2018年12月08日
久茂地・牧志界隈の記憶
思い出せるうちに子供の頃住んでいた久茂地・牧志界隈の記憶を時系列に捕らわれずランダムに書いてみる。あいまいな名称、場所などもあるやもしれないが、その辺の所は笑ってください。
10歳の時に家族で疎開先から帰郷し久茂地小学校に編入した。編入後最初の遠足時に南部戦績巡りが有り母と同窓の女学校の挺身隊が祭られている「白梅の塔」に花束を捧げるように母に言われ、大きな花束を持って行った覚えがある。其の事で多くの県民が犠牲になった事を学んだ。間借りしていた家の近くの丘には「ペルー会館」があり、周辺は沢山の墓があった、いわゆる琉球スタイルのいくつかの形である。子供の頃の遊び場であり、かくれんぼの格好のエリアだった。時には若い大人たちの密会の場所だった様子を目撃しドキドキした思い出がある。ペリー会館は子供博物館的な要素と小さなホールが有った記憶がある。それは戦前ペルーに移民した県人たちが戦後の復興を願い寄付によって出来たと聞いている。今はその丘も会館も跡形も無く平地となり公園となっている。貸本屋が近所に有ったがこのペルー会館からも借りる事が出来た。子供向け空想科学絵本小説が愛読書だった。授業中教科書の後ろに隠して読んでいた事もある。この会館が何年か後、台風で相当な被害が出てそれをきっかけに久茂地に少年会館が出来たと聞いている。その頃の久茂地川は護岸も無く上流から不衛生な排水が流れていて台風時には様々な物体が流れて来た。物体とはペットであったり家畜もあった。それでも干潮時の川岸には片方の爪が大きく赤や黄色の色がきれいな「シオマネキ」という蟹が沢山見られた。少し上流の今の国際通りから先の与儀より上流まで十分な護岸も無く下水道の整備も無く川岸のバラックの様な小屋に生活用品、食品等が相対で販売されていた。これらの店が整備後水上店舗となり、むつみ橋通りや平和通りの商店街へとつながっていった。冬至近くの季節になると「サシバ」が生きたまま足を縄でくくられ売られていた。今や遠い過去の話である。現在JR系ホテルとなっている沖映通りの場所は通りの名前になった「沖映会館」が有った沖縄芝居や映画を掛けていた。復帰後映画館の一部に若者目当てのクラブの様なディスコの様な店が出来たが確か火事になって閉めたと思う。国際通りから「平和通り」入口の左のビルの最上階に沖縄初の当時流行りのコンパなるカウンターバーが出来た。向かいに「大宝館」という映画館が有り屋上階にニュース専門の小さな映画館が有った。その後ビルは沖縄三越となった。その近くには戦後の復旧の為の材木屋が何軒かあり通りに材木が立てかけてあった。今の久高民芸などはその一つである。その向かいのテンプス館の辺りには琉映館と平和会館という映画館が有ったと覚えている。近くにはドルと円を交換する闇取引場があった。桜坂には洋画を上映する「桜坂オリオン」と「桜坂劇場」がほとんど隣りあわせに有った。グランドオリオンは流行りの屋台村になっている。この映画館で初めて70ミリ映画を見た時そのスクリーンの大きさに驚愕した。「アラビアのロレンス」だったと思う。通りの名前もグランドオリオン通りでタクシーには今も通じる。パラダイス通りには松山に移転した骨董店「観宝堂」があった。国際通りから入って右に折れる角の手前左に、お茶屋が有るがドルの時代からそこにある。右に曲がってしばらくの所の左の小さな角にあるコインパークはかつてダンスホールがあった。国際通りに有った「山形屋」横から抜けられる小道との交差点である。記憶ではエーワンダンスホールの屋号で通りの通称はエーワン通りだったと思う。何時からパラダイス通りになったのか自分には不明である。浮島通りも通りの途中左に浮島旅館があったからその名がついている。久茂地の居酒屋「和民」が入居するビルは当時家具を作って販売していた古堅家具屋のビルであった、二階は家具を作る工場が有り、小学校の体育祭で棒術を披露する事が有り学年男子全員がその棒を削ってもらった覚えがある。近所に太平木工と云う家具屋もあった。この傍に「大嶺美術館」があり、今は居酒屋「中村屋」二階は「バーバリーコースト」で好きなバーである。
今の「和民」の近くにスッポン料理の店と割烹料理の店があった。その先の国際通りの近くに今もある「中琉薬局」が当時の時代を醸しながら営業している。あの辺りの木造家屋で現存する貴重な家だと思う。割烹料理店の向かいに「大阪式理容館」が有り今は飲食店のテナントビルになっていて並びに「大黒屋」という和菓子店がありその店を曲がり沖銀本店方面に行くと左側に「日本旅館」があった。この旅館がその後「SAV」というジャズ喫茶になった、主人は渋谷でやっていた「SAV」のオーナーであった。渋谷から越してきたのである。今やその辺は飲屋街と化している。この通りの近くは久茂地の病院通りとして小児科。産婦人科、外科、眼科、内科と様々な病院が計画的に集められたと聞いている。病院通りから国際通りに出る右角に山城時計店があり高校卒業記念に父から時計を買ってもらった「チソット」だったと記憶しているが上京後いつしか質屋で流れてしまった、この事は父には伝えていない。久茂地界隈に記憶に残る建物はそれ以外にも数々ある。教育会館、少年会館、国場ビル、タイムスビル、一銀通り、安木屋、綾門、河太郎、長嶺空手道場、AJ洋服店、新島料理教室、バレー教室、お世話になった吉田小児科、古波蔵内科、喫茶ポピー、等々記憶をたどると名前は思い出せないが業種と場所は結構思い出す事が出来る。中にはその店に関わる多少の歴史も思い出す事が出来る店もある。一度記憶の地図を書いてみる事も良いかもしれない。脳トレーニングの為にも!!!
10歳の時に家族で疎開先から帰郷し久茂地小学校に編入した。編入後最初の遠足時に南部戦績巡りが有り母と同窓の女学校の挺身隊が祭られている「白梅の塔」に花束を捧げるように母に言われ、大きな花束を持って行った覚えがある。其の事で多くの県民が犠牲になった事を学んだ。間借りしていた家の近くの丘には「ペルー会館」があり、周辺は沢山の墓があった、いわゆる琉球スタイルのいくつかの形である。子供の頃の遊び場であり、かくれんぼの格好のエリアだった。時には若い大人たちの密会の場所だった様子を目撃しドキドキした思い出がある。ペリー会館は子供博物館的な要素と小さなホールが有った記憶がある。それは戦前ペルーに移民した県人たちが戦後の復興を願い寄付によって出来たと聞いている。今はその丘も会館も跡形も無く平地となり公園となっている。貸本屋が近所に有ったがこのペルー会館からも借りる事が出来た。子供向け空想科学絵本小説が愛読書だった。授業中教科書の後ろに隠して読んでいた事もある。この会館が何年か後、台風で相当な被害が出てそれをきっかけに久茂地に少年会館が出来たと聞いている。その頃の久茂地川は護岸も無く上流から不衛生な排水が流れていて台風時には様々な物体が流れて来た。物体とはペットであったり家畜もあった。それでも干潮時の川岸には片方の爪が大きく赤や黄色の色がきれいな「シオマネキ」という蟹が沢山見られた。少し上流の今の国際通りから先の与儀より上流まで十分な護岸も無く下水道の整備も無く川岸のバラックの様な小屋に生活用品、食品等が相対で販売されていた。これらの店が整備後水上店舗となり、むつみ橋通りや平和通りの商店街へとつながっていった。冬至近くの季節になると「サシバ」が生きたまま足を縄でくくられ売られていた。今や遠い過去の話である。現在JR系ホテルとなっている沖映通りの場所は通りの名前になった「沖映会館」が有った沖縄芝居や映画を掛けていた。復帰後映画館の一部に若者目当てのクラブの様なディスコの様な店が出来たが確か火事になって閉めたと思う。国際通りから「平和通り」入口の左のビルの最上階に沖縄初の当時流行りのコンパなるカウンターバーが出来た。向かいに「大宝館」という映画館が有り屋上階にニュース専門の小さな映画館が有った。その後ビルは沖縄三越となった。その近くには戦後の復旧の為の材木屋が何軒かあり通りに材木が立てかけてあった。今の久高民芸などはその一つである。その向かいのテンプス館の辺りには琉映館と平和会館という映画館が有ったと覚えている。近くにはドルと円を交換する闇取引場があった。桜坂には洋画を上映する「桜坂オリオン」と「桜坂劇場」がほとんど隣りあわせに有った。グランドオリオンは流行りの屋台村になっている。この映画館で初めて70ミリ映画を見た時そのスクリーンの大きさに驚愕した。「アラビアのロレンス」だったと思う。通りの名前もグランドオリオン通りでタクシーには今も通じる。パラダイス通りには松山に移転した骨董店「観宝堂」があった。国際通りから入って右に折れる角の手前左に、お茶屋が有るがドルの時代からそこにある。右に曲がってしばらくの所の左の小さな角にあるコインパークはかつてダンスホールがあった。国際通りに有った「山形屋」横から抜けられる小道との交差点である。記憶ではエーワンダンスホールの屋号で通りの通称はエーワン通りだったと思う。何時からパラダイス通りになったのか自分には不明である。浮島通りも通りの途中左に浮島旅館があったからその名がついている。久茂地の居酒屋「和民」が入居するビルは当時家具を作って販売していた古堅家具屋のビルであった、二階は家具を作る工場が有り、小学校の体育祭で棒術を披露する事が有り学年男子全員がその棒を削ってもらった覚えがある。近所に太平木工と云う家具屋もあった。この傍に「大嶺美術館」があり、今は居酒屋「中村屋」二階は「バーバリーコースト」で好きなバーである。
今の「和民」の近くにスッポン料理の店と割烹料理の店があった。その先の国際通りの近くに今もある「中琉薬局」が当時の時代を醸しながら営業している。あの辺りの木造家屋で現存する貴重な家だと思う。割烹料理店の向かいに「大阪式理容館」が有り今は飲食店のテナントビルになっていて並びに「大黒屋」という和菓子店がありその店を曲がり沖銀本店方面に行くと左側に「日本旅館」があった。この旅館がその後「SAV」というジャズ喫茶になった、主人は渋谷でやっていた「SAV」のオーナーであった。渋谷から越してきたのである。今やその辺は飲屋街と化している。この通りの近くは久茂地の病院通りとして小児科。産婦人科、外科、眼科、内科と様々な病院が計画的に集められたと聞いている。病院通りから国際通りに出る右角に山城時計店があり高校卒業記念に父から時計を買ってもらった「チソット」だったと記憶しているが上京後いつしか質屋で流れてしまった、この事は父には伝えていない。久茂地界隈に記憶に残る建物はそれ以外にも数々ある。教育会館、少年会館、国場ビル、タイムスビル、一銀通り、安木屋、綾門、河太郎、長嶺空手道場、AJ洋服店、新島料理教室、バレー教室、お世話になった吉田小児科、古波蔵内科、喫茶ポピー、等々記憶をたどると名前は思い出せないが業種と場所は結構思い出す事が出来る。中にはその店に関わる多少の歴史も思い出す事が出来る店もある。一度記憶の地図を書いてみる事も良いかもしれない。脳トレーニングの為にも!!!
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Posted by 鉄瓶・錆び鉄 at 19:20│Comments(0)
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