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2018年10月07日

思い出のヨットレース

思い出のヨットレース
思い出のヨットレース
                                         
「そろそろワッチ交代の時間だ、起こして」
「どの辺りですか、」
「宝島の東12海里(マイル)付近でヘディング40度スピード5ノット、風速16ノット程度順調です」
「了解、どうぞお休みください」
「何か飲む?」
「眠気覚ましにコーヒーでも」
「ブラック?」
「少しウィスキーを入れてくれる」
「オッケー」
ヨットの航海はクルーを2~3組に分け大体4時間ごとに見張(ワッチ)りと操船を代わるがわる行い、目的地まで休みなく帆走、もしくは機帆走で洋上を渡るが、レースに成ると救助等緊急時がない限りスタートからフィニッシュまで海象条件が変わっても帆走し続けるのがルール。長距離に成ると10日~20日以上時には200日以上になる無寄港で洋上を地球一周するレースもある。或いは数年を掛けて海に面した港を渡りゆく航海もある。それは一人だったり、カップルや家族、仲間である事もある。
風だけで走るヨットですから、時には無風にもなり、突然の風と雨に翻弄されたり、予期せぬ高波と強風で前後左右立って居られない揺れと頭からの波と飛沫(スプレー)にずぶ濡れにもなる。置かれた状況によりエンジンを使い窮地をやり過ごす事もある。わずか24ft、7.5m重量2トン余のヨットで、それも一人で南極まで航海をし尚8年かけて世界一周した日本人もいる。
夜は波の崩れる音や船体(ハル)を叩く波の音、リギンに絡みついた風の音等に注意を払う。微風の時は首筋を払うわずかな風の変化や肌に当るそよ風に神経を集中しそれこそ五感を働かせる事もある。
まさしく人が動物であることを思い起こさせる事に成る。何故か海に出て二晩ほど過ごし排泄もすると都会生活で失われていた聴覚や嗅覚、バランス感覚など動物としての本能が目覚めてくることを経験する。
「さっき10時の方向に光が見えたけど?」
「色は」
「はっきりしない」
暫くして
「あーハッキリして来たよ」
「白色と赤いのも見えるなー」
「本船だな」
「そういえばさっきからエンジン音の様なのが聞こえていた気がする」
「おう良く見えて来た」
「高い所に白色等が見えるからそこそこ大きな本船だ」
「左舷の赤が見えるから那覇に向かっているみたいだな」
思い出のヨットレース

最近は洋上でもキャビン内のラップトップパソコンに行き来する商船の位置情報やヘディングとスピードが分かる情報が得られ、全てではないが船名も分かる時代に成ったが、当時はまだその様な道具は無かった。
沖縄から大阪までのレースにクルーとして参加したのが長距離の初めての経験である。
33ftの巨匠ダグ,ピーターソン設計、チタ造船で建造された堅牢なヨットで5月の連休を利用してのレースである。スタートして最初の夜はさほど怖さを感じなかったが、二日目の頃から段々と時化て来てスプレーは被るし、セールはワンポイントリーフ、ジブも一段小さくした、更に気温も低くなりワッチ交代時にはウォームウエアー着込んで寝て、4時間後はオイルスキンを着用しないとコックピットでは寒いほどだった。
乗船した33ftのヨットの航海計器はRDF(電波方向探知機)とサテナブが有った。その頃のヨットでの長距離航海のナビゲーション機器は六分儀・サテナブ(衛星からの信号を使う)或いはロランCの頃だったが、沖縄から本土への航路は大きく東に向かわない限り、殆ど視界に入る島や沿岸の灯台を確認しながらコンパスと海図(チャート)で夜間は灯台とその灯質を記した灯台表とでかなり確実に航海する事が出来きるいわゆる沿岸航法である。
RDFを利用する時は日本沿岸の電波灯台やラジオ局などの発信局を探しその方角を探し自船の位置を把握する事に成る。
連休を利用した大阪までのレースに長距離初体験の二人とベテラン3人で計5人のクルーで、海洋博記念のアクアポリス沖をスタートしたのは4月28日午前11時、曇り、やや東の風14ノット.33フィートのチタ造船建造の堅牢なヨットは伊江水道を右に備瀬崎、左に伊江島を視認しつつ「イヒャドゥー」を辺戸岬沖に向けて通過する。第二尚氏尚円王が生まれた伊是名島。青年期島の人達のいわれなき迫害でこの「イヒャドゥー」を小さなサバニで国頭迄渡り切ったという潮の流れの厳しいこの辺りの海を「イヒャドゥー」と呼び難所の一つである。慶良間諸島の「ケラマドゥー」もその一つである。
伊平屋の北の端に有る田名埼灯台は海抜115m、12秒毎の白色閃光で光りの到達距離21海里(マイル)にもなる県内で最も高い海抜で光る灯台である。いい天気の夜だと沖永良部島西を南下するとしばらくして確認する事が出来るほどである。
その伊平屋島と辺戸岬の間を通過する頃は右舷2時の方角の遠くに与論島が目視できるようになる。日没も近くなり航海灯を灯す。田名岬の灯台も点灯した。夜はわずかにマストトップの航海灯の明かりが艇の周辺の海面を照らす。与論島赤崎の灯台は4秒毎白色閃光である。
レースは太平洋と東シナ海との間に延縄(はえなわ)のブイの様に点在する琉球列島を与論島・奄美大島と、北上しトカラ群島の東を通過する、丁度黒潮の流れに沿って帆走するコースである。フィニッシュは紀伊水道を北上し大阪湾西宮沖まで凡そ650海里(マイル)となる。
ワッチはスタートから20時までは体を慣らすようにオールハンズ、その間に共用するボンクとバースに所持品の整理と食事を済ませ、20時より4時間のワッチを組む。スキッパーと彼とO氏3名とベテラン2名の組合せと成った。3人が20時から24時まで、二人が0時から4時となった。五月とは言えさすがに洋上の夜は涼しく海面近くの風はまとわり付くような湿気を持った風であった。
規則的なピッチングと心地よいローリングと船体に伝わってくる波を切り叩く音、セールをトリムする時のウインチの金属音がキリキリと鳴る。そんな中、初めての長距離のセーリングにトキめきと不安を覚えながら最初のワッチに就いた。夜間のワッチは落水防止の為ハーネスの装着が必至である。
午前0時5分前交代のワッチクルーを起した、
雨は降っていないが暖の為にオイルスキンを着て出て来た。
「ポジションは?」
「沖永良部沖7~8海里(マイル)程と思う」
「スピード5.3ノット、風速・東16ノットオーバー」
「ヘディングは40度」
申し送りが済んでワッチが入れ替わった。
0時~4時ワッチが一番きついという。普段の生活には無い深夜から明け方まで二人が1時間交代で舵柄(ティラー)を持つ、ヘディングに合わせ風向が変化するとセールをトリムし可能な限りヘディングを維持する。この時期は梅雨の初めで前線が南北に動き自艇が前線の南に位置する時は追い風になり波にも乗りやすくなるが、その北側に位置する時は向い風に成り波に向かう姿勢にとなり、スプレーを浴び大きくピッチングする事もある。今は前線の北側に位置するがさほど厳しい状況にはない。キャビンに降りると右舷側にギャレーが有り小さいながらも深めのシンクが二つある、小さいがアイスボックスもある。揺れる船内でも水平が保てるジンバルに乗せられたガスコンロもある。湯を沸かし多少の料理も出来る。キャビン中央には折りたためるテーブルがある。チョトしたワンルーム並である。
その前方奥左舷側の狭い空間にトイレ(ヘッド)があり大小の用も足せる。但し、水洗では無いので手動ポンプで海水を吸い上げ流した後ポンプで排出する面倒な手間が必要である。降りて左舷側にはチャートテーブルが有りその左の壁には無線機等の航海計器がパネルに収められている。テーブルを上に開くとその中には何枚かの海図(チャート)やデバイダー定規等ナビゲーションに使う道具等が仕舞われている。
他にも港湾案内や必要な冊子が用意されている。航海計器の横にはハンドコンパスがコックピットからも取り出しやすいように壁に掛けてある。海図(チャート)には各地の灯台の位置とその灯質がしるされている。夜間想定する方角に見えて来るべき灯台を視認すると、その灯質を確認しチャートに記載されているデータとの確認をし、同時にハンドコンパスで自艇からの方位を記録する。出来ればもう一つ灯台を探し同様の作業をしてチャートに書き込む。出来れば3か所の灯台が確認できればその正確性が増す。
夜間のキャビンは暗く必要な明かりは小さな赤色灯であるがチャートテーブル上は絞ったスポットライトが備わっている。
4時間のワッチはこの海を渡って来た薩摩の人々や、琉球の役人や交易者たちも同様にこの海を渡っていた事を想いながら、幾つかのワッチに関わる作業とチャートワークで眠気も無く過ぎていった。5分前引き継ぎの声掛けをし、キャビンに入った。インスタントのスープとパン、魚肉ソーセージ等を口にし、オイルスキンを脱ぎ上段風上側のボンクに入った。しばらくは寝返りを打ちつつ、いつの間にか寝てしまった。
8時5分前ワッチクルーから肩をゆすられ起きた。波が高くなったような揺れと音を感じる。
「前線に近いせいか雨になっている」
「風は?」
「20ノット前後、ヘディング40度これ以上風が強くなったらセールチェンジする事になるな」
「分かった、お湯を沸かして何か温かい物でもつくるよ」
「悪いね」
スキッパーは私達が起きる前にサテナブで位置を確認していた。
現在地北緯27度50分 東経128度45分付近らしい、徳之島の西側である。衛星航法システムでも当時はこの地域を通過する衛星の電波を幾つか受信し位置を表示するのだが、誤差2海里(マイル)は普通にあるので、夜間、灯台や陸地が視認出来ない時には威力を発揮する。しかし、安全を取りいわゆる沖出しをする事が多いいもちろん洋上で陸地の見えない所ではこのデータが唯一のデータに成る。本船等はサテナブにロラン或いはデッカも併用するようであるが、高価な事と機器がヨットにはチョット大きく重いのであまり使われない。今ではGPSという有難いシステムが有り小型で海図もディスプレイに表示され位置。進行方向。対地スピードも分かるが当時はまだ無い。
思い出のヨットレース
空は低く厚い雲が朝とはいえあまり良い気分ではない。
ひどい雨ではないが被っているキャップの庇からポタポタと雫が落ちてその幾つかは風で顔にあたる。首に巻いたタオルが役に立った。
コックピットは船体の後方に有りデッキより40cmほど窪んでバスタブの様になっている。その左右に大小各1個のウインチがコックピットを囲んだコーミングの上に取り付けられ主にジブセールというマストより前に有る三角形のセールを締め込んだり緩めたりするシートをコントロールするのに使う。コックピットの前方にキャビン入る出入口があるがキャビンは船底からの間に人が立てる高さに成っているので、デッキより35センチほど高い。デッキに囲われたその部分は犬小屋の様なのでドックハウスと呼ばれている。キャビンに出入りする開口部が有るが其のままだと入りにくいのでドックハウスの入り口上部に前後にスライドする50センチ幅のハッチと呼ぶ引戸がある。通常そのハッチを前後に動かしキャビンから階段を使いコックピットに出入りする。時化てくるとこのハッチを閉めさらに出入り口を分割された板で塞ぐ。この出入り口足元付近にメインセールをコントロールするレールに左右に動く滑車と一緒に組まれた滑車(ブロック)を介してシートでブームを締め込んだり緩めたりするメインシートと時にはレール上の滑車(ブロック)を左右に移動させてメインセールをトリムする。
ドックハウス入口の両側には水深計と艇速計・風速計・風向計が有る表示される風速は艇速との合力で示され風向も同じ。一般的な天気予報の風速、風向は陸地のある点でのデータだが船上は常に帆走している状態なので、風速、風向の数値は合成されたベクトル標示になる。
「風が20ノットオーバーになって来たな~」
「ジブをナンバー2に張り替えようか」
「中の誰かを起こして手伝ってもらおうか」
「セールチェンジするので起きてくれ!それと、ナンバー2を出して」
結局オールハンズに成りヘビーからナンバー2に張り替える事に成った。雨の中バウからデッキ上に張られた安全索ジャックラインにセィフティーハーネスのフックを絡めコックピットからバウ迄移動する。片手には交換するセールバックを引きずっている。コックピットからバウ迄僅か5mにもならないが、波をしゃくるようにピッチングする船上での移動はまるでハイハイするようなものである。バウに着くと体を船首のパルピットに預け、展開しているセールを引き下ろす。マストについたクルーに怒鳴りあうように合図を送りジブハリヤードのストッパー緩める、テンションの無くなったセールはバウのクルーが引き下ろし手短にたたみ、新しいセールを装着し解いたジブシートも新しいジブセールのクルーに結び直してから指を立てて合図を送る。マストマンはジブハリヤードを力の限り引きセールを揚げる。コックピットのクルーはドックハウス上のウインチを使いしっかりとテンションを掛けハリヤードをストッパーで止める。バウに行ったクルーは降ろしたセールを再び這うようにコックピットまで運ぶ、わずかな距離だがはるか遠くに感じながら、大きくピッチングするデッキ上のクルーはその都度浮かび上がるような体を手の届くあらゆる場所を握りしめ振り落とされないようにジリジリとコックピットまで移動する。その間コックピットではジブシートをプライマリーウインチ巻き込みトリムする。運んだセールはバックの中に畳み込みキャビンの中に降ろし所定の場所に収めてセール交換は一段落である 作業は5,6分ほどで終わったが、ひどくなってきた雨と風で前方は灰色の空と白く崩れて幾重にも重なった波頭が不気味に感じる。
その後、波も風も更に増しメインセールもワンポイント縮帆(リーフ)にした。メインセールを縮帆する時はセールのマスト側と取り付けられたブームの後端の両側を絞り込みセールの面積を小さくする事に成る。ジブセールは数字が大きくなる程面積が小さくなる。
最小のセールの組み合わせは、ストームジブとトライスルで最小の面積になる。セールを展開する事が出来ないほどの強風や荒波に成るとマストが受ける風だけで走る事に成るが、その時は暴風の波浪に翻弄されている小さな板切れの様なものである。唯々耐える事に成る。時には復元力を超えてロールオーバーという180度もの回転をしてしまう事もある。
幸いこの様な海象に合う事は無かったが梅雨前線が通過するその時は30ノット以上の風と黒潮の逆波で波高6メートル以上にもなる。波のてっぺんに来ると強風を受け落ちるように波の底に滑る、途端に風が弱くなりセールはバタバタとシバーするが瞬時に又、波頭に上り又落ちる。これを繰り返しながら前へ前へと帆走するのである。まるでジェットコースターの様に。
オイルスキンにライフジャケットとセィフティーハーネスを着用しコックピットにある金具にハーネスのフックを掛け振落とされないようにする。それでも腰が浮くようなピッチングや突然の横波で体が浮いてしてしまう様な大きなローリングする時もある。其の時はしっかりと近くのウインチやライフラインを掴でいないと体はコックピットの風下に投げ出される事もありハーネスが無ければ落水である。それは即命に係わる事に成る。夜が明けない夜は無いし、永延に続く時化も無い唯々気力で耐える事しかない。
6時間もすると幾らか穏やかに成り、視界も開いてくる。低かった雲も高くなったが、まだオイルスキンは離せない。沖永良部国頭埼沖を通過し、徳之島が確認できる。奄美大島名瀬沖まで50海里(マイル)程である。このレースの後に何度か訪れた奄美大島名瀬港の沖を通過しほぼ北に進路をとる。トカラ群島の最南端の島宝島を左手にして群島沿いを北上する。艇は黒潮の流れに乗っているが、風は背後の前線に向かっているため波は悪くピッチングを繰り返し、大きなパンチングの度にスプレーを被る。オイルスキンの下にかぶっているキャップのツバをその度に下に向けそれをしのぐ、音を立てて頭に当った潮がツバの先から滴ってくる。悪石島沖を通過する、この島の付近で疎開船対馬丸が魚雷で沈没遭難したあの島である。諏訪之瀬島、中之島までは北上し東に流れる黒潮の影響が顕著である。このレースの後幾度となくこの海域を航海したが屋久島の山頂がはっきりと見えた事は無い。
種ケ島の東を通過し大隅半島を過ぎ志布志湾の東端、都井岬の沖30海里(マイル)程を北上する。都井岬の灯台は海抜250m余にもなり昭和4年に建造され電波灯台としてもその役割をしている。15秒に1回の白色閃光で光る。日本で5番目に高い位置に光源を持つ灯台である。海の中の黒瀬川と言われている黒潮に乗って豊後水道を横切り四国足摺岬沖を通過する。かつて琉球の交易船が日明貿易や南蛮貿易で栄えた当時の大坂堺港に向かう時この水道に入り日向灘沖を通過し瀬戸内海を通過したという。足摺岬の灯台は大正初期に造られ海抜60mの灯台で、30秒に3回の白色閃光を18秒ごとに繰り返す。土佐湾を北東に横切ると、室戸岬が見えて来る。昭和9年9月記録に残る室戸台風は沖縄本島の東を通過しこの岬を通り死者2700人余の甚大な被害を出した。この灯台は明治中頃建設され日本一の灯光到達距離26.5海里(マイル)を誇る明るさで、10秒に1回の白色閃光である。
梅雨前線を遥か南にして順風の中クローズドリーチ気味に淡々と帆走を続ける。スタートから100時間以上にもなると完全に体はヨットの揺れや4時間ごとのワッチ交代に慣れ食事と排泄や交代時の合図で起される事無くスムースに交代ができる様になっている。
思い出のヨットレース
アクアポリス沖を同時にスタートしたヨット数艇は既に紀伊水道から大阪湾の入り口、友が島水道を通過した様だ。ロールコール時の無線で情報が得られる。我々はまだ徳島県の紀伊水道側に面した伊島に向かっていた。海抜144m10秒毎の白色閃光が確認できる。東の和歌山県側には紀伊水道を瀬戸内海や大阪に向かう商船が左舷赤色航海灯を点灯し過ぎて行くのがまるで長い列車の様に見える。時には右舷緑色灯も見え水道を南下し紀伊半島先端串本方面に向かう商船もある。
この商船の間を横切る時に突然目も眩むようなサーチライトを照射され暫く辺りが見えなくなる様な事が起きる。ヨットの航海灯はマストの上部先端に三色の航海灯があるが揺れているので商船側からは確認しにくい為と思われる。
海上での法律は帆走している側に航路権があるが、ぶつかればヨットの側の損害が大きいのは目に見えているので、オールハンズで当方がよける様に操船し商船の間を抜けていく。明け方、淡路島と和歌山との間の友が島水道を通過し大阪湾に入った。
外洋のうねりも無く風波だけの軽快な滑り心地である。湾の奥にフニッシュラインがある西宮マリーナ沖まであと18海里強、午後にはフィニッシュしそうだ。西宮マリーナにある関西ヨットクラブの入り口にはあの堀江健一氏に続き1967年101日掛かって太平洋を横断した「コラーサⅡ」号が当時のまま展示されている。同じ太平洋横断だが加島郁夫はアメリカから日本への航海であった。この二人のヨットは、奇しくも日本ヨット界の巨匠、横山晃氏設計の19ftの外洋ヨット、キング・フィッシャー型であった。フィニッシュ後KYCクラブの先導でマリーナのポンツーンに接岸、差し入れの冷えた缶ビールで互いの健闘を称え5人で乾杯をした。成績はタイムリミットを過ぎていたのでDNFとなった。
それから3か月後、今度はここ西宮から沖縄那覇までの回航も乗る事に成った。きっと帰りは黒瀬川とも呼ばれている黒潮のへりを使い機帆走となるだろう。
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Posted by 鉄瓶・錆び鉄 at 13:10│Comments(0)ヨットと帆船と私
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