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2018年02月13日

中山伝信録時代の帆船の艤装についての一考

以前から機会ある毎にいわゆる「進貢船」について様々な事を調べているが、
長い事良く理解できない漢字が有った「勒肚」「肋肚」と書かれている船の艤装に関わる表記です。
有名な「進貢船図」に絵が画れているがその役割が良く理解できずにいたが最近有るきっかけでその役割が理解できた。
中山伝信録時代の帆船の艤装についての一考
この絵の竜骨と書かれた上の方に鎖のように書かれている「勒肚」が船首から船尾の舵まで描かれているのが解ります。
初めてこの絵を見た時は何のための艤装なのか理解できませんでした。そんな折
「宮古史伝」132ページに以下の様な事が書かれていました
「天正11年頃(1582年)栄河氏下地親雲上真栄・童名 嘉和良が有る時中山から帰港の際、嵐に会い明国に漂着たまたま琉球から進貢船が来ていたので頼んで便乗して帰琉途中大時化に遭い勒肚綱が切れて船体の自由を失い危機に面した時真栄は水練に巧みで激浪中勒肚綱を貫き替え無事帰琉。時の進貢使は国君尚栄王に伝え、その事で下地の頭役を授かった。」と書かれています。又、県立博物館に再現し置かれている当時の椗(碇)を考証した山形欣哉著「中国造船技術の航跡・歴史の海を走る」26ページにこの様に書かれています「肋肚・舵の下端を船首に引く索」とあり孟宗竹等の太くて長い竹を細く割り、茹でて柔らかくし縒ったもの」とあります。近代の船では舵軸の下端は図のように船尾の構造体に自在に可動するよう取り付けられていますが(図が小さくてすみません)
中山伝信録時代の帆船の艤装についての一考
当時の船は舵軸に舵面を取り付け船尾甲板より吊り下げていた構造でその回転中心を維持するために肋肚をもって舵を左右から支えていた様です。その為時化や大波時に横方向から波の力を受けると舵の破損や肋肚の切断等で舵が効かなくなる事が有ったようです。その為に予備の舵や肋肚を積載していたようです。
しかし1800年中頃から西洋の帆船が明国にも寄港する事で西洋帆船の舵の構造を学び船体竜骨の延長上に舵軸を受けて固定できる構造に成り予備の舵を用意する事は無くなっていったようです。
中山伝信録時代の帆船の艤装についての一考


この絵は1827年5月にウイリアム・スミス氏が那覇の港を出港する進貢船を描いたものですが、その船尾に3個の錨が描かれた居ます。船の横に長い電柱の様な丸太が見えますが、おそらく舵軸の予備かマストの予備ではないかと思われます。又、船首の横にも何本かの棒がみえますが、これは明らかにマストの予備と思われます、予めマストを支えるロープが結ばれているのが分かります。同時に揚げかけた帆(布では無い)滑車が使われている事が分かります。進貢船とその周りのサバニの比率は描かれている人物の大きさから見るとほぼ正確な比率と思います。当時の船長は35~38メートルと言われていますので、見送りのサバニの大きさも10人程度乗っているので凡そ8メートルぐらいではないでしょうか。下の絵は山形欣哉氏の描いたものですがこの絵にも船底に肋肚が船首付近から舵軸の下まで結ばれた居るのが分かります。同時に舵面の上部から船尾甲板に向けて2本のロープが描かれていますが、これは舵が抜け落ちないように支えているロープと思われます。同時にいざと言うときには、予備の舵と差し替える時には良く出来た構造ではないでしょうか。
中山伝信録時代の帆船の艤装についての一考
これからも個人的な視線かもしれませんが進貢船に関する色々な事をヨットに載っていた者として様々な資料から考察していきたいと思っています。最終的にはどの様に操船していたかと言う所まで行けたらと思っています。


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Posted by 鉄瓶・錆び鉄 at 20:08│Comments(0)ヨットと帆船と私
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