一文字の途中に堤防の切れ目が有りそこから港に入った。旧港のある奥に艇を進める。
種ケ島漁港のセリ場のあるこじんまりとした漁港の奥に丁度いい岸壁が有りそこに舫う事にする。月も変わり12月1日午前接岸。ここは奈良時代から遣唐使船等も寄港する歴史のある港で「赤尾木港」と云う良港であった。私が初めて「マリリン」(ピーターソン33)で長距離のレース「沖縄~西宮」に参加し、その帰りに寄ったかすかな記憶が有った港だった。あれから40年近くもなろうか?
港は冬の風下で静かである。目の前にスタンドもホテルの銭湯もある。おまけに漁港にはセリ市場は朝8時から市が開き、私達はセリ落とした仲買人から目ぼしい魚と朝日蟹を買い付け豪華な食事となった。前線通過を待つ空いた一日はレンタカーを借りロケット発射場や島内観光を楽しんだ。帰ってくると28ftクラスのヨットが後ろに舫った。降りて来た3人の中に知人が二人も居た、ヨット界は狭い!一人は宜野湾マリーナの指定管理者の田畑氏でもう一人は回航屋の成田氏であった。成田氏は6月の千葉からの回航時に油津港で一時預かってもらった時にお世話になった方だった。オーナーも同乗していたが名前は失念している。明けて4日朝早く後ろのヨットはオーナーと田畑氏を残し回航屋さん成田氏一人で宜野湾に向かっていった。我々も買い出しと燃料補給を済ませ一路串本へと舫いを解いた。
今回の回航で最も長い航程である。ほぼ300海里2昼夜を要する。このコースは、黒潮の連潮だが冬季は波も悪くヨットに取って楽しくない条件である。案の定時化た波に叩かれ、奄美で補修したハッチからまだ漏れてくる。寝床の毛布が湿気てくる。豊後水道を横切り
土佐湾沖を通過し、遠くに室戸岬灯台を確認。深夜紀伊水道を横切る。夜間航海で尚、航路を横切る事は緊張を要する。大阪や瀬戸内に向かう本船や関西、瀬戸内から関東方面に向かう本船がまるで列車の如く連なっている様に赤と緑の航海灯が見える。潮岬灯台が視認出来てきた時、私とルルのワッチであった、オーパイで機帆走中であったがコースを変更する必要がありジブを巻き尚前方の視界を広げる必要もあり機帆走中ながらジブの巻取りにトラブルを起こし前方不注意となった。突然ルルが叫んだ、目の前の行き会い船とかなり接近した状況だった。エンジン音が聞こえる近さで左舷を通過していった。ルルの大声でワッチオフの皆が起きて来た。状況を説明し、艇長より必要な時はオールハンズでと注意を受けた。大いに反省!ワッチの大切さを改めて噛み締める事になる。岬と大島の間に架かる「くしもと大橋」をくぐる事になるが桁下の高さがググっても出てこない為、慎重に艇長の操船で進める。サーチライトで照らすと
21mとの表示が見えた。ゆっくりと通り抜けると前方に街の明かり、串本港に入港。
6日午前4時、接岸場所は以前係留した事も有るガソリンスタンドの傍である。落ち着いた所でしばしの休息を取る。ルル君の声で向かった所はカタマラン特有の双胴の船首の間のネットである。二昼夜の荒れた海での航海中のピッチングで波をすくったらしくネットの一部留金と船体を結んでいる紐が切れていたのである。夜間バウで作業する時足を踏み外さなくて良かったと思った。早速補修をした。日中、艇長は航海中気になった個所の点検とメンテ。突然「渡真利さん」の声、神奈川在住の知人で水中写真家の方が寄港を知り、用事のついでに訪問して来た。顔の広い方である。夕方からコインランドリーと銭湯と居酒屋で食事。
翌日7日朝食を済ませ給油し離岸、前日港外に「日本丸」と思われる練習帆船が錨泊していたが既に出航していた。曇天の寒い中を景勝地の「橋杭岩」を左に望み伊豆半島を目指すが、海象状況の悪化が予想され那智勝浦港に寄港する事とする。日没前太地湾北側の航路ブイに従い勝浦港に向かう日没、狭い航路を通過する時右舷側に有名なホテル浦島が輝いていた。友人から聞いていた奥の停泊地は一杯の様なので手前の小舟溜りに接岸一夜を明かす。
翌8日早朝波も治まり水路を抜けて取りあえず尺取虫宜しく一寸でも東へと帆を進める。
再び天候の悪化が予想され、志摩の五ケ所湾奥にある志摩ヨットハーバーに寄る事にする。洋上から友人に電話でその旨を連絡し営業時間外になるかも知れないがビジターで泊める事が出来るか聞いてもらった、OKが出たので8日夕刻ポンツーンの端の方に泊めさせてもらった。私にとって六ヵ月ぶりの二回目の寄港である。隣にあの「ヒンクリー」が停泊していた。その美しさに見とれてしまった。穏やかな夜を二晩過ごし10日7時一路横浜に向けて最後のレグ、凡そ230海里余の航程である。遠州灘を夜間通過し、御前崎、石廊崎、神子元島沖と深夜下田沖を通過し東京方面に向かう何隻かの本船に出会うが横切る針路ではないので追い越されたり、追い抜かれたりである。ここまでの間オーパイは機嫌が悪く時にはマニアルでラットを握るワッチの時もあった。大島を右手に見て相模湾を通過、東京湾に向かい浦賀水道に入る。夜明け城ケ島沖を通過し映画のモデルにも成ったと言う劒崎灯台を通過し久里浜沖、観音崎通過、横須賀沖の猿島を通過。横須賀は25年ほど前に石垣で台風時にマストを無くしたホテルのカタマランを3人でここ迄回航して以来の港である。11日午前10時30分横浜ベイサイドマリーナのゲストバースに接岸する。
既にパラオレースに参加するヨットが2艇着いていた。マリーナの近くに沖縄国体時に大変お世話になった貝道さんの会社が有りご無沙汰を詫びながら挨拶に行く。なんと今回のパラオレースの役員をされているし、神奈川セーリング連盟の役員としていまだ現役でした。
午後レースに同乗する伊藤氏が来艇等何人かの訪問を受けながら艇内の整理やレースの為の準備、掃除等々雑務をし、その夜渡真利艇長の友人達と川崎に居酒屋でそろって会食。
友人の方々は皆さん宮古でのダイビングを通じての古くからのお客様であった。
私はその後13日横浜の友人夫婦のレストラン「アルティザン」に行き楽しい食事の後、地下にあるオーセンテイックなバーで二次会、懐かしい那覇での模合の話などを語り合った。
回航中に改めて渡真利将博という海人の人物を知らされた。ヨットを通じての友人であるがダイビングのプロであり宮古島のこの業界の先駆者でもある。島の殆どのダイビングポイントの開発をし、同時にパラオのダイビング界にも一石を投じている。ヨットレースにおいてもダブルハンドレースやカタマランによるキングスカップ優勝等々を通じ洋上での様々なトラブルへの対応。長きにわたる多くの経験がこの回航にも発揮されていて我が身を知った。
11月26日から12月12迄の思い出深いおよそ1000海里のカタマラン「ミニー」の回航記録である。
  


Posted by 鉄瓶・錆び鉄 at 12:00Comments(0)ヨットと帆船と私

2019年08月12日

回航記

南へ

この記述は足掛け2か月にわたり義弟Jとの何年か前に交わした約束を果たすべく銚子マリーナで売り出されていた古いヨットを彼の愛する沖縄まで3人で回航する様子を時系列で記したものである。
Jは在日20年以上の英国人でかの国特有のストイックさと頑固さを備えている学者肌の50代でスマートな体形の男である。同乗するYは根っからのヨットマンでクルージングガイドや回航、レースを生業としている今年還暦を迎えた。
時には海外にも出向く事も有るが外国語は得意ではない。ヨットに関する技量と知見と寛容で温和な人柄が多くのヨットオーナから指名される所以である。私ともヨットを介して知り合い、何度か一緒に乗った事も有る。知り合ってから30年位に成る。この航海記は記録に加えて思いつくままに想像をたくましくし自らのこれまでの経験と講釈?を織り込み書く。

タイトルの「南へ」は大袈裟だが、英国の探検家アーネスト・シャクルトン率いる南極探検隊はその途中に遭難したが数々の困難を乗り越え一人も失わずに帰国した英雄の著書にちなんだ。


令和元年5月14日、何年か前に交わした約束を果たすべく千葉県銚子マリーナに向かった。飛行機に乗るのも何年振りであろうか、自分ではネットでの予約が出来ないので、義理の妹の予約で私のメールにそのデータを送って貰いプリントし空港のカウンターに行った。
切符も無く不安な仕草は見透かされた様にバカ丁寧に案内され、無事保安システムを通過し搭乗できた。窓際の席は面倒なので通路側に取るのが何時もである。メールの指示通り成田空港から電車に乗り銚子駅からタクシーを乗り継ぎマリーナの前で降りた。初めての成田空港だったが見物する事も無く通り過ぎた。到着したが、業務時間を過ぎていたのでやっと使えるようになった携帯で前日から来ているJを呼び出しゲートの前で迎えを待った。
3.11の津波で殆ど流されてしまったというマリーナの浮桟橋は再建され陸上の広場には芝も植えられ穏やかで静かなマリーナの日暮れの風景が目に入った。南側の幾つかの桟橋のフィンガーにそのヨットは休んでいた。
この年の春先Jはネットの情報でこのヨットを見つけ購入。仕事の休みを見つけ自ら多少の整備をしていた様である。ある時は都内から家族を連れて船内で一泊した事も有ったようだ。キャビンに入る。旧式の魚探と併用するGPS航海計器は何とか使えそうであったが、ドックハウス上部にある水深、風向、風速等の計器は全て動かない。両舷に有るコンパスは利用できるが、一つは計器内の液体が揮発し動きが悪い片方は水平が保てない上に点灯しない。チャートは前に私のを渡してあったが、Jはラップトップに「ニューペック」と云う電子海図ソフトを入れてあったのでまずは一安心である。事前に私からそれなりの船齢からエンジン回りとバッテリーを新品に、船底は新しく塗装する事等々の整備をしっかりとするように伝えてあったが、エンジン整備をもっと本格的にしておくべきであったと後になって悔やむことが起きた。
   
ヨットはヤマハ33ft船齢30年以上の老艇である。船型も当時のスタンダードで船尾が絞られたデザインでアップウインドには良いのだがダウンウインドには船尾の浮力が足りず保針性が悪く追い風や追い波時には舵取りに神経を使う。蛇行しやすいスタイルであった。対候性は高いが快適性には問題のあるデザインである。最近のヨットのデザイン傾向は「くさび」の様なデザインで船尾が広く浮力も有り扱いやすく成っている。
夕刻に到着した為近くのショッピングモールで夕食を取りキャビン右舷パイロットバースに用意された寝袋に潜り込み旅の疲れを休める。
5月の銚子沖は親潮の南下と黒潮の北流との合流点で漁場としては良い所だがキャビンの中は沖縄の冬の様子であった。用意してあった冬の備えが役に立った。気温14度日中でも18度。翌朝、Jと共に試運転を兼ねてマリーナ沖まで機走する。Jは何度か先代のオーナーと試走をしていた様で港の出入りは承知していた。彼も全くの初心者ではなく英国で幾度となくチャーターしたヨットを操縦した事が有り、自らも今帰仁の別荘にディンギーを置きセーリングを楽しんでいるが、セーリングクルーザーでの外洋長距離の経験はなかったので購入後は私が手伝う事になった経緯がある。船体重量の割にはやや馬力不足の18馬力、固定翼3枚ペラであった。沖合に風力発電の大きな高さ20m程の風車が2基あった。
北東からのうねりと季節風のチョッピ―な波でローリングスしやすい特性を感じこれからの航海の覚悟を少なからず思いやった。このヨットは建造時エンジンがマストより前に置かれていた様で、これまでの何人目かの所有者が船尾コックピット下に移したようである。その為に船内の至る所にその時の跡が有った。幾つかの水漏れの跡も見受けられた。後にその為に寝袋が濡れる事になる。
翌日かねてより親交のある根っからのヨットマンYと合流、この回航する事が決まった時、私とJだけでは心許ないのでYと連絡を取り彼のスケジュールに合わせた結果が今回の期日となった次第で名古屋からの到着である。
さすがプロ、到着後すぐさま喫水の状態から積載量が多すぎる事を指摘し船型から判断し重量配分を船尾に移し船首を軽くすることが快適な航海になる事を説いた。Jは購入後まるでやっと手に入ったヨットを秘密の基地の如くあらゆる道具や思い当たるグッズを持ち込んでいた。後にその事が多少役に立つ事も有ったが、加えて回航中補充する事無く食べられる量の缶詰やジュース、等々それもキャビン床下の隙間にこれでもかと詰め込んであった。Jの妻すなわち私の妻の妹が詰め込んだとの事。揺れる船内で料理が難しい事を知っているのだろうかおまけに、臨時に設置したカセットコンロである。
その夜の内に燃料の確認をし、航海計画を打ち合わせ、最近の大平洋側の海象状況の話になった。「ホンダワラ」と言う厄介な海藻が黒潮の流れに沿って浮遊していてペラに絡み、時にはエンジンに支障をきたす事があるので十分な見張りと注意が必要とのレクチャーが有った。この季節特有の海藻の様だ。やや冷たいキャビンで互いの親交を交わしバース(寝床)に入った
事前にハーバーマスターに必要な手続きをしてあったので翌朝早くマリーナを出港する。
日の出前の銚子沖はやや波が有り、これからの回航を暗示するような海象であったが天気は良く那覇では感じる事のない乾いた冷たい風であった。
銚子沖は先に述べたように海流が南北から突き当り太平洋に向かう為時には意外な波が立つ俗に伝えられる「1000に1の大波」の様な。多くの船が遭難し過去には巨大なタンカーが二つに折れる様な海難事故もあった海域である。しかし、そのような海であるが為に豊富な漁場となっているのだ。近くの銚子港は日本有数の水揚のある港である。銚子から九十九里の海岸沖を航行、朝日を左に見ながら南西に向かう。海岸の砂浜が延々と伸びている
その向こうにホテルや人家が見える。名前だけでなく実際に九十九里あるのではとも思わせる。多くの場合ヨットと云えども予定のある回航はエンジンを多用する事は常である。風向と風速が目的地に適っている時はエンジンを止めセーリングをする事はあるが、中々その様な事には成らないのが回航である。このヨットは船内燃料タンクが50ℓ有るので予備の20ℓポリタンク二本を用意した。
           
コックピット両側のスタンションに縛る。燃料はディーゼル。
幸い波と風も規則的で安心出来る。寄港地の無い九十九里の海岸沖を通過し千葉県房総半島南端近くの「千倉港」に入る。小さな漁港で港口は幾つかの暗礁や洗岩の為、指向灯台が24時間灯し、航路を外れると赤や緑の灯火で航路中心のずれを示してくれる。航路中心の白糖を保ち航測に従い慎重に港に入る。港内は意外と広く夕刻ではあったが、適切な係留ポイントを見極めるために一回りし新参者の身で迷惑の掛からないような岸壁に舫った。
時は日没前。防波堤越しに暮れゆく景色は美しく海に憧れる私にとっては生きている事を実感するような一瞬であった。
 
幸いに停泊した場所のすぐ近くにガソリンスタンドが有り燃料の補充をした。残念な事に港の周りに食堂は無く3人でささやかな保存食が夜食となった。
海象状況をスマホで収集し結果、翌日一気に房総半島の南端を回り東京湾を横切り伊豆大島の北を通り下田港まで向かう事とした。条件の良い時に出来るだけ距離を稼ぎ行程に余裕を持たせたいが為だ。
ほんの30年前にはGPSは高価でましてスマホやラップトップでの風向や海象状況を把握する手立ても無く経験や観天望気の知識と電波方向探知機(DF)や六分儀によるポジションの確認やラジオの天気予報を空欄の天気図に聞きながら書き写し海象状況を把握出来る事がベテランセーラーの条件であった時代である。現在は世界中の海上でも陸上でも電話も自らの位置も更には映像も受発信できるIT時代だ。
今や片手の中に入るスマートフォン一つで気象。海象、海図が気軽に手に入れる事が出来る。数日後までの風の傾向や波の状況が得られ航海計画を安全に立てられるこの頃である。
とはとは言え気まぐれな天気である、地域によっては思いもかけない事が起きるのが海の上である。
翌朝4時過ぎ千倉港を出る。東の空が朝日を迎えて美しい景色を見せてくれた。沖縄より東に位置するので朝が早い。朝食もそこそこに舫いを解き出航。外洋に出てから食事を済ませる。レトルトの白飯とレトルトの具材入りの汁物と果物。
房総半島先端の御前崎を6時半ごろ通過。東京湾から太平洋側に向かう商船で混雑している海上衝突予防法の規則に従い行合う船同士は左舷を見せ合うので右側通行である。夜間は航海灯の赤色灯が船の左を示している。緑は右側を示している。余談だが航空機も同様で歴史的に船が飛行船になり飛行機に成った経緯がある。航空機も操縦席はコックピットであり客席はキャビンで操縦席の左席が正操縦士で右席は副操縦士となっている。出入口は左右に有るが世界中ボーディングブリッジは左側に接続する。この事は帆船時代からのルールであるが悔しい事にJの国の英国が決めたのである。
           
その航路を横切り伊豆大島北側を順調に11時ごろ通過する。その頃は晴天になり海水温も高まりキャビンの中も過ごしやすく成ってきた。日差しが心地良い。偏光サングラスをかける。後になって聞いた話だが、その同時刻ごろ一番年下の義弟Nが出張の為東京に向かっていた飛行機が大島上空を通過する時、眼下に一隻のヨットが西に向かっているのを見たとの事で多分私達のヨットではなかったかとの事だったが偶然とは言え確かなようだ。
事前に備えてあったダジャーとキャノピーが日除けやスプレー除けとなりコックピットはそれなりに快適である。
私が二十歳過だった在京中、港区芝浦からこの伊豆大島迄夜出航する船に乗り朝早く渡った事が有る。島に泊まる事は無かったが島内観光をし夕刻出航し芝浦に帰った思い出が有る。沖縄本島周辺の離島であるが高校時代から日帰りの船旅は度々していた。大島土産に椿油を買ったけど誰に渡したかは覚えていない。同時に何年か前の大雨による災害が有った事も思い出した。大島港の沖を通過し島の西側では東京湾の干満の潮流か好天にも拘らず渦を巻くような潮の流れに遭遇した。東京湾に出入りする潮の流れである。座間味海峡の潮の流れに匹敵するような海の流れであった。その流れはエンジン音の変化にも表れていた。小一時間もするとその流れを横切り遠くに伊豆半島がしっかりと眺める事が出来たが富士山はあいにく雲の隙間に微かに視認できる状態であった。ギャレーで湯を沸かしインスタントな食事とバナナと魚肉ソーセージを腹に送り舵はオートパイロットに任せられる海面であった。
伊豆半島に近づくにつれ東京湾から関西方面に向かう商船に出会う事が多くなる。
視程があり良い天気なので通常の緊張の下ワッチを続ける。
このヨットは、船長約10m幅約2.5mキャビンは中央部で高さ1.9m船首に向かい低くなる。Vバースと呼ばれる船首スペースの入り口は1.5m弱屈まないと通れないキャビン内にデッキから船底迄貫通しているマストが有りマストを挟むように折り畳みの小さなテーブルが有る。停泊中の食卓にもなる。その両側に幅50cm長さ2m程のソファー兼ベットが有り背あての一段奥に広い所で幅約50cm船首側では凡そ20センチ、長さ2m程の細長いパイロットバースが両舷に有る。船体はラグビーボールを半分にした様なおわん型をして一番広い所がくつろぐ所となっている。曲線が陸上の普通の部屋の様にはいかない。空間の多くが曲線である。全体で三畳間より狭いこの狭いスペースに170cm代の男3人が入れ替わり立ち代わり出入りし寝起きするのである。24時間場合によっては48時間以上。
レースともなると6~7人が数日から時には数週間寝起きするので体育会系のロッカー以上の状態になる、コックピットからキャビンに入ると階段の左にチャートテーブルが有りいわゆるナビゲーションスペースで右側にはギャレーが有る。小さなカセットコンロと足踏ポンプで水を使う小さなシンクがある、隣に氷を入れて使う少し深いアイスボックスがある。すぐ横には食器やカトラリーを入れる戸棚と引き出しが幾つかある。コンパクトにまとまったレイアウトになっているので全て手の届く範囲で料理が出来るが航海中はよほど穏やかな時しか料理は出来ないのが現実で、コンロで湯を沸かしインスタントな食事やスープが揺れているヨットの上での食事になる事が多いい。時化ている時はそれこそカロリーメイトとバナナとパンとビタミン剤の様な時も有る。長時間航海する時は常温で保存のきく果物などをネット入れ吊るし消臭の役目を兼ねながら持ち込む事も有る。卵は意外と長持ちをする食料である。日本人にとって嬉しいのは美味しいレトルトパックのご飯である。これを湯を沸かし温める時一緒に温めれば良いのがカレーである。
昔「サンバード」という名艇が有った、あのS&Bのオーナーが所有していたヨットであるが、多くの食材がS&Bのレトルトだったとか。
ヨットのトイレはヘッドルームと呼ばれ便器はボールと呼び、海水を手動ポンプで汲み入れ使用後は海水で押し流し排水するのが通常である。但し港での使用は禁じられている。
最近のヨットはシャワートイレが電動で使えるようである。このヨットの時代ではシャワーは無いが、最近の35ftクラスではシャワーが使えるヨットもある。私の二代目のヨットもシャワートイレは無かったがシャワーは使えた。余談だが、揺れる狭いヘッドルームで丸いやや小さな便器に座り壁の手すりを握り、大小の排泄が出来る事が体調維持に重要な生活行動になる。
         
17時30分伊豆半島南端近くの伊豆下田港に入る。この港はかつて私も入港の経験がある港で、クルージングの重要な良港の一つである。
1854年あの黒船ペリー艦隊7隻が入港停泊し、同じ年プチャーチン率いるロシア艦隊も入港している。日本史上初めて開港した港でもある。港口から左に進むと突き当りに小さな浮桟橋通称サンバードポンツーンがある。名前の由来が先に述べたS&Bの「サンバード」である。管理している事務所に事前に係留の許可を得て出船の右舷付けで舫いを取る。
既に奥の桟橋に40ftクラスのモータークルーザーが泊まっていた。偶然にもそのボートも沖縄まで回航するとの事だった。英語が話せるクルーと外国人らしいオーナーが居てJと親しげに話していた。鋼鈑で出来た揺れるポンツーンを渡り陸に上がるとそこにはペリー上陸記念碑が有った。
同様の記念碑は那覇の泊港北側の外人墓地公園内にもあるが、上陸期日は沖縄の方が早い事はあまり知られていない。余談だがペリーは1853年5月当時の琉球にも交易の為に寄港しその後江戸幕府にも同様の条約を迫っている。最初は同年7月浦賀に入り翌年1854年には琉球を基地に浦賀に再入港し開港を迫り通商条約締結後開港された下田にも入った。その時外国に入港を許可された港のもう一つが函館である。歴史の言い伝えでは琉球も江戸も黒船の大砲の音で脅迫されたと記述されているが、実は時報の為の海軍の儀礼であった事の様だ。その後入港したその数か月後プチャーチン率いるロシアの船は、1854年の安政の大地震の津波に会い船を失い伊豆半島戸田漁港で当時の船造り職人との手で互いに言葉も通じない中、中型の帆船を僅か3か月で仕上げ「へた号」と名付けたのが日本史上初の西洋式帆船の建造であった。その後幕府は同型艇を数隻建造したとの事

偶然にも我々が入港した日は下田の黒船祭りで町はその真最中であった。銭湯に入り疲れを癒し向かいのカフェの庭先でビールを一杯至福の時間だった。
Yは回航中に良く寄港する所なので彼の案内で食堂に入り久しぶりにしっかりと食事をとった。21時から港で花火が揚がるとの事で、祭りで賑わっている通りを抜けて停泊しているヨットに向かった。ペリー上陸記念碑の近くには多くの花火見物客が集まっていた。海上自衛隊の制服を着ている幾人かの中に米国海軍の制服も散見する事が出来た。湾内にこだまする花火は見事でありしばらくはコックピットから音と花火を堪能した。幾らかの酒と祭りの余韻の中、狭いバースに潜り込み翌朝の出航に備えた。後ろのクルーザーは補機のエンジンを回し船内にはクーラーを利かせているようだった。羨望!
18日午前5時舫いを解き下田を離れる。港外には海上自衛艦一隻が錨泊していた。


曇天風速8メートル風向東寄り。下田から予定の三重県まではヨットにとって良好な港が無く一気に行く事になる。石廊崎を回り海上自衛隊の潜水艦が訓練すると言われている水深の深い駿河湾を横切り御前崎から遠州灘の岸沿い向け機帆走する。その駿河湾を通過中注意していた「ホンダワラ」がスクリュウに絡みスピードが落ちたので前進後進を何回か操作してみたが解ける様子もなく、船足を止め洋上に漂いナイフをもって切断すべくJが裸になってロープを片手に潜り何度かの試行の末、束になっていた「ホンダワラ」を切り離した。
その後も日中目視出来る限り塊となっている厄介な海藻を除けながら蛇行する羽目になる。
次第にうねりと風も出てきてこの船特有のローリングが大きい、静岡県「浜岡原子力発電所」の沖を通過、なるほど。東海沖大地震が起きたら騒がれている津波の被害を真面に受けそうな地形である。遠州灘を西に向かう事、凡そ130海里ワンオーバナイト。Jは船酔いしコックピトにバケツを置きながらのワッチであった

19日午前7時約26時間の行程で三重県志摩ヨットハーバーのゲストバースに左舷付けで舫う。昨夜は風速20ノットを越えうねりの中、久方ぶりの体力勝負の夜間ワッチだったが風向も良く潮に乗っていた。下田を出てから一人2時間のワッチとして休息は4時間このサイクルで24時間交代でのコックピットに出て操船と見張りをする。食事は各自適当に取る。もちろん入出港時や荒天時には休息中のクルーが加わる。時にはオールハンズもある。
日本最古のヨットハーバーのこの港もYの馴染みの港で途中ハーバーマスターにゲストバースの空き状況をスマホで問い合わせていた。洋上から電話が出来る事のなんと便利な事か。リアス式の五ケ所湾の奥にあるヨットハーバーとしては最良の条件の係留地である。3方を山で囲われ静穏性の高い海面に恵まれていて、国内で最初に出来たヨットクラブとも言われている。最近の携帯電話の使い勝手は実に良くなっている特に電波の届く範囲が沿岸から15キロ程沖合でも通じ様々な情報が入手できる。Jが予めインバーターによる100V電源を用意してあったので各自のスマホの充電が可能であった。文明の利器である。大いに活用する事を学んだ。最近のヨットはこれを使い電子レンジや湯沸し器、冷蔵庫等々も使える事が出来るようである。その為に容量の多いいバッテリーを乗せる事になるが便利さが優先する。この港に入った理由のもう一つに強力な前線通過で海象条件が非常に悪くなる事がネット情報で解っていたので安心できる所に避難する事の選択だった。
予定では那智勝浦港まで足を延ばしたい所だった。ニュースで知った事だがこの前線の大雨で屋久島の登山客の多くの遭難騒ぎや西日本各地で川の氾濫などが有ったようだ。
クラブハウスの一角にシャワーと洗濯ができる施設が有り、早速汗を流し溜まっている衣類の洗濯と乾燥をする。次第に雨風がひどく成るが湾内は波も立たないので風による横なぐりの雨が続いた。開放的なクラブハウスで自販機からビール買い雨のしのぐ庇の下で感慨にふける。Yと世間話をする。ヨット乗りの多くは何時か太平洋を横断したいとか思うが彼もそう思い横断した事がある様だがちっとも面白くない毎日変化の無い景色で同じような食事でという話や、ヨーロッパの海岸のクルージングの楽しい話などに花が咲いた。日本の沿岸は厳しい海象だが風景や季節、そして何より寄港地での食事など実に様々な体験が出来て素晴らしいとも語っていた。私も20代に本船で太平洋を航海した経験がある。ハワイ経由でサンフランシスコまでであった。当時叔父と妹がその町に居た事が渡米するきっかけであった。それに飛行機より安い事が重要である。確かに船尾に描かれる航跡以外何の変哲もない洋上は哲学的な思いを抱かせる事は有っても景色を楽しむような風光明媚の様な事は無かった。しかし、ゴールデンゲートの下を通過する時は大きな感動が有った。堀江健一が一人で太平洋を渡った事は確かに尊敬するに値すると思った。その後の評価は別だが
我々のヨットは大雨で左舷の一部から雨漏りが有り老艇の常と甘んじる事にする。 
21日。海象条件が当分悪いようなのでハーバーマスターの車を借りて伊勢神宮へ参拝する事にする。

Yは名古屋が地元なのでこの辺りの事情にも明るく一時間ほどのドライブで伊勢神宮に着いた。駐車場からYに参拝の儀礼を習いつつ幾つかの鳥居をくぐり皇大神宮前の階段迄凡そ40分玉砂利の参道を雨の中多くの参拝者に交じり、しきたり通りの参拝をした。何かしら神々しい気を感じつつ帰路お守りを二つ頂いた。期せずしてお伊勢参りが出来た事に何かしらの縁と感動を覚えた。参道で昼食を取り港に帰る。小雨。名物の伊勢うどんを食べ損ねたが又の機会にしよう。二度目は無いかもしれないが。
翌朝22日午前7時半多少雨は残っていたが回復傾向の海象なので出航する。五ケ所湾をゆっくりと湾口に出る途中、所々に養殖の筏を見る事が出来た。いつの日かこの港に自分の船を置きたいと思わせる様な環境のハーバーだった。14時頃熊野灘沖通過、雨はあがり晴天になった。海面は外洋特有の波と波長の長いうねりが有るがスプレーを被る事は無かった。日没後串本沖を通過、紀伊半島から紀伊水道に入る多くの商船が行き交う航路を横切る事になるしかも夜である。

ドッグハウス上に設置したラップトップの画面には「ニューペック」の電子海図が標示されているがやや明る過ぎるきらいがある。しかし、素晴らしいのは自動船舶識別装置(AIS)から発せられる商船の位置情報が画面に海図とともに表示されている事である。自船の全方位の本船の位置、距離、進行方向、スピード、船名が分かるマークが表示されているので、視界が悪くても周りの本船との関係が解り航海の安全に大いに役立つ事であった。この様な情報を得る事が出来ない以前は混んでいる航路を横切る時は全員で前後左右を見張り細心の注意をしたものである。夜間はセールをライトで照らし自艇の存在をアピールする事も有った。初めて長距離のレースに参加は本部のアクアポリスから大阪関西ヨットクラブまでの約700海里程のレースでこの紀伊水道を北上し友が島水道を越え神戸沖のKYC沖がフィニッシュ。その時この水道で夜間難儀な経験がある。
紀伊水道を横切り四国室戸岬近くは九州方面に向かう商船の航路が有り気を緩めることが出来ない。岬を通過すると土佐湾をやや弓なりに陸地側に進路を取る。Jの要望で土佐にいる旧知の友人に会いたいとの事で足摺岬まで寄港する事も無く向かう。洋上で予備のポリタンクから燃料タンクに補充する時は船尾の燃料注入口を開け通称「シュポシュポ」と呼ぶ手動ポンプで燃料のディーゼルをメインタンクに流し込む、出来るだけメインタンクはほぼ満杯にして置く。雨の時は特にタンクに雨水が入らない様注意する事は必然である。
足摺岬の東側下ノ加江川河口の港が友人宅の近くというが夜間遅くの入港になる上、河口で初めて港なのリスクを避け、翌朝半島の西の土佐清水港に入る事にする。土佐湾から足摺岬沖通過中穏やかな海に絵に描いた様な夜明けを見る事が出来た。何故かしら自らの過去の記憶にさかのぼり反省する事しきり。

23日午前6時土佐清水港、何年ぶりだろうか、すぐ隣の「あしずり港」には二昔ほど前に夜間入港した事が有るが土佐清水は40年ぶりか。かすかな記憶を呼び起こすが港内西側のセリ市場が広く立派になっていた事に気が付く。航路正面の広いスペースがある岸壁に舫う。以前より賑やかになった様な街並みに感じる。ガソリンスタンドが目標となった。Jの友人は半島の反対側から車で約一時間かけて朝早くにも拘らず駆けつけてくれた。その後朝食を戴くために少しドライブし「モーニングおにぎり」が有名な所に連れて行って頂いた。大きな海苔巻きのおにぎりと味噌汁であった。港に戻り近くのガソリンスタンドで燃料の補給を済ませ友人の見送りの中出航。豊後水道を西に向かうが紀伊水道の様に行き交う商船は少ない。弱い向かい風で波も静か、潮が有るのかスピードが出ない5Knot。明日は鹿児島内之浦を目指す。
突然、嫌な事が起きる。エンジンのオーバーヒートか?警報音がけたたましく鳴る。幸い海が静かなので漂いながらエンジンカバーを開け点検をするとインペラー付近から海水が漏れていた。停泊しないと整備できないのでエンジンを労わりながら回転数を下げゆっくりと日向灘沖を南下する。予定の鹿児島県内之浦港への寄港は叶いそうもないので、
5月24日午前7時。修理や部品調達の可能な宮崎県油津港に入る事とする。この港も以前入った事が有るが当時とはまるで変っていた。オーバーヒートしがちなエンジンを気遣いゆっくりと港内を巡るとヤンマーの看板が目に入ったこの船のエンジンは旧式だがヤンマー製である。その近くの岸壁には漁船が係留していたので迷惑のかからないように風除の金属製のネットのある桟橋に舫う。

早速エンジンカバーを開けインペラーハウジングを開ける、大きな損傷は見当たらない、冷却用海水が通過する経路に直角に曲がる外形状の径10ミリ程のパイプが有り開けてみると、其処には欠けたインペラーの一部が詰まっていた。これが冷却水の流れを妨げていた事は確かなようであった。それはなり以前の欠片である。引かかっていたそれを摘み出し、
元通りに組み上げ試運転。これでヨシ!船尾からの冷却水も十分に排出している。港内を試走すると再び警報が鳴る。戻って考えられる箇所を分解点検するも相変わらずヒートする。近くのヤンマー営業所に駆け込み見てもらう事にするが、漁の繁忙期でエンジニアが忙しく、かまって貰えそうにない。インペラーのハウジングからの水漏れが収まらないのでこの際このパーツをアッセンブリーごと注文する事にする。何だかんだで部品が来るまで一日以上待つ事になった。翌日部品キットが届きヤンマー指定業者の方が届けてくれた。早速交換し出港準備をし意気揚々と港外に向かう、巡航速度までエンジン回転を上げると再び警報音!三人とも顔を見合わせ「何故だ!・・・」仕方なく元の場所に戻る。
想定できる原因は海水直接冷却の為冷却回路に塩か石灰が詰まっている事しか考えられない。これ以上はエンジンを分解し整備するしか手立ては無い。
その時、まだこのヨットが千葉に有る時エンジンのオーバーホールをする様にJに指示すべきだったと悔やまれた。過去に私も同様な経験をしていたのにとおおいに反省す
整備に時間がかかる事を覚悟するとともに、これでは整備完了後沖縄までの回航予定期間が臨時航行検査の期間を過ぎてしまう事になり、改めて期間の延長を受けるための手続きをしに管轄のJCI(小型船舶検査機構)まで行く事にする。油津から事務所のある鹿児島市まで陸路往復一日がかりである。同時に修理して頂く業者の予定が1週間後ぐらいとの事になり。加えてJもYも月末からの予定が有り一時撤退をする事になった。その間港で知り合った漁師やパーツを届けてくれた業者の方などが親切に見守ってくれるとの事で安心してこの場を離れる事にする。

この時期油津港はキハダマグロの最盛期で毎朝明け方から多くの漁船がセリ場にマグロを降ろしている光景を見る事が出来たが、映像で見る築地ほどではないが活気ある場面を見分する事が出来た。この港には近くに銭湯が無く4キロ以上離れた国民宿舎の風呂までタクシーで行く事になった。足代が風呂代の何倍しただろうか。日曜日を挟み5月29日私は那覇までYは名古屋まで、翌30日Jは東京まで。オーナーであるJのスケジュールとYの都合で6月17日ここで再会する事にする。油津駅から宮崎駅までのJR九州日南線(単線)は列車に木の葉や竹の枝が窓をバサバサと撫でて行くようなローカルな路線であった。宮崎から私は高速バスで鹿児島空港そして那覇へ。
それぞれが帰郷し残されたヨットは、修理のプロと数人の友情に見守られる事となった。話はそれるがJは英国人らしく食事に対して拘りがなく栄養的に十分な食事であれば構わない所があるがYと私はせっかく港に来たのだから海の物やインスタントではない食事を、と思っているのだがJはあまり関心が無い様なので、何時からか港に着いての食事はJはキャビンで私とYは出来るだけ街の食堂でとなっていた。風呂も同様である。Jは冷水の水浴び私達は風呂であった。ある識者から聞いた話だが、ナポレオンがロシアを征服できなかった事の一つに何処までも食事のスタイルを変えなかった事も原因だったとか、英国が帆船時代世界を傘下に収めた事が出来た事の一つが食事に拘りが無かった事に有との事。Jの行動から頷ける。
          
6月17日那覇から空路宮崎そして日南線油津駅、タクシーで港まで、そこには既にJとYは出航の準備をしていた。昼間の内に整備状況の確認を済ませ食料燃料等の補給も済ませてあったのでバックをキャビンに収め手短にこれからの予定と海象状況のブリーフィングを交わし、舫いを解き油津港を離岸。6月17日22時静かな夜間出航である。援助してくれた油津の友人達には丁重な別れと後に幾らかのお礼の品を届けた。
翌明け方には大隅半島沖を通過。雲は厚く低いが波はさほど無く外洋性の波長の長いうねりの揺れが心地よく、体をコックピットの縁に預け航海していると云う感覚を抱かしてくれる。半島の南端に差し掛かる手前で種ケ島と屋久島の間に向けて南に向かう。黒潮に逆らうが快調なエンジンで気にならずに順調に進む

種ケ島は遠くに低く霞んで見えたが、屋久島は珍しく山頂の宮之浦岳まで見る事が出来た。良く晴れていた訳では無いが視界が良く近く、鹿児島との航路を水中翼船が見事なスピードで走り去っていった。この辺りまで来ると商船も少なく又6月になり、あの厄介な「ホンダワラ」の漂流も無く大方の時間をオートパイロット(自動操舵)に任せる事が出来た。
夜はさすがに水温も上がって来たせいか少し寝苦しい時もある。18日夕刻給油を兼ねて屋久島安房港に入る。この近海はこの時期飛魚漁の始まりの頃である。航海中も周りで波の上を飛行する飛魚を良く見かける様になる。時には何百メートルも飛ぶようである。港内は漁船が多くヨットにとっては多少居心地が悪い。厳しい岸壁しか舫う所が無かったが、漁師から挨拶代わりの飛魚3匹を頂いた。Jが慣れない手付きで捌き一部はソテーして夜食となった。前線通過も有り24時間以上停泊する羽目になった。
何時もの通り給油と買い出しと風呂を浴びて小雨の中グタグタと過ごし、雨が少し残っているが19日夕刻17時舫いを解いた。
      
これから先は黒潮本流を横切り吐噶喇列島を南下し奄美大島まで寄港せず往く事になる。
口之島・中之島・諏訪瀬島・悪石島・子宝島・宝島・横当島が主な島で別名「七島灘」とも言われる難所である。行政的には十島村とされていて各島を巡り名瀬と鹿児島を往復している貨客船は「十島丸」という船名だ。
琉球が薩摩傀儡時代には琉球に事ある毎に薩摩に報告の為に使った帆船を「綾船」「紋船」と呼ぶ官船が行き来していたが度々の遭難も有った。「紋船」とは当時の琉球王の家紋、左三つ巴の旗を掲げていた所からその呼び名と伝えられている。
これまでの携帯の電波事情は紀伊水道の中間と豊後水道の中間で電波が途切れたが、これから先は島の近くに寄らないと電波が繋がらなくなる。同時に情報も入らなくなる事であり。「ニューペック」はGPSが情報源であるので自船の位置は正確に表示している。何度もこの海域を通るが穏やかな時があった事が無い独特の海面である。うねりに潮波が加わり、加えてローリングの強い船型が疲れを呼ぶ。オートパイロットも使えない。二時間のワッチが長く感じる時もある。荒波と驟雨の夜間に島々を通過し宝島付近で夜が明ける。

ほぼ真南に向かい奄美大島沿岸から大島の南の古仁屋港に寄港すべく奄美瀬戸の海峡に日没後入る。
海峡入り口の灯台がやけに眩しい。海峡に入ると途端に波も穏やかに成り複雑に入り組んだ加計呂麻島と奄美大島との間のこの海峡は戦時中「大和」や「武蔵」が通ったとか?人家の少ない沿岸は暗く月明りも無く黒い島影とGPSを頼りにゆっくりと海峡の中心を古仁屋港に向かった。暫くすると遠くに明るい市街地の街灯と港の明かりが見えて来た。無風で静かな鏡の様な海面に映るその明かりは、見事な写真の様であった。
    
Yは度々この港に寄港していて勝手がわかる様で市街地に架かる橋を目指した。すると突然欄干のイルミネーションが消えた。21日深夜24時を知らせてくれた。その橋の手前を左に曲がるとそこは立派なビジターバースであった。街明かりを頼りに左舷付けで舫う。先客が一艇奥に出船で停泊していた。係留作業が落ち着いた後、上陸し近くのコンビニに向かい、冷えたビールを買い入れ乾杯。就寝。

翌22日朝雨、沖縄との間に前線が停滞、雨の中しばらくは留まる事になる。
ビジターバースの南側には芝生の広場と近くに水道も有りトイレも完備されていた。水道が近くに有るのはクルージングや回航中のヨットやボートにとって便利な施設である。町営のバースであり、一回の停泊料は近くの「海の駅」の事務所に500円だけである。名目は水道料との事。素晴らしい!沖縄も見習わなければ!翌日、雨の中歩傘をさし近くの銭湯に行く、Jは近くの水道を使う、銭湯の中は時代を感じる湯船で所々タイルが落ちていて蛇口も使えないのが有る。昭和以前の雰囲気である、番台の女子も又しかり。でもこの様な回航で一番の楽しみは風呂と、食事である。寄る所は港であるので漁師料理や海の物が食できるのが普通であるが、時には小さな漁港では外からの客の為の食堂の無い港もある。
瀬戸内町はそれなりの町であるので食べる所には事欠かない。Yは何度も来ているのでスマホにその情報も入っていた。ところがその日は大雨で目当ての店が閉まっていた。コンビニでツマミとなる幾つかのパックを持ち帰りキャビンで酒と共に食す事とする。
翌昼間、やまない雨の中「海の駅」の2階の食堂にビールを飲み行く加計呂麻島との間を小さなフェリーが一時間毎に往復している。意外と多くの乗船客がいる事に驚いた。街の広報スピーカーが大雨で林道の山崩れが有り通行止めが発生していると報じていた。近くの酒店で貴重な焼酎「ルリカケス」を見つけ土産とする。奄美の天然記念物の鳥名がラベルに成っている

左舷の雨漏りが止まらず寝袋の一部が濡れているようだ。私の寝る右舷側の雨漏りは無い。奥に停泊している英国製の小さなヨット、25ftの「くろしお丸」からお茶の招待が有り伺った。神奈川からの夫婦二人のクルージングで沖縄まで行くとの事で初めての航路なので色々と情報が有ればとの事であった。そのキャビンは狭いながら良くアレンジされて航海に必要な生活用具が使いやすそうに工夫されていた。事前に宜野湾マリーナに入港する事は連絡済みで、母港は横浜ベイサイドマリーナとの事。このマリーナは沖縄国体時に指導頂いた当時の日本ヨット協会の役員も関係しているマリーナでかつて貯木場だったスペースをマリーナとして開発したとの事だ。停泊二日目にカタマランが入って来た。なんとそれはYが油津から帰った後すぐ長崎から石垣まで回航したカタマランで。石垣で遊んだ後オーナーと友人五人で長崎に帰る途中であった。Yはすぐ再会の挨拶に向かった。ヨット界は広いようで狭いのである。二回目の銭湯後、前日休みの店の前を通ると開いていたのでYと二人奥のカウンターに座る。入口付近の席にはそのカタマランメンバーが食事をしていた。ヨット仲間が寄港時に良く使う店の様だ。メニューには沖縄的なメニューが幾つかありママに聞くと同じだという。「ツケアギ」と「チキアギ」の様なニュアンスで琉球の影響が有った事を感じた。翌朝早くカタマランは北に向けて出港した。我々はもう一泊し23日17時多少前線の影響が残っているが回復傾向なので南下する事に決し出港。曇天東寄りの風の中、奄美瀬戸の海峡を太平洋側に出る。



その後南下し徳之島・沖永良部島の東・与論島の西を抜け沖縄本島の西、辺戸岬と伊平屋島の間を通り伊江水道に向かう。24日与論島付近で夜明け曇天視界悪し小雨。本島国頭村奥間の沖から雨は上るが雲は厚い。本部半島北側の今帰仁沖まで来るとJの別荘が有りその沖合をリーフ沿いに走り彼は知人に電話をして沖にいる事を知らせた。備瀬崎を回り伊江水道を通過中に本部半島を眺めるとそこにはかつての風景は無くリーゾート地として開発されたホテルが散立していた。数年後再び海洋博後の惨事を経験するかと案じながら水納島との間を通過、すると本部半島南側の山肌がまるで噴火の跡の様に大きくえぐられている光景が目に入った。辺野古への埋め立て石材を採取している様だ。近くには砂利運搬船が数隻沖待ちしている。戦後沖縄の復旧の為にセメント用石材として採掘が始まった山が大きくその容貌を変え山の体積は辺野古に埋められようとしていた。はたしてどの範囲まで採掘権が有るのだろうか、嘉津宇岳も無くなるのだろうか暗い思いで変わりゆく東海岸を眺めながら見通しの良くなってきた読谷村残波岬を視認する。波も穏やかで船足も良く順調に行けば日没前に宜野湾港マリーナに入港できる可能性が出て来た。ここ読谷村南側でも色々なホテルの計画が有ると聞いている。どうなる事やら。
         
奄美を過ぎると何かしら自分の馴染みのテリトリーに入ったような気がする。匂いや肌に感じる空気か湿気か?遠くに山立てに使う牧港の発電所の煙突が見える。一年前までは二本の煙突であったが古い方の煙突は解体されて今は一本になっているが、いい目標である事には変わりない。南西方向の遠くに慶良間諸島のシェルエットが浮かんでいる。ヨットに乗る様になって何年が経ったのだろうか、一抹の感慨をもって数年ぶりかの長い航海を終えようとしている。航路入り口の二番赤ブイの手前を通過し、

かよいなれた宜野湾港マリーナのゲストバースに左舷を付けると新任の友人でもあるハーバーマスターが舫いを取ってくれた名誉な事である。日没の夕焼け空が祝福してくれる様だった。湿気を含んだ空気と薄くなってきた雲に映る今沈まんとする太陽の奏でる夕焼けはマリーナの風景をシェルエットにして水面に写る景色はしばし見惚れる程であった。コックピットで密かに積んであったイエローラベルのシャンペンを開けコップで祝杯をあげた。思えば銚子に行く前に波の上宮で航海安全のお札を戴き、伊勢神宮では国家安泰を願い無事航海を果たした事と義弟Jとの約束を果たせた事に安心しその夜はゆっくりと揺れないバースで眠った。翌日Yと共に波の上宮にお札を返しに行き航海安全の始末をつけた。全行程1000海里余雨風にたたられた日も多かったが、老艇と古希をとうに過ぎた老体を労わりながらの回航であった。
   
ここに忘備録として記す 2019年8月吉日     柳生徹夫

PS その後「くろしお丸」は無事宜野湾港マリーナに入港した。
  


Posted by 鉄瓶・錆び鉄 at 23:50Comments(1)ヨットと帆船と私

2019年01月16日

琉球料理?沖縄料理?

本日H31年1月16日沖縄タイムスに「ままや」時代から常々感じていた事に通じる記事「ユネスコ登録を目指す」の掲載が有り3年前に沖縄タイムスに投稿した原稿の再掲載です最近の新聞記事によると県は「沖縄の食文化に関する検討会」を設置し琉球料理を「無形文化財」に指定し沖縄の食文化を保存・普及・継承に取り組む旨の記事を拝見し大変喜ばしい事と感じています。さて、ユネスコの無形文化遺産として「和食」が登録されたことはご承知の事と思いますが、一般的に和食というと寿司・天ぷら・懐石料理等々を思い浮かべる事と思いますが、文化遺産としての「和食」は日本のあらゆる所で伝承されている地域、地方特有の食文化も含まれているのです。
長崎の卓袱料理・高知の皿鉢料理・金沢の加賀料理・京都の京料理等々。私達沖縄の独特な料理も含め世界文化遺産の「和食」の中の一つなのであります。
ユネスコへの申請時に農林水産省は「和食の特徴」として以下の四点を挙げました。
・多様で新鮮な食材とその持ち味の尊重
・栄養バランスに優れた健康的な食生活
・自然の美しさや季節の移ろいの表現
・正月などの年中行事との密接な関わり   

実に沖縄の料理の本質を言い表していると思います。昨今観光客の皆様にも評判の沖縄の料理に対して来店するお客様から色々なご意見を拝聴することが有ります。高く評価してくださる方と期待して食べてみたが次は食べ慣れた日本食か肉系で良い、或いはチョット脂っぽくて馴染めない等々、しかし各地のファーマズマーケット等での沖縄の農産物に対する評価は興味も含めて高い評価で一致しています。この事は調理法等もっと情報を発信することで更に伸びることを実感します。
ここで、県の無形文化財の指定に向けて提案したいのが「沖縄料理」と「琉球料理」のカテゴリーを区別するのか、区別するのなら何処にその違いを付けるのか。或いは区別しないのなら、どちらの表記でもよいのか。
琉球王朝の時代に包丁と呼ばれていた宮廷料理人は今の中国や日本との交流の中で琉球独特の料理の姿を完成させていったと伺っていますが現在巷で食されている沖縄料理あるいは琉球料理と言われている食は時代の変化とはいえ、一定の基準等が必要な時期に差し掛かっているのではないのでしょうか。これからの沖縄観光の重要な位置づけでもある沖縄の食文化を守り様々な国の方々からも評価していただくためにも産官学一体となって何かしらの基準作りをして頂きたいと願っています

日本料理界でも世界中にある「日本料理店」の中にどこが日本料理なのか認めがたい店のある現状に目を向けた資格制度を世界に向けて進めることを検討中と聞いています。  


Posted by 鉄瓶・錆び鉄 at 18:22Comments(0)沖縄の季節と料理の話あれこれ

2018年12月17日

辺野古埋め立ての現実的試算

最初に以下の記述は辺野古の賛否を問うものではなく入手できる
データを基にこれから普天間が普通の生活が出来るようになるまでの
想定を試算をした結果です。

辺野古の埋め立ての必要な土砂の量が新聞の情報によると2100万㎡必要と
書かれているが単純に運べる舟を想定し5年で埋め立てをするとして。
どの位かかるか試算してみた砂利運搬船用船としてガット船と言われる
船があるがその殆どは500トンクラスであります.
また、ガットバージ船という船はバラ積船を押す船が連結したような船です。
700㌧~1000㌧うを積む事が出来ます先日の辺野古に土砂投下と新聞
にある写真はこの様な船の様です。
単純なバラ積船には4000トン~1万トン以上もありますが砂利等の積み込みと
積み下ろしにクレーン等の重機が必要です、もう一つの問題は自走できないの
で牽引するタグボート等が必要ですのでほぼ県外からバラ積船での運搬は
無いと思います。埋め立てに必要な2100万㎡を運ぶのに500トンガット船が
延べ42000隻、ガットバージ船で1000トンとしても延21000隻必要になります。
5年で埋め立てるとすると年4200隻。毎日11隻以上辺野古に着岸する
必要があります。実際には積み込みと積み下ろし時間などを考えると
相当な忙しさである。現実的には台風や季節風で運行できない
日もあるでしょうから果たして5年で埋め立てが完了するのでしょうか?
10年としても1日5隻、単純に飛行場として埋め立て面積と工事期間を
比較すると那覇空港拡張工事の面積はほぼ同じですが埋め立ての土砂の
計画は991万㎥と資料にはあります工事着手から供用開始まで
約6年となっています。辺野古の土砂2100万㎥の内1700万㎥は県外からと
想定されていますがそれでも500㌧ガット船で延34000隻も必要なので、
少なくとも10年弱はかかると想定できます。場合によってはそれ以上。
もう一つの懸念は返還が実現しても普天間の跡地の整備
開発、地権者の移住等を考えると、那覇の「おもろまち」の事を振り返ってみても
返還後10~15年はかかるのではないでしょうか。地権者の確定が大変困難
相続や移民、県外移住者等々で想像以上に困難な作業です。
詰まるところ、このまま計画通り返還と移設が実行されても、そこに生活が
戻るのに個人的には20~25年は最短かかると思っています。  


Posted by 鉄瓶・錆び鉄 at 17:15Comments(0)へそ曲がりの言い分

2018年12月12日

琉球古海図と古地図

色々な本の記述に引用した本や記述者の名前が書かれているので、片っ端からググって見ると
フランスとイギリスの探検航海時に作成した海図が出て来た。位置関係や面積等現在とは大きく異なるが、
注目すべきは当時はこの様な海図で左程正確でない時計と航海計器で世界を航海していた事です。
海図の両端に緯度、下方に経度が書かれていますが、ほぼ正確な数字です。
二枚目の画像はその資料の経緯が書かれていますが、左の程順則の書いた「指南広義」が広く
この海域のナビゲーションの資料となった事が分かります。この「指南広義」は知る限り翻訳された資料が無いので
原文の中国古語のコピーを見て推測するしかありません。どなたか持っていませんでしょうか。




参考までに琉球以外の古地図を2枚




この様な地図と海図で航海していた時代を想像すると様々な海人の生活や行動を想像します。  


Posted by 鉄瓶・錆び鉄 at 15:45Comments(0)ヨットと帆船と私

2018年12月08日

久茂地・牧志界隈の記憶

思い出せるうちに子供の頃住んでいた久茂地・牧志界隈の記憶を時系列に捕らわれずランダムに書いてみる。あいまいな名称、場所などもあるやもしれないが、その辺の所は笑ってください。
10歳の時に家族で疎開先から帰郷し久茂地小学校に編入した。編入後最初の遠足時に南部戦績巡りが有り母と同窓の女学校の挺身隊が祭られている「白梅の塔」に花束を捧げるように母に言われ、大きな花束を持って行った覚えがある。其の事で多くの県民が犠牲になった事を学んだ。間借りしていた家の近くの丘には「ペルー会館」があり、周辺は沢山の墓があった、いわゆる琉球スタイルのいくつかの形である。子供の頃の遊び場であり、かくれんぼの格好のエリアだった。時には若い大人たちの密会の場所だった様子を目撃しドキドキした思い出がある。ペリー会館は子供博物館的な要素と小さなホールが有った記憶がある。それは戦前ペルーに移民した県人たちが戦後の復興を願い寄付によって出来たと聞いている。今はその丘も会館も跡形も無く平地となり公園となっている。貸本屋が近所に有ったがこのペルー会館からも借りる事が出来た。子供向け空想科学絵本小説が愛読書だった。授業中教科書の後ろに隠して読んでいた事もある。この会館が何年か後、台風で相当な被害が出てそれをきっかけに久茂地に少年会館が出来たと聞いている。その頃の久茂地川は護岸も無く上流から不衛生な排水が流れていて台風時には様々な物体が流れて来た。物体とはペットであったり家畜もあった。それでも干潮時の川岸には片方の爪が大きく赤や黄色の色がきれいな「シオマネキ」という蟹が沢山見られた。少し上流の今の国際通りから先の与儀より上流まで十分な護岸も無く下水道の整備も無く川岸のバラックの様な小屋に生活用品、食品等が相対で販売されていた。これらの店が整備後水上店舗となり、むつみ橋通りや平和通りの商店街へとつながっていった。冬至近くの季節になると「サシバ」が生きたまま足を縄でくくられ売られていた。今や遠い過去の話である。現在JR系ホテルとなっている沖映通りの場所は通りの名前になった「沖映会館」が有った沖縄芝居や映画を掛けていた。復帰後映画館の一部に若者目当てのクラブの様なディスコの様な店が出来たが確か火事になって閉めたと思う。国際通りから「平和通り」入口の左のビルの最上階に沖縄初の当時流行りのコンパなるカウンターバーが出来た。向かいに「大宝館」という映画館が有り屋上階にニュース専門の小さな映画館が有った。その後ビルは沖縄三越となった。その近くには戦後の復旧の為の材木屋が何軒かあり通りに材木が立てかけてあった。今の久高民芸などはその一つである。その向かいのテンプス館の辺りには琉映館と平和会館という映画館が有ったと覚えている。近くにはドルと円を交換する闇取引場があった。桜坂には洋画を上映する「桜坂オリオン」と「桜坂劇場」がほとんど隣りあわせに有った。グランドオリオンは流行りの屋台村になっている。この映画館で初めて70ミリ映画を見た時そのスクリーンの大きさに驚愕した。「アラビアのロレンス」だったと思う。通りの名前もグランドオリオン通りでタクシーには今も通じる。パラダイス通りには松山に移転した骨董店「観宝堂」があった。国際通りから入って右に折れる角の手前左に、お茶屋が有るがドルの時代からそこにある。右に曲がってしばらくの所の左の小さな角にあるコインパークはかつてダンスホールがあった。国際通りに有った「山形屋」横から抜けられる小道との交差点である。記憶ではエーワンダンスホールの屋号で通りの通称はエーワン通りだったと思う。何時からパラダイス通りになったのか自分には不明である。浮島通りも通りの途中左に浮島旅館があったからその名がついている。久茂地の居酒屋「和民」が入居するビルは当時家具を作って販売していた古堅家具屋のビルであった、二階は家具を作る工場が有り、小学校の体育祭で棒術を披露する事が有り学年男子全員がその棒を削ってもらった覚えがある。近所に太平木工と云う家具屋もあった。この傍に「大嶺美術館」があり、今は居酒屋「中村屋」二階は「バーバリーコースト」で好きなバーである。
今の「和民」の近くにスッポン料理の店と割烹料理の店があった。その先の国際通りの近くに今もある「中琉薬局」が当時の時代を醸しながら営業している。あの辺りの木造家屋で現存する貴重な家だと思う。割烹料理店の向かいに「大阪式理容館」が有り今は飲食店のテナントビルになっていて並びに「大黒屋」という和菓子店がありその店を曲がり沖銀本店方面に行くと左側に「日本旅館」があった。この旅館がその後「SAV」というジャズ喫茶になった、主人は渋谷でやっていた「SAV」のオーナーであった。渋谷から越してきたのである。今やその辺は飲屋街と化している。この通りの近くは久茂地の病院通りとして小児科。産婦人科、外科、眼科、内科と様々な病院が計画的に集められたと聞いている。病院通りから国際通りに出る右角に山城時計店があり高校卒業記念に父から時計を買ってもらった「チソット」だったと記憶しているが上京後いつしか質屋で流れてしまった、この事は父には伝えていない。久茂地界隈に記憶に残る建物はそれ以外にも数々ある。教育会館、少年会館、国場ビル、タイムスビル、一銀通り、安木屋、綾門、河太郎、長嶺空手道場、AJ洋服店、新島料理教室、バレー教室、お世話になった吉田小児科、古波蔵内科、喫茶ポピー、等々記憶をたどると名前は思い出せないが業種と場所は結構思い出す事が出来る。中にはその店に関わる多少の歴史も思い出す事が出来る店もある。一度記憶の地図を書いてみる事も良いかもしれない。脳トレーニングの為にも!!!
  


Posted by 鉄瓶・錆び鉄 at 19:20Comments(0)私のTUBUYAKI

2018年12月07日

心中をした友ちゃんの話

「友ちゃん」と言う女性が居た。「友恵」が本名らしいが周りはみんな「友ちゃん」と呼んでいた。初めて見かけたのはガーブ川と一銀通りに架かる橋の近くの三階建ての二階に有った「ピットイン」と云う店だった。ロック、ジャズR&Bソウル等ファンキーなアメリカの音が流れている少し薄暗い店であった。マスターは自分と同時期に車好きで当時出始めのスバル360の天井を切断しオープンカーの様に改造し6人ぐらいで一緒に乗り回したり、読谷の旧日本軍飛行場の跡地に行ってジムカーナをしていた仲であった。店のインテリアは米軍払い下げの家具を無造作に置いてあるだけの殺風景な雰囲気で外階段を上って店に入ると左側に、いかにもヤンキーなソファーがテーブルを挟み二席あったかな、それと払い下げの定番のテーブルと椅子が幾つかとカウンターが有った。昼間は車で遊び夜になると開くその店はさほど客も無くほとんど顔なじみの客ばかりであった。そこに「友ちゃん」はある日いかにも東京帰りの格好のいい青年と二人で入って来た。青年はと言っても自分より少し年上の青年らしい男は、入るなりマスターに軽く右手を挙げて合図し指を左に振った。マスターは無言で手のひらを上にして「どうぞ」のサインを送った。大きなソファーに腰かけた二人は慣れた動きで何時もの席に腰かける動きであった。マスターが注文を取りに行ったとき、格好のいいこの青年の声がカウンターにとまっていた自分にもかすかに聞こえた「レモンスカッシュと水割り」思わず振りかえってまじまじと二人の横顔を観た女性は未成年だでもその様には見えなかった。この時はまだ名前は知らない。話はそれるがこのピットインで大騒ぎになった事が有る、それはベトナム帰還兵が嘉手納を脱走して地元の女の子と仲良くなり内地に逃げたいという事に成なり仲間で金を集め逃走させた事が有った。具体的にどうしたのか寄付はしたが自分は知らない、向こうでは「ベ兵連」と云う組織が有り似た様な事をしていた情報が有った。丁度復帰して間もない頃である。
それからしばらくして再びあのカップルに別の店で出会った。同じようにジャズが流れている「ダダ」であった。この店は昼間もやっている喫茶店で店内も明るく壁は漆喰で店の主人の手作りでお洒落な文化人やインテリが集まる店だった。明るい店で「友ちゃん」は少しまぶしく見えた。コーヒーと紅茶を飲んだ二人はほどなくして店の主人に合図を送り出て行った。主人に「この前ピットインで見かけたけどあの格好の良い人は誰」と聞くと最近仕事で内地から帰って来たと知った。それから何度か二人を見かけたがいつのまにか連れていた「友ちゃん」を見なくなった。替わりに別な美人を連れていた。自分には可愛い女性に感じたけど,どうしているのかなと時々気になっていたが、周辺で聞く事もなく時が経ち思い出す事も無くなった。それから何年か経ち、ガーブ川の支流で若狭に通じる潮渡川の前島側の道端のスナックに友人と三人で立ち寄る機会が有った。店の名前は記憶に無いがその並びに若松国映という映画館が有った記憶がする。連れの友人は馴染みらしく入るとすぐママがキープの半分残ったカティーサークのボトルと氷とグラスのセットを出してくれた。シート席は埋まっていたのでカウンターに陣取りママはシート席の常連さんのお相手を始め、カウンターの前には若い魅力的な女性が来て、氷の入ったグラスにウイスキーを注ぎ、前の晩に溜めてカルキを抜いた水道水をピッチャーに移したような水を加えて「強い方が良いですか」とか聞いてきた。聞き覚えのある声だ。よく見ると見覚えのある顔だった。連れてきた友人はその子が目当てらしくしきりに世間話で気を引いていた。会話の中で「友ちゃん」と言っていたので、彼が席を立った時「本名は?」と聞いてはじめて「ともえです」と答えたので呼び名が分かった。
当時コマーシャルで「・・・トモエのそろばん・・・」の様なキャッチコピーを聞いていたので「あのそろばんのトモエ」と聞き返すと「友人に恵みのトモエです」と答えてくれた。その後、同行する人は違うが何回かその友人に誘われて行った事を覚えている。ある時「最近あの店に行かないが何かあったのか?」と聞くと「友ちゃんがやめたらしいけど何処に行ったか分からない」という事でそれっきりになった。数年後職場の慰労で入った久茂地の店であの時のママがホステスをしてたので「友ちゃんは何処に行ったか知らない?」と聞くと「よく知らないけど色々あって内地に行ったみたいヨ」との事だった。前島の店に連れて行ってくれた友人にその事を知らせると、もう結婚していて今更追いかける気はない昔の事だとの返事だった、当然である。更に何年かたって新聞に心中事件の記事が載っていて読むうちに、もしかしたらあの子!と思われる節があり加えて相手の男が元同僚の南部の村の地名を持つ知り合いであった。男は妻帯者で子供もいた事が書かれていた。まさかあの「友ちゃん」がと思いつつ時の流れでいつしか忘れかかっている時、デパートで偶然あの時のママに出会い向こうから「友ちゃん覚えている?」と聞かれ自分も「新聞の記事のあれ!」「そうなのよ!噂では奥さんのいる人と面倒な事になってるって聞いてるの」「やっぱりー姓は聞いていなかったので、そうかもしれないとは思っていた」立ち話であったがママと別れた後もしばらくその頃を思い出し彼女のそれまで生きて来た人生を想像し本当に色々あるなぁーと感慨にふけった。未成年の頃からの面影を追いながら好きな人と思いを遂げる時の顔を想像してみたが、初めて見た頃の大きなソファーに腰かけていた時の雰囲気しか思い出さなかった。
何故か、この頃になって無性に通りかかった場所に絡む事を思い出す。この心中は事実です。本当にあの頃色々あったなー
「友ちゃん」と言う女性が居た。「友恵」が本名らしいが周りはみんな「友ちゃん」と呼んでいた。初めて見かけたのはガーブ川と一銀通りに架かる橋の近くの三階建ての二階に有った「ピットイン」と云う店だった。ロック、ジャズR&Bソウル等ファンキーなアメリカの音が流れている少し薄暗い店であった。マスターは自分と同時期に車好きで当時出始めのスバル360の天井を切断しオープンカーの様に改造し6人ぐらいで一緒に乗り回したり、読谷の旧日本軍飛行場の跡地に行ってジムカーナをしていた仲であった。店のインテリアは米軍払い下げの家具を無造作に置いてあるだけの殺風景な雰囲気で外階段を上って店に入ると左側に、いかにもヤンキーなソファーがテーブルを挟み二席あったかな、それと払い下げの定番のテーブルと椅子が幾つかとカウンターが有った。昼間は車で遊び夜になると開くその店はさほど客も無くほとんど顔なじみの客ばかりであった。そこに「友ちゃん」はある日いかにも東京帰りの格好のいい青年と二人で入って来た。青年はと言っても自分より少し年上の青年らしい男は、入るなりマスターに軽く右手を挙げて合図し指を左に振った。マスターは無言で手のひらを上にして「どうぞ」のサインを送った。大きなソファーに腰かけた二人は慣れた動きで何時もの席に腰かける動きであった。マスターが注文を取りに行ったとき、格好のいいこの青年の声がカウンターにとまっていた自分にもかすかに聞こえた「レモンスカッシュと水割り」思わず振りかえってまじまじと二人の横顔を観た女性は未成年だでもその様には見えなかった。この時はまだ名前は知らない。話はそれるがこのピットインで大騒ぎになった事が有る、それはベトナム帰還兵が嘉手納を脱走して地元の女の子と仲良くなり内地に逃げたいという事に成なり仲間で金を集め逃走させた事が有った。具体的にどうしたのか寄付はしたが自分は知らない、向こうでは「ベ兵連」と云う組織が有り似た様な事をしていた情報が有った。丁度復帰して間もない頃である。
それからしばらくして再びあのカップルに別の店で出会った。同じようにジャズが流れている「ダダ」であった。この店は昼間もやっている喫茶店で店内も明るく壁は漆喰で店の主人の手作りでお洒落な文化人やインテリが集まる店だった。明るい店で「友ちゃん」は少しまぶしく見えた。コーヒーと紅茶を飲んだ二人はほどなくして店の主人に合図を送り出て行った。主人に「この前ピットインで見かけたけどあの格好の良い人は誰」と聞くと有名な人の息子さんだという。最近仕事で内地から帰って来たと知った。それから何度か二人を見かけたがいつのまにか連れていた「友ちゃん」を見なくなった。替わりに別な美人を連れていた。自分には可愛い女性に感じたけどどうしているのかなと時々気になっていたが、周辺で聞く事もなく時が経ち思い出す事も無くなった。それから何年か経ち、ガーブ川の支流で若狭に通じる潮渡川の前島側の道端のスナックに友人と三人で立ち寄る機会が有った。店の名前は記憶に無いがその並びに若松国映という映画館が有った記憶がする。連れの友人は馴染みらしく入るとすぐママがキープの半分残ったカティーサークのボトルと氷とグラスのセットを出してくれた。シート席は埋まっていたのでカウンターに陣取りママはシート席の常連さんのお相手を始め、カウンターの前には若い魅力的な女性が来て、氷の入ったグラスにウイスキーを注ぎ、前の晩に溜めてカルキを抜いた水道水をピッチャーに移したような水を加えて「強い方が良いですか」とか聞いてきた。聞き覚えのある声だ。よく見ると見覚えのある顔だった。連れてきた友人はその子が目当てらしくしきりに世間話で気を引いていた。会話の中で「友ちゃん」と言っていたので、彼が席を立った時「本名は?」と聞いてはじめて「ともえです」と答えたので呼び名が分かった。
当時コマーシャルで「・・・トモエのそろばん・・・」の様なキャッチコピーを聞いていたので「あのそろばんのトモエ」と聞き返すと「友人に恵みのトモエです」と答えてくれた。その後、同行する人は違うが何回かその友人に誘われて行った事を覚えている。ある時「最近あの店に行かないが何かあったのか?」と聞くと「友ちゃんがやめたらしいけど何処に行ったか分からない」という事でそれっきりになった。数年後職場の慰労で入った久茂地の店であの時のママがホステスをしてたので「友ちゃんは何処に行ったか知らない?」と聞くと「よく知らないけど色々あって内地に行ったみたいヨ」との事だった。前島の店に連れて行ってくれた友人にその事を知らせると、もう結婚していて今更追いかける気はない昔の事だとの返事だった、当然である。更に何年かたって新聞に心中事件の記事が載っていて読むうちに、もしかしたらあの子!と思われる節があり加えて相手の男が元同僚の豊見城村の地名を持つ知り合いであった。男は妻帯者で子供もいた事が書かれていた。まさかあの「友ちゃん」がと思いつつ時の流れでいつしか忘れかかっている時、デパートで偶然あの時のママに出会い向こうから「友ちゃん覚えている?」と聞かれ自分も「新聞の記事のあれ!」「そうなのよ!噂では奥さんのいる人と面倒な事になってるって聞いてるの」「やっぱりー姓は聞いていなかったので、そうかもしれないとは思っていた」立ち話であったがママと別れた後もしばらくその頃を思い出し彼女のそれまで生きて来た人生を想像し本当に色々あるなぁーと感慨にふけった。未成年の頃からの面影を追いながら好きな人と思いを遂げる時の顔を想像してみたが、初めて見た頃の大きなソファーに腰かけていた時の雰囲気しか思い出さなかった。
何故か、この頃になって無性に通りかかった場所に絡む事を思い出す。この心中事件は事実です。本当にあの頃色々あったなー
  


Posted by 鉄瓶・錆び鉄 at 22:35Comments(0)私のTUBUYAKI

2018年10月07日

思い出のヨットレース


思い出のヨットレース
                                         
「そろそろワッチ交代の時間だ、起こして」
「どの辺りですか、」
「宝島の東12海里(マイル)付近でヘディング40度スピード5ノット、風速16ノット程度順調です」
「了解、どうぞお休みください」
「何か飲む?」
「眠気覚ましにコーヒーでも」
「ブラック?」
「少しウィスキーを入れてくれる」
「オッケー」
ヨットの航海はクルーを2~3組に分け大体4時間ごとに見張(ワッチ)りと操船を代わるがわる行い、目的地まで休みなく帆走、もしくは機帆走で洋上を渡るが、レースに成ると救助等緊急時がない限りスタートからフィニッシュまで海象条件が変わっても帆走し続けるのがルール。長距離に成ると10日~20日以上時には200日以上になる無寄港で洋上を地球一周するレースもある。或いは数年を掛けて海に面した港を渡りゆく航海もある。それは一人だったり、カップルや家族、仲間である事もある。
風だけで走るヨットですから、時には無風にもなり、突然の風と雨に翻弄されたり、予期せぬ高波と強風で前後左右立って居られない揺れと頭からの波と飛沫(スプレー)にずぶ濡れにもなる。置かれた状況によりエンジンを使い窮地をやり過ごす事もある。わずか24ft、7.5m重量2トン余のヨットで、それも一人で南極まで航海をし尚8年かけて世界一周した日本人もいる。
夜は波の崩れる音や船体(ハル)を叩く波の音、リギンに絡みついた風の音等に注意を払う。微風の時は首筋を払うわずかな風の変化や肌に当るそよ風に神経を集中しそれこそ五感を働かせる事もある。
まさしく人が動物であることを思い起こさせる事に成る。何故か海に出て二晩ほど過ごし排泄もすると都会生活で失われていた聴覚や嗅覚、バランス感覚など動物としての本能が目覚めてくることを経験する。
「さっき10時の方向に光が見えたけど?」
「色は」
「はっきりしない」
暫くして
「あーハッキリして来たよ」
「白色と赤いのも見えるなー」
「本船だな」
「そういえばさっきからエンジン音の様なのが聞こえていた気がする」
「おう良く見えて来た」
「高い所に白色等が見えるからそこそこ大きな本船だ」
「左舷の赤が見えるから那覇に向かっているみたいだな」


最近は洋上でもキャビン内のラップトップパソコンに行き来する商船の位置情報やヘディングとスピードが分かる情報が得られ、全てではないが船名も分かる時代に成ったが、当時はまだその様な道具は無かった。
沖縄から大阪までのレースにクルーとして参加したのが長距離の初めての経験である。
33ftの巨匠ダグ,ピーターソン設計、チタ造船で建造された堅牢なヨットで5月の連休を利用してのレースである。スタートして最初の夜はさほど怖さを感じなかったが、二日目の頃から段々と時化て来てスプレーは被るし、セールはワンポイントリーフ、ジブも一段小さくした、更に気温も低くなりワッチ交代時にはウォームウエアー着込んで寝て、4時間後はオイルスキンを着用しないとコックピットでは寒いほどだった。
乗船した33ftのヨットの航海計器はRDF(電波方向探知機)とサテナブが有った。その頃のヨットでの長距離航海のナビゲーション機器は六分儀・サテナブ(衛星からの信号を使う)或いはロランCの頃だったが、沖縄から本土への航路は大きく東に向かわない限り、殆ど視界に入る島や沿岸の灯台を確認しながらコンパスと海図(チャート)で夜間は灯台とその灯質を記した灯台表とでかなり確実に航海する事が出来きるいわゆる沿岸航法である。
RDFを利用する時は日本沿岸の電波灯台やラジオ局などの発信局を探しその方角を探し自船の位置を把握する事に成る。
連休を利用した大阪までのレースに長距離初体験の二人とベテラン3人で計5人のクルーで、海洋博記念のアクアポリス沖をスタートしたのは4月28日午前11時、曇り、やや東の風14ノット.33フィートのチタ造船建造の堅牢なヨットは伊江水道を右に備瀬崎、左に伊江島を視認しつつ「イヒャドゥー」を辺戸岬沖に向けて通過する。第二尚氏尚円王が生まれた伊是名島。青年期島の人達のいわれなき迫害でこの「イヒャドゥー」を小さなサバニで国頭迄渡り切ったという潮の流れの厳しいこの辺りの海を「イヒャドゥー」と呼び難所の一つである。慶良間諸島の「ケラマドゥー」もその一つである。
伊平屋の北の端に有る田名埼灯台は海抜115m、12秒毎の白色閃光で光りの到達距離21海里(マイル)にもなる県内で最も高い海抜で光る灯台である。いい天気の夜だと沖永良部島西を南下するとしばらくして確認する事が出来るほどである。
その伊平屋島と辺戸岬の間を通過する頃は右舷2時の方角の遠くに与論島が目視できるようになる。日没も近くなり航海灯を灯す。田名岬の灯台も点灯した。夜はわずかにマストトップの航海灯の明かりが艇の周辺の海面を照らす。与論島赤崎の灯台は4秒毎白色閃光である。
レースは太平洋と東シナ海との間に延縄(はえなわ)のブイの様に点在する琉球列島を与論島・奄美大島と、北上しトカラ群島の東を通過する、丁度黒潮の流れに沿って帆走するコースである。フィニッシュは紀伊水道を北上し大阪湾西宮沖まで凡そ650海里(マイル)となる。
ワッチはスタートから20時までは体を慣らすようにオールハンズ、その間に共用するボンクとバースに所持品の整理と食事を済ませ、20時より4時間のワッチを組む。スキッパーと彼とO氏3名とベテラン2名の組合せと成った。3人が20時から24時まで、二人が0時から4時となった。五月とは言えさすがに洋上の夜は涼しく海面近くの風はまとわり付くような湿気を持った風であった。
規則的なピッチングと心地よいローリングと船体に伝わってくる波を切り叩く音、セールをトリムする時のウインチの金属音がキリキリと鳴る。そんな中、初めての長距離のセーリングにトキめきと不安を覚えながら最初のワッチに就いた。夜間のワッチは落水防止の為ハーネスの装着が必至である。
午前0時5分前交代のワッチクルーを起した、
雨は降っていないが暖の為にオイルスキンを着て出て来た。
「ポジションは?」
「沖永良部沖7~8海里(マイル)程と思う」
「スピード5.3ノット、風速・東16ノットオーバー」
「ヘディングは40度」
申し送りが済んでワッチが入れ替わった。
0時~4時ワッチが一番きついという。普段の生活には無い深夜から明け方まで二人が1時間交代で舵柄(ティラー)を持つ、ヘディングに合わせ風向が変化するとセールをトリムし可能な限りヘディングを維持する。この時期は梅雨の初めで前線が南北に動き自艇が前線の南に位置する時は追い風になり波にも乗りやすくなるが、その北側に位置する時は向い風に成り波に向かう姿勢にとなり、スプレーを浴び大きくピッチングする事もある。今は前線の北側に位置するがさほど厳しい状況にはない。キャビンに降りると右舷側にギャレーが有り小さいながらも深めのシンクが二つある、小さいがアイスボックスもある。揺れる船内でも水平が保てるジンバルに乗せられたガスコンロもある。湯を沸かし多少の料理も出来る。キャビン中央には折りたためるテーブルがある。チョトしたワンルーム並である。
その前方奥左舷側の狭い空間にトイレ(ヘッド)があり大小の用も足せる。但し、水洗では無いので手動ポンプで海水を吸い上げ流した後ポンプで排出する面倒な手間が必要である。降りて左舷側にはチャートテーブルが有りその左の壁には無線機等の航海計器がパネルに収められている。テーブルを上に開くとその中には何枚かの海図(チャート)やデバイダー定規等ナビゲーションに使う道具等が仕舞われている。
他にも港湾案内や必要な冊子が用意されている。航海計器の横にはハンドコンパスがコックピットからも取り出しやすいように壁に掛けてある。海図(チャート)には各地の灯台の位置とその灯質がしるされている。夜間想定する方角に見えて来るべき灯台を視認すると、その灯質を確認しチャートに記載されているデータとの確認をし、同時にハンドコンパスで自艇からの方位を記録する。出来ればもう一つ灯台を探し同様の作業をしてチャートに書き込む。出来れば3か所の灯台が確認できればその正確性が増す。
夜間のキャビンは暗く必要な明かりは小さな赤色灯であるがチャートテーブル上は絞ったスポットライトが備わっている。
4時間のワッチはこの海を渡って来た薩摩の人々や、琉球の役人や交易者たちも同様にこの海を渡っていた事を想いながら、幾つかのワッチに関わる作業とチャートワークで眠気も無く過ぎていった。5分前引き継ぎの声掛けをし、キャビンに入った。インスタントのスープとパン、魚肉ソーセージ等を口にし、オイルスキンを脱ぎ上段風上側のボンクに入った。しばらくは寝返りを打ちつつ、いつの間にか寝てしまった。
8時5分前ワッチクルーから肩をゆすられ起きた。波が高くなったような揺れと音を感じる。
「前線に近いせいか雨になっている」
「風は?」
「20ノット前後、ヘディング40度これ以上風が強くなったらセールチェンジする事になるな」
「分かった、お湯を沸かして何か温かい物でもつくるよ」
「悪いね」
スキッパーは私達が起きる前にサテナブで位置を確認していた。
現在地北緯27度50分 東経128度45分付近らしい、徳之島の西側である。衛星航法システムでも当時はこの地域を通過する衛星の電波を幾つか受信し位置を表示するのだが、誤差2海里(マイル)は普通にあるので、夜間、灯台や陸地が視認出来ない時には威力を発揮する。しかし、安全を取りいわゆる沖出しをする事が多いいもちろん洋上で陸地の見えない所ではこのデータが唯一のデータに成る。本船等はサテナブにロラン或いはデッカも併用するようであるが、高価な事と機器がヨットにはチョット大きく重いのであまり使われない。今ではGPSという有難いシステムが有り小型で海図もディスプレイに表示され位置。進行方向。対地スピードも分かるが当時はまだ無い。

空は低く厚い雲が朝とはいえあまり良い気分ではない。
ひどい雨ではないが被っているキャップの庇からポタポタと雫が落ちてその幾つかは風で顔にあたる。首に巻いたタオルが役に立った。
コックピットは船体の後方に有りデッキより40cmほど窪んでバスタブの様になっている。その左右に大小各1個のウインチがコックピットを囲んだコーミングの上に取り付けられ主にジブセールというマストより前に有る三角形のセールを締め込んだり緩めたりするシートをコントロールするのに使う。コックピットの前方にキャビン入る出入口があるがキャビンは船底からの間に人が立てる高さに成っているので、デッキより35センチほど高い。デッキに囲われたその部分は犬小屋の様なのでドックハウスと呼ばれている。キャビンに出入りする開口部が有るが其のままだと入りにくいのでドックハウスの入り口上部に前後にスライドする50センチ幅のハッチと呼ぶ引戸がある。通常そのハッチを前後に動かしキャビンから階段を使いコックピットに出入りする。時化てくるとこのハッチを閉めさらに出入り口を分割された板で塞ぐ。この出入り口足元付近にメインセールをコントロールするレールに左右に動く滑車と一緒に組まれた滑車(ブロック)を介してシートでブームを締め込んだり緩めたりするメインシートと時にはレール上の滑車(ブロック)を左右に移動させてメインセールをトリムする。
ドックハウス入口の両側には水深計と艇速計・風速計・風向計が有る表示される風速は艇速との合力で示され風向も同じ。一般的な天気予報の風速、風向は陸地のある点でのデータだが船上は常に帆走している状態なので、風速、風向の数値は合成されたベクトル標示になる。
「風が20ノットオーバーになって来たな~」
「ジブをナンバー2に張り替えようか」
「中の誰かを起こして手伝ってもらおうか」
「セールチェンジするので起きてくれ!それと、ナンバー2を出して」
結局オールハンズに成りヘビーからナンバー2に張り替える事に成った。雨の中バウからデッキ上に張られた安全索ジャックラインにセィフティーハーネスのフックを絡めコックピットからバウ迄移動する。片手には交換するセールバックを引きずっている。コックピットからバウ迄僅か5mにもならないが、波をしゃくるようにピッチングする船上での移動はまるでハイハイするようなものである。バウに着くと体を船首のパルピットに預け、展開しているセールを引き下ろす。マストについたクルーに怒鳴りあうように合図を送りジブハリヤードのストッパー緩める、テンションの無くなったセールはバウのクルーが引き下ろし手短にたたみ、新しいセールを装着し解いたジブシートも新しいジブセールのクルーに結び直してから指を立てて合図を送る。マストマンはジブハリヤードを力の限り引きセールを揚げる。コックピットのクルーはドックハウス上のウインチを使いしっかりとテンションを掛けハリヤードをストッパーで止める。バウに行ったクルーは降ろしたセールを再び這うようにコックピットまで運ぶ、わずかな距離だがはるか遠くに感じながら、大きくピッチングするデッキ上のクルーはその都度浮かび上がるような体を手の届くあらゆる場所を握りしめ振り落とされないようにジリジリとコックピットまで移動する。その間コックピットではジブシートをプライマリーウインチ巻き込みトリムする。運んだセールはバックの中に畳み込みキャビンの中に降ろし所定の場所に収めてセール交換は一段落である 作業は5,6分ほどで終わったが、ひどくなってきた雨と風で前方は灰色の空と白く崩れて幾重にも重なった波頭が不気味に感じる。
その後、波も風も更に増しメインセールもワンポイント縮帆(リーフ)にした。メインセールを縮帆する時はセールのマスト側と取り付けられたブームの後端の両側を絞り込みセールの面積を小さくする事に成る。ジブセールは数字が大きくなる程面積が小さくなる。
最小のセールの組み合わせは、ストームジブとトライスルで最小の面積になる。セールを展開する事が出来ないほどの強風や荒波に成るとマストが受ける風だけで走る事に成るが、その時は暴風の波浪に翻弄されている小さな板切れの様なものである。唯々耐える事に成る。時には復元力を超えてロールオーバーという180度もの回転をしてしまう事もある。
幸いこの様な海象に合う事は無かったが梅雨前線が通過するその時は30ノット以上の風と黒潮の逆波で波高6メートル以上にもなる。波のてっぺんに来ると強風を受け落ちるように波の底に滑る、途端に風が弱くなりセールはバタバタとシバーするが瞬時に又、波頭に上り又落ちる。これを繰り返しながら前へ前へと帆走するのである。まるでジェットコースターの様に。
オイルスキンにライフジャケットとセィフティーハーネスを着用しコックピットにある金具にハーネスのフックを掛け振落とされないようにする。それでも腰が浮くようなピッチングや突然の横波で体が浮いてしてしまう様な大きなローリングする時もある。其の時はしっかりと近くのウインチやライフラインを掴でいないと体はコックピットの風下に投げ出される事もありハーネスが無ければ落水である。それは即命に係わる事に成る。夜が明けない夜は無いし、永延に続く時化も無い唯々気力で耐える事しかない。
6時間もすると幾らか穏やかに成り、視界も開いてくる。低かった雲も高くなったが、まだオイルスキンは離せない。沖永良部国頭埼沖を通過し、徳之島が確認できる。奄美大島名瀬沖まで50海里(マイル)程である。このレースの後に何度か訪れた奄美大島名瀬港の沖を通過しほぼ北に進路をとる。トカラ群島の最南端の島宝島を左手にして群島沿いを北上する。艇は黒潮の流れに乗っているが、風は背後の前線に向かっているため波は悪くピッチングを繰り返し、大きなパンチングの度にスプレーを被る。オイルスキンの下にかぶっているキャップのツバをその度に下に向けそれをしのぐ、音を立てて頭に当った潮がツバの先から滴ってくる。悪石島沖を通過する、この島の付近で疎開船対馬丸が魚雷で沈没遭難したあの島である。諏訪之瀬島、中之島までは北上し東に流れる黒潮の影響が顕著である。このレースの後幾度となくこの海域を航海したが屋久島の山頂がはっきりと見えた事は無い。
種ケ島の東を通過し大隅半島を過ぎ志布志湾の東端、都井岬の沖30海里(マイル)程を北上する。都井岬の灯台は海抜250m余にもなり昭和4年に建造され電波灯台としてもその役割をしている。15秒に1回の白色閃光で光る。日本で5番目に高い位置に光源を持つ灯台である。海の中の黒瀬川と言われている黒潮に乗って豊後水道を横切り四国足摺岬沖を通過する。かつて琉球の交易船が日明貿易や南蛮貿易で栄えた当時の大坂堺港に向かう時この水道に入り日向灘沖を通過し瀬戸内海を通過したという。足摺岬の灯台は大正初期に造られ海抜60mの灯台で、30秒に3回の白色閃光を18秒ごとに繰り返す。土佐湾を北東に横切ると、室戸岬が見えて来る。昭和9年9月記録に残る室戸台風は沖縄本島の東を通過しこの岬を通り死者2700人余の甚大な被害を出した。この灯台は明治中頃建設され日本一の灯光到達距離26.5海里(マイル)を誇る明るさで、10秒に1回の白色閃光である。
梅雨前線を遥か南にして順風の中クローズドリーチ気味に淡々と帆走を続ける。スタートから100時間以上にもなると完全に体はヨットの揺れや4時間ごとのワッチ交代に慣れ食事と排泄や交代時の合図で起される事無くスムースに交代ができる様になっている。

アクアポリス沖を同時にスタートしたヨット数艇は既に紀伊水道から大阪湾の入り口、友が島水道を通過した様だ。ロールコール時の無線で情報が得られる。我々はまだ徳島県の紀伊水道側に面した伊島に向かっていた。海抜144m10秒毎の白色閃光が確認できる。東の和歌山県側には紀伊水道を瀬戸内海や大阪に向かう商船が左舷赤色航海灯を点灯し過ぎて行くのがまるで長い列車の様に見える。時には右舷緑色灯も見え水道を南下し紀伊半島先端串本方面に向かう商船もある。
この商船の間を横切る時に突然目も眩むようなサーチライトを照射され暫く辺りが見えなくなる様な事が起きる。ヨットの航海灯はマストの上部先端に三色の航海灯があるが揺れているので商船側からは確認しにくい為と思われる。
海上での法律は帆走している側に航路権があるが、ぶつかればヨットの側の損害が大きいのは目に見えているので、オールハンズで当方がよける様に操船し商船の間を抜けていく。明け方、淡路島と和歌山との間の友が島水道を通過し大阪湾に入った。
外洋のうねりも無く風波だけの軽快な滑り心地である。湾の奥にフニッシュラインがある西宮マリーナ沖まであと18海里強、午後にはフィニッシュしそうだ。西宮マリーナにある関西ヨットクラブの入り口にはあの堀江健一氏に続き1967年101日掛かって太平洋を横断した「コラーサⅡ」号が当時のまま展示されている。同じ太平洋横断だが加島郁夫はアメリカから日本への航海であった。この二人のヨットは、奇しくも日本ヨット界の巨匠、横山晃氏設計の19ftの外洋ヨット、キング・フィッシャー型であった。フィニッシュ後KYCクラブの先導でマリーナのポンツーンに接岸、差し入れの冷えた缶ビールで互いの健闘を称え5人で乾杯をした。成績はタイムリミットを過ぎていたのでDNFとなった。
それから3か月後、今度はここ西宮から沖縄那覇までの回航も乗る事に成った。きっと帰りは黒瀬川とも呼ばれている黒潮のへりを使い機帆走となるだろう。


  


Posted by 鉄瓶・錆び鉄 at 13:10Comments(0)ヨットと帆船と私

2018年09月29日

ジャズ喫茶「ダダ」での遠い昔のある日


ジャズ喫茶「ダダ」での遠い昔のある日

台風のさなか何も音楽が聞こえない。ただ強い風が何処かの窪みを吹き楽にならない音が聞こえるその中で思い出すように記す。

久茂地川沿いの久美橋近くの国道側に1968年頃?からか「ダダ」という今と成っては伝説のジャズ喫茶があった。インテリアデザイナー宮平氏がオーナーで通りから少し下がった二階建ての建物の一階で奥は彼の事務所と生活の場であった。漆喰と古材で出来た店は入ると右側の壁沿いに椅子が作り込まれていて突き当りのカウンターの手前まで店内を囲むように詰めると12,3名が座れた。椅子の前のテーブルは3~4卓であったと記憶している。カウンターは小さい椅子が5席。左端は跳ね上げ式で出入りが出来た。テーブルには椅子が2席づつ用意されていた。これだけの店内でカウンター内を含め5~6坪度だったと思う。床と天井は幅10センチほどの板で床はオイル仕上げ、壁は漆喰で仕上げられていた。店内は落ち着いた漆喰色と古材の茶系の古色でカウンター奥の壁に組み込まれているスピーカからビ・バップが心地よく流れていた。カウンター内左側にアンプとターンテーブルがありその上の棚にレコードが100枚ほど立てられていた。ブルーノートが多かった印象がある。リクエストがあるとジャケットを出入り口の横の壁に掲げていた。12インチのLPの時代である。ジャケットのデザインも一枚の絵になっていた頃である。マイルスのペットが正面に向かっている絵や、街の中をハイヒールでさっそうと歩くタイトスカートの女性をローアングルでひざ下だけを写した白黒写真。湖に仰向けに浮かんでいるドレスを着た女性の不思議な写真、コンコルド広場の中心を路地から写した写真、演奏者の顔がジャケット一杯に写されている物など実にい。思い当たるファンも思い当たるでしょう。
こんな狭い店内で当時基地の中などで演奏していたバンドマンが休みにセッションをする時もあった。そのせいか近くの建築設計士や画家、陶芸家、デザイナー、文人、記者、マスコミ、学者、学生、自由人等々様々な職業の紳士淑女と変人奇人浪人社会人が日夜集い時には口論や喧嘩まがいの事も起きる。漆喰の壁にそれぞれの分野のミニ個展的な発表の場にもなっていた。夜は飲酒も出来た軽いサンドイッチやカレーも供された。昼はもっぱら一杯ごとに挽いたドリップコーヒーが出る。美大を出た宮平氏は久茂地界隈に幾つかの店を請負って個性的な古材と漆喰で出来た店を造りが白壁チェーンとも言われていた。バー。喫茶店、今で言うカフェ等10店舗はあったと思う。しばらくして近くのビルの二階に「ドグラマグラ」というロックが聞ける店がオープンした。サインを制作する会社のオーナーの趣味で造られた店であった。不思議な内装で床から階段状に席が有り最上段は立つと天井に当るほどであった。好きな高さの場所でくつろぐことが出来た。ベトナム戦争が段々と激しく成って来た時代で音楽も激しくメッセージをもった曲も出て来たころである。基地の中ではアメリカから一流のミュージシャンやシンガーが来沖していた。映画の様にマリリンモンローは来なかったが戦場から休暇で沖縄に帰って来た兵士の慰労であった。「ダダ」はそのご店を少し広くしセッションの時の収容能力が増した。椅子委に座れない客は床に座り目の前がバスドラだったりしていた。


そんな時代多分沖縄で初めての野外ジャズコンサートを宮平氏が中心となって催した。夏、場所は今の万座ビーチホテルの有る恩納村の小さな半島の様な所であった。当時一号線から左に入ると右側に小粋な連棟建てのモーテルが10~12部屋があった今でもホテル社員用の施設になっているようだが開催時にはそこが宿泊場所となった。那覇から一時間はかかる場所で半島の先端は万座毛ならぬ千座毛の様に芝生と雑草と石ころの緩やかな傾斜の地に特設ステージを設営、南の太陽を幾らかでも和らげるようにステージの上に米軍払い下げの大きなパラシュート広げた。それは中心からオレンジとベージュ色で傘の様に彩られていた。風になびきステージ上に不思議な光と影を落としていた。其の様子を当時売れっ子の写真家「内藤忠行」氏が写しレコードのジャケットになった、同時にスイングジャーナルに特集が組まれた。内藤氏は日本の写真家として初めて「マイルス」のアルバムを飾った写真家である。後に「日野皓正の世界」という写真集を出している。という事で出演者は人気プレイヤーであった日野皓正クインテット。稲葉国光、日野元彦、鈴木弘昌、村岡健のメンバーだったと思う、他にも猪俣猛、菊池雅章、峯厚介等が出演していたかと記憶している。私も楽屋裏的な手伝いをした。開演時間は夕刻、暮れていく夕日が観客を染めステージは逆光の様な様相になり緩やかな斜面で聞き入っている人々は寝転んだり、体育すわりなど思い思いに芝生の上に座りまるであの映画「真夏の夜のジャズ」の様だった。今ではその場所はホテルの玄関先になっている。遠い昔の一ジャズシーンである。


  


Posted by 鉄瓶・錆び鉄 at 16:00Comments(0)ジャズの話