2009年01月07日
沖縄のジャズ喫茶の話
これから何回かに分けて最近投稿した沖縄ジャズ協会への原稿を多少書き加えてお話したいと思います。
「私と沖縄ジャズとジャズ喫茶」
バース
1971年7月末「ニューポートジャズフェスティバルINニューヨーク」を聞きに行く為に、テリー重田と伴に那覇空港を発った。当時日本のジャズミュージシャンの為のジャズレーベルに「スリーブラインドマウス」という新しいレコード会社が出来たての頃であった。「スイングジャーナル」の企画で全国から羽田に集合したジャズ狂は40人ほどだった記憶である。私とテリー重田は当時ニューヨークで暮らしていた宮平伊知郎氏を頼れることに一抹の不安の中に一つの安心感があった。
イントロ
さて‘67年帰郷したての頃、那覇市与儀にあった琉米文化センター?で渡嘉敷唯夫氏の解説でジャズレコードの鑑賞会が定期的にあり私も聞きに行き、そこで生意気にも大先輩の解説に横槍を入れたりしたために、では次回は君がやってみたらどうだ!と言うことになり、何回か担当した事がある。今から思うとなんと無謀な事をしでかしたかと思う。
その頃、久茂地に「ダダ」と言うジャズ喫茶があり、よく通っていた。その喫茶店のオーナーが宮平伊知郎氏である。小さな店に造り付の長椅子とテーブルが四つ、別にテーブル席が二つ、4名ほど掛けられるカウンターの向に2~3百枚のジャズレコードがあった。氏はインテリアデザイナーでありこの店も自らのデザインで手作りであった。
つずく・・・・・・・・・・・・・・・
「私と沖縄ジャズとジャズ喫茶」
バース
1971年7月末「ニューポートジャズフェスティバルINニューヨーク」を聞きに行く為に、テリー重田と伴に那覇空港を発った。当時日本のジャズミュージシャンの為のジャズレーベルに「スリーブラインドマウス」という新しいレコード会社が出来たての頃であった。「スイングジャーナル」の企画で全国から羽田に集合したジャズ狂は40人ほどだった記憶である。私とテリー重田は当時ニューヨークで暮らしていた宮平伊知郎氏を頼れることに一抹の不安の中に一つの安心感があった。
イントロ
さて‘67年帰郷したての頃、那覇市与儀にあった琉米文化センター?で渡嘉敷唯夫氏の解説でジャズレコードの鑑賞会が定期的にあり私も聞きに行き、そこで生意気にも大先輩の解説に横槍を入れたりしたために、では次回は君がやってみたらどうだ!と言うことになり、何回か担当した事がある。今から思うとなんと無謀な事をしでかしたかと思う。
その頃、久茂地に「ダダ」と言うジャズ喫茶があり、よく通っていた。その喫茶店のオーナーが宮平伊知郎氏である。小さな店に造り付の長椅子とテーブルが四つ、別にテーブル席が二つ、4名ほど掛けられるカウンターの向に2~3百枚のジャズレコードがあった。氏はインテリアデザイナーでありこの店も自らのデザインで手作りであった。
つずく・・・・・・・・・・・・・・・
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Posted by 鉄瓶・錆び鉄 at 13:55│Comments(0)
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