2009年07月16日
「ままや」移転先ビフォーアフター
いよいよ移転先の改装工事が始まりました。
私が多感な?十代から高校を卒業するまで過ごした実家です。
建築当時は「松下町」と云う地番でしたが、その後「松山」となりました。
亡父の話では戦前は琉球松が多く茂っていた小高い丘だったとの事。
亡父の自慢はいい棟梁に恵まれ伝統的な木組みの木造の家が完成したことです。
建築当初はいわゆる琉球瓦の屋根でしたが、10年ほど前に傷みが出てきた事で
写真のような屋根に葺き替えました。

亡き母が此処で裏千家の教授として茶道教室をしていた事から室内は純和室となっています。
一番奥の部屋が私たち兄弟の部屋で一部二段ベットに、窓際が長い造り付けの勉強机で
3人横に一列に座っていましたが。一番勉強したのは妹でした。
この部屋が今回の改修で一番手が掛る厨房になります。
その部屋の手前が台所で此処はカウンター席になります。

今日はここまでとします。
しばらくは、この様に移転先の改修工事の様子を伝えていきます。
久茂地の店は8月末頃まで営業する予定です。
具体的なスケジュールは今の時点では未定ですが、
9月10日頃にここ「松山」で再開できるでしょう。
私が多感な?十代から高校を卒業するまで過ごした実家です。
建築当時は「松下町」と云う地番でしたが、その後「松山」となりました。
亡父の話では戦前は琉球松が多く茂っていた小高い丘だったとの事。
亡父の自慢はいい棟梁に恵まれ伝統的な木組みの木造の家が完成したことです。
建築当初はいわゆる琉球瓦の屋根でしたが、10年ほど前に傷みが出てきた事で
写真のような屋根に葺き替えました。

亡き母が此処で裏千家の教授として茶道教室をしていた事から室内は純和室となっています。
一番奥の部屋が私たち兄弟の部屋で一部二段ベットに、窓際が長い造り付けの勉強机で
3人横に一列に座っていましたが。一番勉強したのは妹でした。
この部屋が今回の改修で一番手が掛る厨房になります。
その部屋の手前が台所で此処はカウンター席になります。

今日はここまでとします。
しばらくは、この様に移転先の改修工事の様子を伝えていきます。
久茂地の店は8月末頃まで営業する予定です。
具体的なスケジュールは今の時点では未定ですが、
9月10日頃にここ「松山」で再開できるでしょう。
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Posted by 鉄瓶・錆び鉄 at 13:19│Comments(0)
│移転顛末記