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2019年08月12日

回航記

南へ

この記述は足掛け2か月にわたり義弟Jとの何年か前に交わした約束を果たすべく銚子マリーナで売り出されていた古いヨットを彼の愛する沖縄まで3人で回航する様子を時系列で記したものである。
Jは在日20年以上の英国人でかの国特有のストイックさと頑固さを備えている学者肌の50代でスマートな体形の男である。同乗するYは根っからのヨットマンでクルージングガイドや回航、レースを生業としている今年還暦を迎えた。
時には海外にも出向く事も有るが外国語は得意ではない。ヨットに関する技量と知見と寛容で温和な人柄が多くのヨットオーナから指名される所以である。私ともヨットを介して知り合い、何度か一緒に乗った事も有る。知り合ってから30年位に成る。この航海記は記録に加えて思いつくままに想像をたくましくし自らのこれまでの経験と講釈?を織り込み書く。

タイトルの「南へ」は大袈裟だが、英国の探検家アーネスト・シャクルトン率いる南極探検隊はその途中に遭難したが数々の困難を乗り越え一人も失わずに帰国した英雄の著書にちなんだ。


令和元年5月14日、何年か前に交わした約束を果たすべく千葉県銚子マリーナに向かった。飛行機に乗るのも何年振りであろうか、自分ではネットでの予約が出来ないので、義理の妹の予約で私のメールにそのデータを送って貰いプリントし空港のカウンターに行った。
切符も無く不安な仕草は見透かされた様にバカ丁寧に案内され、無事保安システムを通過し搭乗できた。窓際の席は面倒なので通路側に取るのが何時もである。メールの指示通り成田空港から電車に乗り銚子駅からタクシーを乗り継ぎマリーナの前で降りた。初めての成田空港だったが見物する事も無く通り過ぎた。到着したが、業務時間を過ぎていたのでやっと使えるようになった携帯で前日から来ているJを呼び出しゲートの前で迎えを待った。
3.11の津波で殆ど流されてしまったというマリーナの浮桟橋は再建され陸上の広場には芝も植えられ穏やかで静かなマリーナの日暮れの風景が目に入った。南側の幾つかの桟橋のフィンガーにそのヨットは休んでいた。
この年の春先Jはネットの情報でこのヨットを見つけ購入。仕事の休みを見つけ自ら多少の整備をしていた様である。ある時は都内から家族を連れて船内で一泊した事も有ったようだ。キャビンに入る。旧式の魚探と併用するGPS航海計器は何とか使えそうであったが、ドックハウス上部にある水深、風向、風速等の計器は全て動かない。両舷に有るコンパスは利用できるが、一つは計器内の液体が揮発し動きが悪い片方は水平が保てない上に点灯しない。チャートは前に私のを渡してあったが、Jはラップトップに「ニューペック」と云う電子海図ソフトを入れてあったのでまずは一安心である。事前に私からそれなりの船齢からエンジン回りとバッテリーを新品に、船底は新しく塗装する事等々の整備をしっかりとするように伝えてあったが、エンジン整備をもっと本格的にしておくべきであったと後になって悔やむことが起きた。
   
ヨットはヤマハ33ft船齢30年以上の老艇である。船型も当時のスタンダードで船尾が絞られたデザインでアップウインドには良いのだがダウンウインドには船尾の浮力が足りず保針性が悪く追い風や追い波時には舵取りに神経を使う。蛇行しやすいスタイルであった。対候性は高いが快適性には問題のあるデザインである。最近のヨットのデザイン傾向は「くさび」の様なデザインで船尾が広く浮力も有り扱いやすく成っている。
夕刻に到着した為近くのショッピングモールで夕食を取りキャビン右舷パイロットバースに用意された寝袋に潜り込み旅の疲れを休める。
5月の銚子沖は親潮の南下と黒潮の北流との合流点で漁場としては良い所だがキャビンの中は沖縄の冬の様子であった。用意してあった冬の備えが役に立った。気温14度日中でも18度。翌朝、Jと共に試運転を兼ねてマリーナ沖まで機走する。Jは何度か先代のオーナーと試走をしていた様で港の出入りは承知していた。彼も全くの初心者ではなく英国で幾度となくチャーターしたヨットを操縦した事が有り、自らも今帰仁の別荘にディンギーを置きセーリングを楽しんでいるが、セーリングクルーザーでの外洋長距離の経験はなかったので購入後は私が手伝う事になった経緯がある。船体重量の割にはやや馬力不足の18馬力、固定翼3枚ペラであった。沖合に風力発電の大きな高さ20m程の風車が2基あった。
北東からのうねりと季節風のチョッピ―な波でローリングスしやすい特性を感じこれからの航海の覚悟を少なからず思いやった。このヨットは建造時エンジンがマストより前に置かれていた様で、これまでの何人目かの所有者が船尾コックピット下に移したようである。その為に船内の至る所にその時の跡が有った。幾つかの水漏れの跡も見受けられた。後にその為に寝袋が濡れる事になる。
翌日かねてより親交のある根っからのヨットマンYと合流、この回航する事が決まった時、私とJだけでは心許ないのでYと連絡を取り彼のスケジュールに合わせた結果が今回の期日となった次第で名古屋からの到着である。
さすがプロ、到着後すぐさま喫水の状態から積載量が多すぎる事を指摘し船型から判断し重量配分を船尾に移し船首を軽くすることが快適な航海になる事を説いた。Jは購入後まるでやっと手に入ったヨットを秘密の基地の如くあらゆる道具や思い当たるグッズを持ち込んでいた。後にその事が多少役に立つ事も有ったが、加えて回航中補充する事無く食べられる量の缶詰やジュース、等々それもキャビン床下の隙間にこれでもかと詰め込んであった。Jの妻すなわち私の妻の妹が詰め込んだとの事。揺れる船内で料理が難しい事を知っているのだろうかおまけに、臨時に設置したカセットコンロである。
その夜の内に燃料の確認をし、航海計画を打ち合わせ、最近の大平洋側の海象状況の話になった。「ホンダワラ」と言う厄介な海藻が黒潮の流れに沿って浮遊していてペラに絡み、時にはエンジンに支障をきたす事があるので十分な見張りと注意が必要とのレクチャーが有った。この季節特有の海藻の様だ。やや冷たいキャビンで互いの親交を交わしバース(寝床)に入った
事前にハーバーマスターに必要な手続きをしてあったので翌朝早くマリーナを出港する。
日の出前の銚子沖はやや波が有り、これからの回航を暗示するような海象であったが天気は良く那覇では感じる事のない乾いた冷たい風であった。
銚子沖は先に述べたように海流が南北から突き当り太平洋に向かう為時には意外な波が立つ俗に伝えられる「1000に1の大波」の様な。多くの船が遭難し過去には巨大なタンカーが二つに折れる様な海難事故もあった海域である。しかし、そのような海であるが為に豊富な漁場となっているのだ。近くの銚子港は日本有数の水揚のある港である。銚子から九十九里の海岸沖を航行、朝日を左に見ながら南西に向かう。海岸の砂浜が延々と伸びている
その向こうにホテルや人家が見える。名前だけでなく実際に九十九里あるのではとも思わせる。多くの場合ヨットと云えども予定のある回航はエンジンを多用する事は常である。風向と風速が目的地に適っている時はエンジンを止めセーリングをする事はあるが、中々その様な事には成らないのが回航である。このヨットは船内燃料タンクが50ℓ有るので予備の20ℓポリタンク二本を用意した。
           
コックピット両側のスタンションに縛る。燃料はディーゼル。
幸い波と風も規則的で安心出来る。寄港地の無い九十九里の海岸沖を通過し千葉県房総半島南端近くの「千倉港」に入る。小さな漁港で港口は幾つかの暗礁や洗岩の為、指向灯台が24時間灯し、航路を外れると赤や緑の灯火で航路中心のずれを示してくれる。航路中心の白糖を保ち航測に従い慎重に港に入る。港内は意外と広く夕刻ではあったが、適切な係留ポイントを見極めるために一回りし新参者の身で迷惑の掛からないような岸壁に舫った。
時は日没前。防波堤越しに暮れゆく景色は美しく海に憧れる私にとっては生きている事を実感するような一瞬であった。
 
幸いに停泊した場所のすぐ近くにガソリンスタンドが有り燃料の補充をした。残念な事に港の周りに食堂は無く3人でささやかな保存食が夜食となった。
海象状況をスマホで収集し結果、翌日一気に房総半島の南端を回り東京湾を横切り伊豆大島の北を通り下田港まで向かう事とした。条件の良い時に出来るだけ距離を稼ぎ行程に余裕を持たせたいが為だ。
ほんの30年前にはGPSは高価でましてスマホやラップトップでの風向や海象状況を把握する手立ても無く経験や観天望気の知識と電波方向探知機(DF)や六分儀によるポジションの確認やラジオの天気予報を空欄の天気図に聞きながら書き写し海象状況を把握出来る事がベテランセーラーの条件であった時代である。現在は世界中の海上でも陸上でも電話も自らの位置も更には映像も受発信できるIT時代だ。
今や片手の中に入るスマートフォン一つで気象。海象、海図が気軽に手に入れる事が出来る。数日後までの風の傾向や波の状況が得られ航海計画を安全に立てられるこの頃である。
とはとは言え気まぐれな天気である、地域によっては思いもかけない事が起きるのが海の上である。
翌朝4時過ぎ千倉港を出る。東の空が朝日を迎えて美しい景色を見せてくれた。沖縄より東に位置するので朝が早い。朝食もそこそこに舫いを解き出航。外洋に出てから食事を済ませる。レトルトの白飯とレトルトの具材入りの汁物と果物。
房総半島先端の御前崎を6時半ごろ通過。東京湾から太平洋側に向かう商船で混雑している海上衝突予防法の規則に従い行合う船同士は左舷を見せ合うので右側通行である。夜間は航海灯の赤色灯が船の左を示している。緑は右側を示している。余談だが航空機も同様で歴史的に船が飛行船になり飛行機に成った経緯がある。航空機も操縦席はコックピットであり客席はキャビンで操縦席の左席が正操縦士で右席は副操縦士となっている。出入口は左右に有るが世界中ボーディングブリッジは左側に接続する。この事は帆船時代からのルールであるが悔しい事にJの国の英国が決めたのである。
           
その航路を横切り伊豆大島北側を順調に11時ごろ通過する。その頃は晴天になり海水温も高まりキャビンの中も過ごしやすく成ってきた。日差しが心地良い。偏光サングラスをかける。後になって聞いた話だが、その同時刻ごろ一番年下の義弟Nが出張の為東京に向かっていた飛行機が大島上空を通過する時、眼下に一隻のヨットが西に向かっているのを見たとの事で多分私達のヨットではなかったかとの事だったが偶然とは言え確かなようだ。
事前に備えてあったダジャーとキャノピーが日除けやスプレー除けとなりコックピットはそれなりに快適である。
私が二十歳過だった在京中、港区芝浦からこの伊豆大島迄夜出航する船に乗り朝早く渡った事が有る。島に泊まる事は無かったが島内観光をし夕刻出航し芝浦に帰った思い出が有る。沖縄本島周辺の離島であるが高校時代から日帰りの船旅は度々していた。大島土産に椿油を買ったけど誰に渡したかは覚えていない。同時に何年か前の大雨による災害が有った事も思い出した。大島港の沖を通過し島の西側では東京湾の干満の潮流か好天にも拘らず渦を巻くような潮の流れに遭遇した。東京湾に出入りする潮の流れである。座間味海峡の潮の流れに匹敵するような海の流れであった。その流れはエンジン音の変化にも表れていた。小一時間もするとその流れを横切り遠くに伊豆半島がしっかりと眺める事が出来たが富士山はあいにく雲の隙間に微かに視認できる状態であった。ギャレーで湯を沸かしインスタントな食事とバナナと魚肉ソーセージを腹に送り舵はオートパイロットに任せられる海面であった。
伊豆半島に近づくにつれ東京湾から関西方面に向かう商船に出会う事が多くなる。
視程があり良い天気なので通常の緊張の下ワッチを続ける。
このヨットは、船長約10m幅約2.5mキャビンは中央部で高さ1.9m船首に向かい低くなる。Vバースと呼ばれる船首スペースの入り口は1.5m弱屈まないと通れないキャビン内にデッキから船底迄貫通しているマストが有りマストを挟むように折り畳みの小さなテーブルが有る。停泊中の食卓にもなる。その両側に幅50cm長さ2m程のソファー兼ベットが有り背あての一段奥に広い所で幅約50cm船首側では凡そ20センチ、長さ2m程の細長いパイロットバースが両舷に有る。船体はラグビーボールを半分にした様なおわん型をして一番広い所がくつろぐ所となっている。曲線が陸上の普通の部屋の様にはいかない。空間の多くが曲線である。全体で三畳間より狭いこの狭いスペースに170cm代の男3人が入れ替わり立ち代わり出入りし寝起きするのである。24時間場合によっては48時間以上。
レースともなると6~7人が数日から時には数週間寝起きするので体育会系のロッカー以上の状態になる、コックピットからキャビンに入ると階段の左にチャートテーブルが有りいわゆるナビゲーションスペースで右側にはギャレーが有る。小さなカセットコンロと足踏ポンプで水を使う小さなシンクがある、隣に氷を入れて使う少し深いアイスボックスがある。すぐ横には食器やカトラリーを入れる戸棚と引き出しが幾つかある。コンパクトにまとまったレイアウトになっているので全て手の届く範囲で料理が出来るが航海中はよほど穏やかな時しか料理は出来ないのが現実で、コンロで湯を沸かしインスタントな食事やスープが揺れているヨットの上での食事になる事が多いい。時化ている時はそれこそカロリーメイトとバナナとパンとビタミン剤の様な時も有る。長時間航海する時は常温で保存のきく果物などをネット入れ吊るし消臭の役目を兼ねながら持ち込む事も有る。卵は意外と長持ちをする食料である。日本人にとって嬉しいのは美味しいレトルトパックのご飯である。これを湯を沸かし温める時一緒に温めれば良いのがカレーである。
昔「サンバード」という名艇が有った、あのS&Bのオーナーが所有していたヨットであるが、多くの食材がS&Bのレトルトだったとか。
ヨットのトイレはヘッドルームと呼ばれ便器はボールと呼び、海水を手動ポンプで汲み入れ使用後は海水で押し流し排水するのが通常である。但し港での使用は禁じられている。
最近のヨットはシャワートイレが電動で使えるようである。このヨットの時代ではシャワーは無いが、最近の35ftクラスではシャワーが使えるヨットもある。私の二代目のヨットもシャワートイレは無かったがシャワーは使えた。余談だが、揺れる狭いヘッドルームで丸いやや小さな便器に座り壁の手すりを握り、大小の排泄が出来る事が体調維持に重要な生活行動になる。
         
17時30分伊豆半島南端近くの伊豆下田港に入る。この港はかつて私も入港の経験がある港で、クルージングの重要な良港の一つである。
1854年あの黒船ペリー艦隊7隻が入港停泊し、同じ年プチャーチン率いるロシア艦隊も入港している。日本史上初めて開港した港でもある。港口から左に進むと突き当りに小さな浮桟橋通称サンバードポンツーンがある。名前の由来が先に述べたS&Bの「サンバード」である。管理している事務所に事前に係留の許可を得て出船の右舷付けで舫いを取る。
既に奥の桟橋に40ftクラスのモータークルーザーが泊まっていた。偶然にもそのボートも沖縄まで回航するとの事だった。英語が話せるクルーと外国人らしいオーナーが居てJと親しげに話していた。鋼鈑で出来た揺れるポンツーンを渡り陸に上がるとそこにはペリー上陸記念碑が有った。
同様の記念碑は那覇の泊港北側の外人墓地公園内にもあるが、上陸期日は沖縄の方が早い事はあまり知られていない。余談だがペリーは1853年5月当時の琉球にも交易の為に寄港しその後江戸幕府にも同様の条約を迫っている。最初は同年7月浦賀に入り翌年1854年には琉球を基地に浦賀に再入港し開港を迫り通商条約締結後開港された下田にも入った。その時外国に入港を許可された港のもう一つが函館である。歴史の言い伝えでは琉球も江戸も黒船の大砲の音で脅迫されたと記述されているが、実は時報の為の海軍の儀礼であった事の様だ。その後入港したその数か月後プチャーチン率いるロシアの船は、1854年の安政の大地震の津波に会い船を失い伊豆半島戸田漁港で当時の船造り職人との手で互いに言葉も通じない中、中型の帆船を僅か3か月で仕上げ「へた号」と名付けたのが日本史上初の西洋式帆船の建造であった。その後幕府は同型艇を数隻建造したとの事

偶然にも我々が入港した日は下田の黒船祭りで町はその真最中であった。銭湯に入り疲れを癒し向かいのカフェの庭先でビールを一杯至福の時間だった。
Yは回航中に良く寄港する所なので彼の案内で食堂に入り久しぶりにしっかりと食事をとった。21時から港で花火が揚がるとの事で、祭りで賑わっている通りを抜けて停泊しているヨットに向かった。ペリー上陸記念碑の近くには多くの花火見物客が集まっていた。海上自衛隊の制服を着ている幾人かの中に米国海軍の制服も散見する事が出来た。湾内にこだまする花火は見事でありしばらくはコックピットから音と花火を堪能した。幾らかの酒と祭りの余韻の中、狭いバースに潜り込み翌朝の出航に備えた。後ろのクルーザーは補機のエンジンを回し船内にはクーラーを利かせているようだった。羨望!
18日午前5時舫いを解き下田を離れる。港外には海上自衛艦一隻が錨泊していた。


曇天風速8メートル風向東寄り。下田から予定の三重県まではヨットにとって良好な港が無く一気に行く事になる。石廊崎を回り海上自衛隊の潜水艦が訓練すると言われている水深の深い駿河湾を横切り御前崎から遠州灘の岸沿い向け機帆走する。その駿河湾を通過中注意していた「ホンダワラ」がスクリュウに絡みスピードが落ちたので前進後進を何回か操作してみたが解ける様子もなく、船足を止め洋上に漂いナイフをもって切断すべくJが裸になってロープを片手に潜り何度かの試行の末、束になっていた「ホンダワラ」を切り離した。
その後も日中目視出来る限り塊となっている厄介な海藻を除けながら蛇行する羽目になる。
次第にうねりと風も出てきてこの船特有のローリングが大きい、静岡県「浜岡原子力発電所」の沖を通過、なるほど。東海沖大地震が起きたら騒がれている津波の被害を真面に受けそうな地形である。遠州灘を西に向かう事、凡そ130海里ワンオーバナイト。Jは船酔いしコックピトにバケツを置きながらのワッチであった

19日午前7時約26時間の行程で三重県志摩ヨットハーバーのゲストバースに左舷付けで舫う。昨夜は風速20ノットを越えうねりの中、久方ぶりの体力勝負の夜間ワッチだったが風向も良く潮に乗っていた。下田を出てから一人2時間のワッチとして休息は4時間このサイクルで24時間交代でのコックピットに出て操船と見張りをする。食事は各自適当に取る。もちろん入出港時や荒天時には休息中のクルーが加わる。時にはオールハンズもある。
日本最古のヨットハーバーのこの港もYの馴染みの港で途中ハーバーマスターにゲストバースの空き状況をスマホで問い合わせていた。洋上から電話が出来る事のなんと便利な事か。リアス式の五ケ所湾の奥にあるヨットハーバーとしては最良の条件の係留地である。3方を山で囲われ静穏性の高い海面に恵まれていて、国内で最初に出来たヨットクラブとも言われている。最近の携帯電話の使い勝手は実に良くなっている特に電波の届く範囲が沿岸から15キロ程沖合でも通じ様々な情報が入手できる。Jが予めインバーターによる100V電源を用意してあったので各自のスマホの充電が可能であった。文明の利器である。大いに活用する事を学んだ。最近のヨットはこれを使い電子レンジや湯沸し器、冷蔵庫等々も使える事が出来るようである。その為に容量の多いいバッテリーを乗せる事になるが便利さが優先する。この港に入った理由のもう一つに強力な前線通過で海象条件が非常に悪くなる事がネット情報で解っていたので安心できる所に避難する事の選択だった。
予定では那智勝浦港まで足を延ばしたい所だった。ニュースで知った事だがこの前線の大雨で屋久島の登山客の多くの遭難騒ぎや西日本各地で川の氾濫などが有ったようだ。
クラブハウスの一角にシャワーと洗濯ができる施設が有り、早速汗を流し溜まっている衣類の洗濯と乾燥をする。次第に雨風がひどく成るが湾内は波も立たないので風による横なぐりの雨が続いた。開放的なクラブハウスで自販機からビール買い雨のしのぐ庇の下で感慨にふける。Yと世間話をする。ヨット乗りの多くは何時か太平洋を横断したいとか思うが彼もそう思い横断した事がある様だがちっとも面白くない毎日変化の無い景色で同じような食事でという話や、ヨーロッパの海岸のクルージングの楽しい話などに花が咲いた。日本の沿岸は厳しい海象だが風景や季節、そして何より寄港地での食事など実に様々な体験が出来て素晴らしいとも語っていた。私も20代に本船で太平洋を航海した経験がある。ハワイ経由でサンフランシスコまでであった。当時叔父と妹がその町に居た事が渡米するきっかけであった。それに飛行機より安い事が重要である。確かに船尾に描かれる航跡以外何の変哲もない洋上は哲学的な思いを抱かせる事は有っても景色を楽しむような風光明媚の様な事は無かった。しかし、ゴールデンゲートの下を通過する時は大きな感動が有った。堀江健一が一人で太平洋を渡った事は確かに尊敬するに値すると思った。その後の評価は別だが
我々のヨットは大雨で左舷の一部から雨漏りが有り老艇の常と甘んじる事にする。 
21日。海象条件が当分悪いようなのでハーバーマスターの車を借りて伊勢神宮へ参拝する事にする。

Yは名古屋が地元なのでこの辺りの事情にも明るく一時間ほどのドライブで伊勢神宮に着いた。駐車場からYに参拝の儀礼を習いつつ幾つかの鳥居をくぐり皇大神宮前の階段迄凡そ40分玉砂利の参道を雨の中多くの参拝者に交じり、しきたり通りの参拝をした。何かしら神々しい気を感じつつ帰路お守りを二つ頂いた。期せずしてお伊勢参りが出来た事に何かしらの縁と感動を覚えた。参道で昼食を取り港に帰る。小雨。名物の伊勢うどんを食べ損ねたが又の機会にしよう。二度目は無いかもしれないが。
翌朝22日午前7時半多少雨は残っていたが回復傾向の海象なので出航する。五ケ所湾をゆっくりと湾口に出る途中、所々に養殖の筏を見る事が出来た。いつの日かこの港に自分の船を置きたいと思わせる様な環境のハーバーだった。14時頃熊野灘沖通過、雨はあがり晴天になった。海面は外洋特有の波と波長の長いうねりが有るがスプレーを被る事は無かった。日没後串本沖を通過、紀伊半島から紀伊水道に入る多くの商船が行き交う航路を横切る事になるしかも夜である。

ドッグハウス上に設置したラップトップの画面には「ニューペック」の電子海図が標示されているがやや明る過ぎるきらいがある。しかし、素晴らしいのは自動船舶識別装置(AIS)から発せられる商船の位置情報が画面に海図とともに表示されている事である。自船の全方位の本船の位置、距離、進行方向、スピード、船名が分かるマークが表示されているので、視界が悪くても周りの本船との関係が解り航海の安全に大いに役立つ事であった。この様な情報を得る事が出来ない以前は混んでいる航路を横切る時は全員で前後左右を見張り細心の注意をしたものである。夜間はセールをライトで照らし自艇の存在をアピールする事も有った。初めて長距離のレースに参加は本部のアクアポリスから大阪関西ヨットクラブまでの約700海里程のレースでこの紀伊水道を北上し友が島水道を越え神戸沖のKYC沖がフィニッシュ。その時この水道で夜間難儀な経験がある。
紀伊水道を横切り四国室戸岬近くは九州方面に向かう商船の航路が有り気を緩めることが出来ない。岬を通過すると土佐湾をやや弓なりに陸地側に進路を取る。Jの要望で土佐にいる旧知の友人に会いたいとの事で足摺岬まで寄港する事も無く向かう。洋上で予備のポリタンクから燃料タンクに補充する時は船尾の燃料注入口を開け通称「シュポシュポ」と呼ぶ手動ポンプで燃料のディーゼルをメインタンクに流し込む、出来るだけメインタンクはほぼ満杯にして置く。雨の時は特にタンクに雨水が入らない様注意する事は必然である。
足摺岬の東側下ノ加江川河口の港が友人宅の近くというが夜間遅くの入港になる上、河口で初めて港なのリスクを避け、翌朝半島の西の土佐清水港に入る事にする。土佐湾から足摺岬沖通過中穏やかな海に絵に描いた様な夜明けを見る事が出来た。何故かしら自らの過去の記憶にさかのぼり反省する事しきり。

23日午前6時土佐清水港、何年ぶりだろうか、すぐ隣の「あしずり港」には二昔ほど前に夜間入港した事が有るが土佐清水は40年ぶりか。かすかな記憶を呼び起こすが港内西側のセリ市場が広く立派になっていた事に気が付く。航路正面の広いスペースがある岸壁に舫う。以前より賑やかになった様な街並みに感じる。ガソリンスタンドが目標となった。Jの友人は半島の反対側から車で約一時間かけて朝早くにも拘らず駆けつけてくれた。その後朝食を戴くために少しドライブし「モーニングおにぎり」が有名な所に連れて行って頂いた。大きな海苔巻きのおにぎりと味噌汁であった。港に戻り近くのガソリンスタンドで燃料の補給を済ませ友人の見送りの中出航。豊後水道を西に向かうが紀伊水道の様に行き交う商船は少ない。弱い向かい風で波も静か、潮が有るのかスピードが出ない5Knot。明日は鹿児島内之浦を目指す。
突然、嫌な事が起きる。エンジンのオーバーヒートか?警報音がけたたましく鳴る。幸い海が静かなので漂いながらエンジンカバーを開け点検をするとインペラー付近から海水が漏れていた。停泊しないと整備できないのでエンジンを労わりながら回転数を下げゆっくりと日向灘沖を南下する。予定の鹿児島県内之浦港への寄港は叶いそうもないので、
5月24日午前7時。修理や部品調達の可能な宮崎県油津港に入る事とする。この港も以前入った事が有るが当時とはまるで変っていた。オーバーヒートしがちなエンジンを気遣いゆっくりと港内を巡るとヤンマーの看板が目に入ったこの船のエンジンは旧式だがヤンマー製である。その近くの岸壁には漁船が係留していたので迷惑のかからないように風除の金属製のネットのある桟橋に舫う。

早速エンジンカバーを開けインペラーハウジングを開ける、大きな損傷は見当たらない、冷却用海水が通過する経路に直角に曲がる外形状の径10ミリ程のパイプが有り開けてみると、其処には欠けたインペラーの一部が詰まっていた。これが冷却水の流れを妨げていた事は確かなようであった。それはなり以前の欠片である。引かかっていたそれを摘み出し、
元通りに組み上げ試運転。これでヨシ!船尾からの冷却水も十分に排出している。港内を試走すると再び警報が鳴る。戻って考えられる箇所を分解点検するも相変わらずヒートする。近くのヤンマー営業所に駆け込み見てもらう事にするが、漁の繁忙期でエンジニアが忙しく、かまって貰えそうにない。インペラーのハウジングからの水漏れが収まらないのでこの際このパーツをアッセンブリーごと注文する事にする。何だかんだで部品が来るまで一日以上待つ事になった。翌日部品キットが届きヤンマー指定業者の方が届けてくれた。早速交換し出港準備をし意気揚々と港外に向かう、巡航速度までエンジン回転を上げると再び警報音!三人とも顔を見合わせ「何故だ!・・・」仕方なく元の場所に戻る。
想定できる原因は海水直接冷却の為冷却回路に塩か石灰が詰まっている事しか考えられない。これ以上はエンジンを分解し整備するしか手立ては無い。
その時、まだこのヨットが千葉に有る時エンジンのオーバーホールをする様にJに指示すべきだったと悔やまれた。過去に私も同様な経験をしていたのにとおおいに反省す
整備に時間がかかる事を覚悟するとともに、これでは整備完了後沖縄までの回航予定期間が臨時航行検査の期間を過ぎてしまう事になり、改めて期間の延長を受けるための手続きをしに管轄のJCI(小型船舶検査機構)まで行く事にする。油津から事務所のある鹿児島市まで陸路往復一日がかりである。同時に修理して頂く業者の予定が1週間後ぐらいとの事になり。加えてJもYも月末からの予定が有り一時撤退をする事になった。その間港で知り合った漁師やパーツを届けてくれた業者の方などが親切に見守ってくれるとの事で安心してこの場を離れる事にする。

この時期油津港はキハダマグロの最盛期で毎朝明け方から多くの漁船がセリ場にマグロを降ろしている光景を見る事が出来たが、映像で見る築地ほどではないが活気ある場面を見分する事が出来た。この港には近くに銭湯が無く4キロ以上離れた国民宿舎の風呂までタクシーで行く事になった。足代が風呂代の何倍しただろうか。日曜日を挟み5月29日私は那覇までYは名古屋まで、翌30日Jは東京まで。オーナーであるJのスケジュールとYの都合で6月17日ここで再会する事にする。油津駅から宮崎駅までのJR九州日南線(単線)は列車に木の葉や竹の枝が窓をバサバサと撫でて行くようなローカルな路線であった。宮崎から私は高速バスで鹿児島空港そして那覇へ。
それぞれが帰郷し残されたヨットは、修理のプロと数人の友情に見守られる事となった。話はそれるがJは英国人らしく食事に対して拘りがなく栄養的に十分な食事であれば構わない所があるがYと私はせっかく港に来たのだから海の物やインスタントではない食事を、と思っているのだがJはあまり関心が無い様なので、何時からか港に着いての食事はJはキャビンで私とYは出来るだけ街の食堂でとなっていた。風呂も同様である。Jは冷水の水浴び私達は風呂であった。ある識者から聞いた話だが、ナポレオンがロシアを征服できなかった事の一つに何処までも食事のスタイルを変えなかった事も原因だったとか、英国が帆船時代世界を傘下に収めた事が出来た事の一つが食事に拘りが無かった事に有との事。Jの行動から頷ける。
          
6月17日那覇から空路宮崎そして日南線油津駅、タクシーで港まで、そこには既にJとYは出航の準備をしていた。昼間の内に整備状況の確認を済ませ食料燃料等の補給も済ませてあったのでバックをキャビンに収め手短にこれからの予定と海象状況のブリーフィングを交わし、舫いを解き油津港を離岸。6月17日22時静かな夜間出航である。援助してくれた油津の友人達には丁重な別れと後に幾らかのお礼の品を届けた。
翌明け方には大隅半島沖を通過。雲は厚く低いが波はさほど無く外洋性の波長の長いうねりの揺れが心地よく、体をコックピットの縁に預け航海していると云う感覚を抱かしてくれる。半島の南端に差し掛かる手前で種ケ島と屋久島の間に向けて南に向かう。黒潮に逆らうが快調なエンジンで気にならずに順調に進む

種ケ島は遠くに低く霞んで見えたが、屋久島は珍しく山頂の宮之浦岳まで見る事が出来た。良く晴れていた訳では無いが視界が良く近く、鹿児島との航路を水中翼船が見事なスピードで走り去っていった。この辺りまで来ると商船も少なく又6月になり、あの厄介な「ホンダワラ」の漂流も無く大方の時間をオートパイロット(自動操舵)に任せる事が出来た。
夜はさすがに水温も上がって来たせいか少し寝苦しい時もある。18日夕刻給油を兼ねて屋久島安房港に入る。この近海はこの時期飛魚漁の始まりの頃である。航海中も周りで波の上を飛行する飛魚を良く見かける様になる。時には何百メートルも飛ぶようである。港内は漁船が多くヨットにとっては多少居心地が悪い。厳しい岸壁しか舫う所が無かったが、漁師から挨拶代わりの飛魚3匹を頂いた。Jが慣れない手付きで捌き一部はソテーして夜食となった。前線通過も有り24時間以上停泊する羽目になった。
何時もの通り給油と買い出しと風呂を浴びて小雨の中グタグタと過ごし、雨が少し残っているが19日夕刻17時舫いを解いた。
      
これから先は黒潮本流を横切り吐噶喇列島を南下し奄美大島まで寄港せず往く事になる。
口之島・中之島・諏訪瀬島・悪石島・子宝島・宝島・横当島が主な島で別名「七島灘」とも言われる難所である。行政的には十島村とされていて各島を巡り名瀬と鹿児島を往復している貨客船は「十島丸」という船名だ。
琉球が薩摩傀儡時代には琉球に事ある毎に薩摩に報告の為に使った帆船を「綾船」「紋船」と呼ぶ官船が行き来していたが度々の遭難も有った。「紋船」とは当時の琉球王の家紋、左三つ巴の旗を掲げていた所からその呼び名と伝えられている。
これまでの携帯の電波事情は紀伊水道の中間と豊後水道の中間で電波が途切れたが、これから先は島の近くに寄らないと電波が繋がらなくなる。同時に情報も入らなくなる事であり。「ニューペック」はGPSが情報源であるので自船の位置は正確に表示している。何度もこの海域を通るが穏やかな時があった事が無い独特の海面である。うねりに潮波が加わり、加えてローリングの強い船型が疲れを呼ぶ。オートパイロットも使えない。二時間のワッチが長く感じる時もある。荒波と驟雨の夜間に島々を通過し宝島付近で夜が明ける。

ほぼ真南に向かい奄美大島沿岸から大島の南の古仁屋港に寄港すべく奄美瀬戸の海峡に日没後入る。
海峡入り口の灯台がやけに眩しい。海峡に入ると途端に波も穏やかに成り複雑に入り組んだ加計呂麻島と奄美大島との間のこの海峡は戦時中「大和」や「武蔵」が通ったとか?人家の少ない沿岸は暗く月明りも無く黒い島影とGPSを頼りにゆっくりと海峡の中心を古仁屋港に向かった。暫くすると遠くに明るい市街地の街灯と港の明かりが見えて来た。無風で静かな鏡の様な海面に映るその明かりは、見事な写真の様であった。
    
Yは度々この港に寄港していて勝手がわかる様で市街地に架かる橋を目指した。すると突然欄干のイルミネーションが消えた。21日深夜24時を知らせてくれた。その橋の手前を左に曲がるとそこは立派なビジターバースであった。街明かりを頼りに左舷付けで舫う。先客が一艇奥に出船で停泊していた。係留作業が落ち着いた後、上陸し近くのコンビニに向かい、冷えたビールを買い入れ乾杯。就寝。

翌22日朝雨、沖縄との間に前線が停滞、雨の中しばらくは留まる事になる。
ビジターバースの南側には芝生の広場と近くに水道も有りトイレも完備されていた。水道が近くに有るのはクルージングや回航中のヨットやボートにとって便利な施設である。町営のバースであり、一回の停泊料は近くの「海の駅」の事務所に500円だけである。名目は水道料との事。素晴らしい!沖縄も見習わなければ!翌日、雨の中歩傘をさし近くの銭湯に行く、Jは近くの水道を使う、銭湯の中は時代を感じる湯船で所々タイルが落ちていて蛇口も使えないのが有る。昭和以前の雰囲気である、番台の女子も又しかり。でもこの様な回航で一番の楽しみは風呂と、食事である。寄る所は港であるので漁師料理や海の物が食できるのが普通であるが、時には小さな漁港では外からの客の為の食堂の無い港もある。
瀬戸内町はそれなりの町であるので食べる所には事欠かない。Yは何度も来ているのでスマホにその情報も入っていた。ところがその日は大雨で目当ての店が閉まっていた。コンビニでツマミとなる幾つかのパックを持ち帰りキャビンで酒と共に食す事とする。
翌昼間、やまない雨の中「海の駅」の2階の食堂にビールを飲み行く加計呂麻島との間を小さなフェリーが一時間毎に往復している。意外と多くの乗船客がいる事に驚いた。街の広報スピーカーが大雨で林道の山崩れが有り通行止めが発生していると報じていた。近くの酒店で貴重な焼酎「ルリカケス」を見つけ土産とする。奄美の天然記念物の鳥名がラベルに成っている

左舷の雨漏りが止まらず寝袋の一部が濡れているようだ。私の寝る右舷側の雨漏りは無い。奥に停泊している英国製の小さなヨット、25ftの「くろしお丸」からお茶の招待が有り伺った。神奈川からの夫婦二人のクルージングで沖縄まで行くとの事で初めての航路なので色々と情報が有ればとの事であった。そのキャビンは狭いながら良くアレンジされて航海に必要な生活用具が使いやすそうに工夫されていた。事前に宜野湾マリーナに入港する事は連絡済みで、母港は横浜ベイサイドマリーナとの事。このマリーナは沖縄国体時に指導頂いた当時の日本ヨット協会の役員も関係しているマリーナでかつて貯木場だったスペースをマリーナとして開発したとの事だ。停泊二日目にカタマランが入って来た。なんとそれはYが油津から帰った後すぐ長崎から石垣まで回航したカタマランで。石垣で遊んだ後オーナーと友人五人で長崎に帰る途中であった。Yはすぐ再会の挨拶に向かった。ヨット界は広いようで狭いのである。二回目の銭湯後、前日休みの店の前を通ると開いていたのでYと二人奥のカウンターに座る。入口付近の席にはそのカタマランメンバーが食事をしていた。ヨット仲間が寄港時に良く使う店の様だ。メニューには沖縄的なメニューが幾つかありママに聞くと同じだという。「ツケアギ」と「チキアギ」の様なニュアンスで琉球の影響が有った事を感じた。翌朝早くカタマランは北に向けて出港した。我々はもう一泊し23日17時多少前線の影響が残っているが回復傾向なので南下する事に決し出港。曇天東寄りの風の中、奄美瀬戸の海峡を太平洋側に出る。



その後南下し徳之島・沖永良部島の東・与論島の西を抜け沖縄本島の西、辺戸岬と伊平屋島の間を通り伊江水道に向かう。24日与論島付近で夜明け曇天視界悪し小雨。本島国頭村奥間の沖から雨は上るが雲は厚い。本部半島北側の今帰仁沖まで来るとJの別荘が有りその沖合をリーフ沿いに走り彼は知人に電話をして沖にいる事を知らせた。備瀬崎を回り伊江水道を通過中に本部半島を眺めるとそこにはかつての風景は無くリーゾート地として開発されたホテルが散立していた。数年後再び海洋博後の惨事を経験するかと案じながら水納島との間を通過、すると本部半島南側の山肌がまるで噴火の跡の様に大きくえぐられている光景が目に入った。辺野古への埋め立て石材を採取している様だ。近くには砂利運搬船が数隻沖待ちしている。戦後沖縄の復旧の為にセメント用石材として採掘が始まった山が大きくその容貌を変え山の体積は辺野古に埋められようとしていた。はたしてどの範囲まで採掘権が有るのだろうか、嘉津宇岳も無くなるのだろうか暗い思いで変わりゆく東海岸を眺めながら見通しの良くなってきた読谷村残波岬を視認する。波も穏やかで船足も良く順調に行けば日没前に宜野湾港マリーナに入港できる可能性が出て来た。ここ読谷村南側でも色々なホテルの計画が有ると聞いている。どうなる事やら。
         
奄美を過ぎると何かしら自分の馴染みのテリトリーに入ったような気がする。匂いや肌に感じる空気か湿気か?遠くに山立てに使う牧港の発電所の煙突が見える。一年前までは二本の煙突であったが古い方の煙突は解体されて今は一本になっているが、いい目標である事には変わりない。南西方向の遠くに慶良間諸島のシェルエットが浮かんでいる。ヨットに乗る様になって何年が経ったのだろうか、一抹の感慨をもって数年ぶりかの長い航海を終えようとしている。航路入り口の二番赤ブイの手前を通過し、

かよいなれた宜野湾港マリーナのゲストバースに左舷を付けると新任の友人でもあるハーバーマスターが舫いを取ってくれた名誉な事である。日没の夕焼け空が祝福してくれる様だった。湿気を含んだ空気と薄くなってきた雲に映る今沈まんとする太陽の奏でる夕焼けはマリーナの風景をシェルエットにして水面に写る景色はしばし見惚れる程であった。コックピットで密かに積んであったイエローラベルのシャンペンを開けコップで祝杯をあげた。思えば銚子に行く前に波の上宮で航海安全のお札を戴き、伊勢神宮では国家安泰を願い無事航海を果たした事と義弟Jとの約束を果たせた事に安心しその夜はゆっくりと揺れないバースで眠った。翌日Yと共に波の上宮にお札を返しに行き航海安全の始末をつけた。全行程1000海里余雨風にたたられた日も多かったが、老艇と古希をとうに過ぎた老体を労わりながらの回航であった。
   
ここに忘備録として記す 2019年8月吉日     柳生徹夫

PS その後「くろしお丸」は無事宜野湾港マリーナに入港した。



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Posted by 鉄瓶・錆び鉄 at 23:50│Comments(1)ヨットと帆船と私
この記事へのコメント
楽しく 読ませて 頂きました。
私どもも、5月連休前から、7月初旬まで、新門司マリーナから宜野湾マリーナまで、座間味レース参加の為回航しました。行きは往年の名艇バルチック35で、帰りも名艇?ヤマハ31フェスタで、行き帰りも天候に恵まれず、梅雨前線の雨で南国の島を感じることが出来ませんでした。
40年前半自作の26fで奄美、古仁屋まで、7年前は台湾ー宮古レース参加の為に30fで台湾まで、そして今回、又懐かしい島々をまた見ることが出来ました。
現在は下関市室津で23.5fで近場のレース、クルーズを楽しんでます。
ちなみにこの23,5は電動ウオシュレット、シャワーを取り付けました。クルーズにはトイレと風呂に苦労します。

懐かしいので筆?を取らせて頂きました。
Posted by プカリ 新田 at 2019年08月13日 10:16
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