2020年02月19日
カタマラン「ミニー」パラオレースに向けて回航記
カタマランヨット「ミニー」回航乗船記・宜野湾マリーナ~横浜ベイブリッジマリーナ
2019年11月末~12月初旬
それは一本の電話から始まった。旧友の渡真利氏の声である。
型通りの季節の挨拶の後「回航を手伝って欲しいのだが時間は有るか」の要旨であった。
来たか!と云うような予感が有った、それは年の初めに「日本パラオ親善ヨットレース」の概要が発表された時、私は暫く国内で実施されていない長距離レースに加え行き先がパラオである事に一種の懐かしさを感じたのである。
私幼少時代から父の自慢話で練習船「海王丸」で航海した時の話を聞かされていた。ポナペ・パラオ等の様子や航海記念のアルバムを開きその中の写真を指しながら前近代的な島の様子や民族衣装の話をしていた。又、沖繩とも日本統治時代から盛んな交流が有り漁法の指導や島に移り住み住民との交流が有った事が今でも続いている。
加えてその、渡真利氏は以前より宮古の冬のダイビング閑散期にパラオに渡り全国からダイビング客を招きパラオの海の素晴らしさを伝え、現地のダイビング業界に刺激を与えていた事を知っていたからである。それとなくエントリーするのでは無いかと思っていて彼のFBを覗いていた所、参加する為の安全講習を受けてきた記述があった。出るな!と思っていて、それから暫く経ってからの電話だったのである。
11月26日・何回かの打ち合わせで宮古を発って宜野湾マリーナに寄るのでそこで乗ることに成った。同時にもう一人のメンバー宮沢氏も東京から那覇に来て同乗する事になっていた。その夜、家人も一緒に宮古から乗って来たパラオからの「ルル」君と24NORTH職員「栞」チャンと渡真利氏と共通のヨット仲間の伊良波夫妻とで近くの居酒屋で食事と親睦とこれからの航海の元気付けをし、キャビンに戻り、更に一杯飲み交わし夫々のバースの寝床に就いた。左舷のVバースが割り与えられた。両舷にヘッドとシャワーが有る。更に左舷のヘッドはシャワートイレである。見事!
翌11月27日朝から近くのスーパーで当面の食料の買い出し燃料補給をすませ、10時頃出港、季節の割にはさほど寒くない。順調に本部半島から水納島の水道を目指す。すると左舷のエンジンが不調をきたし、水納島を交わした所で機関を止め、修理のため本部港を目指す、艇長はエンジンの有るバース下を開け、エンジンのチエックに入り込む。片肺でゆっくりと本部大橋をくぐり旧本部港に接岸すべく進んでいる時、エンジンは復調。すぐさま元来た方向に向かい、伊江水道を抜ける。夕闇が迫る頃再びエンジン停止。度重なる機関の不調に、戻るか進むかの決断を迫られる中とりあえず古宇利島から運天港を目指しゆっくりと片肺で進む。私はこの港に何回か入港した経験があり日が暮れていたが航路ブイもありラットを取った。艇長は再度エンジンルームに入りルル君と再起動に労を取っていた。何度かの始動で機関は動き出し再び辺戸岬を目指す。すっかり夜になり、一騒動も落ち着き栞チャンが夜食の準備をする。調子の悪いエンジンをいたわり回転数を1200回転ほどで使うことにする。挺速6~7ノットでカタマラン特有の揺れ方の中メインキャビンのテーブルでまるで停泊中かの様な安定して食事が出来た事に驚きを感じた。不調の原因は燃料フィルターのようだ。オートパイロットに舵を任せ辺戸岬・与論島・沖永良部島・徳之島と進む。太平洋側を艇長以下五人の乗員で3組のワッチを組む。私とルル、宮沢さんと栞チャン、渡真利艇長は一人で、一組二時間のワッチである。20時から始めることとする。一組の睡眠時間は四時間。与論島を過ぎる頃から外洋性のウネリと北東の季節風が冬らしい波をくれるがいとも易く波を超えトップまで張ったメインに70%ほどのジブで軽快に機帆走をする。挺速7~8ノット。最近の航海計器はもちろんGPSを使うのだがラップトップに海図を入れ自挺の位置と対地スピードが表示され。ヘディングのラインが海図上に表示されることで安心度も高く使い勝手が良い。このカタマランにはスピードセンサーが無かったので対水スピードは経験と勘に頼ることに成る。一日三食しっかりと栞シェフが料理を提供してくれる。夜食はワイン、泡盛、ビール等お酒も豊富に出てくる。素晴らしい!過去この様な食事でレースや回航に乗った事は無い、初めての経験となる。
28日・夜間次第に風波高まりほぼクローズドリーチ気味の中、奄美大島の古仁屋港のある早朝奄美瀬戸東側から入る。オールオハンズでさほど広くない大島と加計呂麻との海峡をタッキングで古仁屋港に向かう。海峡は波も無くタッキングのトレーニングにはもってこいの海面であった。数回のタックで古仁屋港が視認できる位置でセールを下ろしジブを巻き全員ライフジャケットを装着、保安庁対策である。私にとって今年二度目の寄港である。鹿児島~奄美~沖繩との航路を行き来するフェリーが接岸する裏に瀬戸内町が設けたビジターバースが有る。
町の中央を流れる河口にかかっている橋の西側のたもとに有り、船のサイズにも拠るが3隻ほどの船が係留できる。水の補給と燃料の補給、食料、お風呂、飲食店等々歩いて行けるバースで外洋が時化ている時は一時避難するには良いポイントである。そばには公園と公衆トイレも有る。我々も夜からの前線通過を過ごす為に結局二泊する事に成った。舫いを取りデッキを水で洗い補給し、ルル君はすぐ近くのコンビニ店の横でフリーWi-Fiを使い東京に来ている奥さんと携帯で話に行った。艇長は不調なエンジンと不安定な電気周りを点検する。横浜到着時に整備する部品調達の手配など宮沢氏と共に連絡を取った。
一息ついた所で歩いて銭湯に向かう「嶽乃湯」である。良き時代の銭湯の佇まいで敷かれているタイルは年季が有りかなりの部分が剥げ落ちている。幾つかの蛇口も使えない。前回来た時は老いた婦人が番台に座っていたが今日は聞く所によると施設に入っていて風呂屋の道向かいの家に代理のオジサンが番台宜しく入浴料を徴収に来る。あと何年風呂に入れるのだろうか。
シャワーは付いているが、回航の楽しみの一つがこの様な銭湯である。ルル君はまだ銭湯が苦手の様で船のシャワーを使った。
キャビンの食事は発電機を回し炊飯器で米を炊きガスコンロも使え普通の家庭料理を食する事が出来た。冷蔵庫からワインを取り出しコンビニから氷を入手しての晩餐である。
沖縄近海でトローリング中に釣ったシイラ(万引き)は冬が美味しい旬である。艇長の見事な捌きで冷蔵庫に寝かせてあったのを刺身にして食した。美味!
翌朝、見事な虹が大きな弧を描いていた。食後コインランドリーにシャツや毛布を洗濯しに行く。近くのスタンドに軽油を頼むと係留場所まで小型のローリーで来てくれた、船のタンクを満杯にし、予備のポリ缶6缶に全て満タンにする。近くに道の駅があり二階の事務所にバース利用の連絡と係留料を支払いに行く。なんと水道代として五百円ぽっきりである。中にある二階のレストランで昼食をとる。窓から加計呂麻島に行き来するフェリーの発着港を望む事が出来る。波を被った私のバースはハッチから海水が漏れるのでコーキングをする。日中は細々としたメンテナンスに暮れ夕方銭湯に行きキャビンで食事。翌朝、前線も移動し外は多少荒れているが、足を延ばす事にして朝11時出航。入って来た海峡を出る。波高2m風18knot以上真上りタックを繰り返し奄美空港北にある宇宿漁港を目指す。直線で約30海里タックを繰り返すので実測は30%以上の航程である。何回かのタック時にバテンが一本ポケットから抜け海に落ちてしまった。タックの時にセールに掛かるストレスは大きな力である。初めての港なので夜間入港は避けたい。空港沖を進み港入り口の浮標が見えた。冬の日の入りは早い16時頃から薄暗くなってくる。風と波の悪い狭い航路を艇長も慎重にセールを降ろしたカタマランを操縦する。港内は奥に数隻の漁船が停泊している。港内を回り停泊場所を探す。狭い場所にまあまあの係留場所を見つけ一晩の厄介になる事とする。早速メインをチェックフルバテンのリーチ側の留め具に異常が有りそこから抜けたようだ。応急処置として一番下のバテンを切って短くし抜けたポケットに入れて留め具を補強した。以後ワンポの状態でメインを展開する事になる。港には事務所も無く了解を得る手段も無いので取りあえず停泊、多分空港建設の為に造られた港なのだろう。日も暮れて少し波で揺れる中、普段通りの夜食を取り、酒を嗜んで床に就く。隣の飛行場に発着するジェットの音が聞こえるが耳を塞ぐ程ではない。
翌朝、食事を済ませて舫いを解き港を出る。東の雲の下に喜界島が平たく霞んでいる。琉球王朝時代は奄美大島よりこの島の方が江戸上りにも重要な島であった。
次第に海は治まって来た。吐噶喇列島を一気に通過し屋久島か種ケ島に向かう事とする。
航程130~160海里相変わらずエンジンは片肺であるが風向が良く機帆走で7~8knot以上。時にはエンジンを止める事も有る。多少潮に乗っているらしい。列島から東に離れた沖を通過する為に携帯が通じない。
規則的なワッチを繰り返しトラブルもなくカタマラン特有の揺れの中夜明けには屋久島を望む位置に来た、明るくなってルル君がトローリングロットを出す。小一時間ほどした所で大きな当たりが来た。ルル君が大きな声で叫び見ると大物の様子、艇速を落とし釣り上げるのを助ける、見事なキハダマグロが上がった、素早く締め艇長の相変わらずの包丁さばきで三枚に下ろし冷蔵庫に入れる。その後も種ケ島西之表港までの間でカツオ3尾、シイラ等を釣る。奄美で新しい包丁を購入した事が生きている。
種・屋久との間は丁度屋久島の風下となり穏やかな海面であった。左方向に話題の馬毛島その遠方に硫黄島がかすかに見え噴煙を望む事が出来た。日もすっかり上がり西之表港の一文字防波堤がはっきりと見える。一文字の途中に堤防の切れ目が有りそこから港に入った。旧港のある奥に艇を進める。
種ケ島漁港のセリ場のあるこじんまりとした漁港の奥に丁度いい岸壁が有りそこに舫う事にする。月も変わり12月1日午前接岸。ここは奈良時代から遣唐使船等も寄港する歴史のある港で「赤尾木港」と云う良港であった。私が初めて「マリリン」(ピーターソン33)で長距離のレース「沖縄~西宮」に参加し、その帰りに寄ったかすかな記憶が有った港だった。あれから40年近くもなろうか?
港は冬の風下で静かである。目の前にスタンドもホテルの銭湯もある。おまけに漁港にはセリ市場は朝8時から市が開き、私達はセリ落とした仲買人から目ぼしい魚と朝日蟹を買い付け豪華な食事となった。前線通過を待つ空いた一日はレンタカーを借りロケット発射場や島内観光を楽しんだ。帰ってくると28ftクラスのヨットが後ろに舫った。降りて来た3人の中に知人が二人も居た、ヨット界は狭い!一人は宜野湾マリーナの指定管理者の田畑氏でもう一人は回航屋の成田氏であった。成田氏は6月の千葉からの回航時に油津港で一時預かってもらった時にお世話になった方だった。オーナーも同乗していたが名前は失念している。明けて4日朝早く後ろのヨットはオーナーと田畑氏を残し回航屋さん成田氏一人で宜野湾に向かっていった。我々も買い出しと燃料補給を済ませ一路串本へと舫いを解いた。
今回の回航で最も長い航程である。ほぼ300海里2昼夜を要する。このコースは、黒潮の連潮だが冬季は波も悪くヨットに取って楽しくない条件である。案の定時化た波に叩かれ、奄美で補修したハッチからまだ漏れてくる。寝床の毛布が湿気てくる。豊後水道を横切り
土佐湾沖を通過し、遠くに室戸岬灯台を確認。深夜紀伊水道を横切る。夜間航海で尚、航路を横切る事は緊張を要する。大阪や瀬戸内に向かう本船や関西、瀬戸内から関東方面に向かう本船がまるで列車の如く連なっている様に赤と緑の航海灯が見える。潮岬灯台が視認出来てきた時、私とルルのワッチであった、オーパイで機帆走中であったがコースを変更する必要がありジブを巻き尚前方の視界を広げる必要もあり機帆走中ながらジブの巻取りにトラブルを起こし前方不注意となった。突然ルルが叫んだ、目の前の行き会い船とかなり接近した状況だった。エンジン音が聞こえる近さで左舷を通過していった。ルルの大声でワッチオフの皆が起きて来た。状況を説明し、艇長より必要な時はオールハンズでと注意を受けた。大いに反省!ワッチの大切さを改めて噛み締める事になる。岬と大島の間に架かる「くしもと大橋」をくぐる事になるが桁下の高さがググっても出てこない為、慎重に艇長の操船で進める。サーチライトで照らすと
21mとの表示が見えた。ゆっくりと通り抜けると前方に街の明かり、串本港に入港。
6日午前4時、接岸場所は以前係留した事も有るガソリンスタンドの傍である。落ち着いた所でしばしの休息を取る。ルル君の声で向かった所はカタマラン特有の双胴の船首の間のネットである。二昼夜の荒れた海での航海中のピッチングで波をすくったらしくネットの一部留金と船体を結んでいる紐が切れていたのである。夜間バウで作業する時足を踏み外さなくて良かったと思った。早速補修をした。日中、艇長は航海中気になった個所の点検とメンテ。突然「渡真利さん」の声、神奈川在住の知人で水中写真家の方が寄港を知り、用事のついでに訪問して来た。顔の広い方である。夕方からコインランドリーと銭湯と居酒屋で食事。
翌日7日朝食を済ませ給油し離岸、前日港外に「日本丸」と思われる練習帆船が錨泊していたが既に出航していた。曇天の寒い中を景勝地の「橋杭岩」を左に望み伊豆半島を目指すが、海象状況の悪化が予想され那智勝浦港に寄港する事とする。日没前太地湾北側の航路ブイに従い勝浦港に向かう日没、狭い航路を通過する時右舷側に有名なホテル浦島が輝いていた。友人から聞いていた奥の停泊地は一杯の様なので手前の小舟溜りに接岸一夜を明かす。
翌8日早朝波も治まり水路を抜けて取りあえず尺取虫宜しく一寸でも東へと帆を進める。
再び天候の悪化が予想され、志摩の五ケ所湾奥にある志摩ヨットハーバーに寄る事にする。洋上から友人に電話でその旨を連絡し営業時間外になるかも知れないがビジターで泊める事が出来るか聞いてもらった、OKが出たので8日夕刻ポンツーンの端の方に泊めさせてもらった。私にとって六ヵ月ぶりの二回目の寄港である。隣にあの「ヒンクリー」が停泊していた。その美しさに見とれてしまった。穏やかな夜を二晩過ごし10日7時一路横浜に向けて最後のレグ、凡そ230海里余の航程である。遠州灘を夜間通過し、御前崎、石廊崎、神子元島沖と深夜下田沖を通過し東京方面に向かう何隻かの本船に出会うが横切る針路ではないので追い越されたり、追い抜かれたりである。ここまでの間オーパイは機嫌が悪く時にはマニアルでラットを握るワッチの時もあった。大島を右手に見て相模湾を通過、東京湾に向かい浦賀水道に入る。夜明け城ケ島沖を通過し映画のモデルにも成ったと言う劒崎灯台を通過し久里浜沖、観音崎通過、横須賀沖の猿島を通過。横須賀は25年ほど前に石垣で台風時にマストを無くしたホテルのカタマランを3人でここ迄回航して以来の港である。11日午前10時30分横浜ベイサイドマリーナのゲストバースに接岸する。
既にパラオレースに参加するヨットが2艇着いていた。マリーナの近くに沖縄国体時に大変お世話になった貝道さんの会社が有りご無沙汰を詫びながら挨拶に行く。なんと今回のパラオレースの役員をされているし、神奈川セーリング連盟の役員としていまだ現役でした。
午後レースに同乗する伊藤氏が来艇等何人かの訪問を受けながら艇内の整理やレースの為の準備、掃除等々雑務をし、その夜渡真利艇長の友人達と川崎に居酒屋でそろって会食。
友人の方々は皆さん宮古でのダイビングを通じての古くからのお客様であった。
私はその後13日横浜の友人夫婦のレストラン「アルティザン」に行き楽しい食事の後、地下にあるオーセンテイックなバーで二次会、懐かしい那覇での模合の話などを語り合った。
回航中に改めて渡真利将博という海人の人物を知らされた。ヨットを通じての友人であるがダイビングのプロであり宮古島のこの業界の先駆者でもある。島の殆どのダイビングポイントの開発をし、同時にパラオのダイビング界にも一石を投じている。ヨットレースにおいてもダブルハンドレースやカタマランによるキングスカップ優勝等々を通じ洋上での様々なトラブルへの対応。長きにわたる多くの経験がこの回航にも発揮されていて我が身を知った。
11月26日から12月12迄の思い出深いおよそ1000海里のカタマラン「ミニー」の回航記録である。
2019年11月末~12月初旬
それは一本の電話から始まった。旧友の渡真利氏の声である。
型通りの季節の挨拶の後「回航を手伝って欲しいのだが時間は有るか」の要旨であった。
来たか!と云うような予感が有った、それは年の初めに「日本パラオ親善ヨットレース」の概要が発表された時、私は暫く国内で実施されていない長距離レースに加え行き先がパラオである事に一種の懐かしさを感じたのである。
私幼少時代から父の自慢話で練習船「海王丸」で航海した時の話を聞かされていた。ポナペ・パラオ等の様子や航海記念のアルバムを開きその中の写真を指しながら前近代的な島の様子や民族衣装の話をしていた。又、沖繩とも日本統治時代から盛んな交流が有り漁法の指導や島に移り住み住民との交流が有った事が今でも続いている。
加えてその、渡真利氏は以前より宮古の冬のダイビング閑散期にパラオに渡り全国からダイビング客を招きパラオの海の素晴らしさを伝え、現地のダイビング業界に刺激を与えていた事を知っていたからである。それとなくエントリーするのでは無いかと思っていて彼のFBを覗いていた所、参加する為の安全講習を受けてきた記述があった。出るな!と思っていて、それから暫く経ってからの電話だったのである。
11月26日・何回かの打ち合わせで宮古を発って宜野湾マリーナに寄るのでそこで乗ることに成った。同時にもう一人のメンバー宮沢氏も東京から那覇に来て同乗する事になっていた。その夜、家人も一緒に宮古から乗って来たパラオからの「ルル」君と24NORTH職員「栞」チャンと渡真利氏と共通のヨット仲間の伊良波夫妻とで近くの居酒屋で食事と親睦とこれからの航海の元気付けをし、キャビンに戻り、更に一杯飲み交わし夫々のバースの寝床に就いた。左舷のVバースが割り与えられた。両舷にヘッドとシャワーが有る。更に左舷のヘッドはシャワートイレである。見事!
翌11月27日朝から近くのスーパーで当面の食料の買い出し燃料補給をすませ、10時頃出港、季節の割にはさほど寒くない。順調に本部半島から水納島の水道を目指す。すると左舷のエンジンが不調をきたし、水納島を交わした所で機関を止め、修理のため本部港を目指す、艇長はエンジンの有るバース下を開け、エンジンのチエックに入り込む。片肺でゆっくりと本部大橋をくぐり旧本部港に接岸すべく進んでいる時、エンジンは復調。すぐさま元来た方向に向かい、伊江水道を抜ける。夕闇が迫る頃再びエンジン停止。度重なる機関の不調に、戻るか進むかの決断を迫られる中とりあえず古宇利島から運天港を目指しゆっくりと片肺で進む。私はこの港に何回か入港した経験があり日が暮れていたが航路ブイもありラットを取った。艇長は再度エンジンルームに入りルル君と再起動に労を取っていた。何度かの始動で機関は動き出し再び辺戸岬を目指す。すっかり夜になり、一騒動も落ち着き栞チャンが夜食の準備をする。調子の悪いエンジンをいたわり回転数を1200回転ほどで使うことにする。挺速6~7ノットでカタマラン特有の揺れ方の中メインキャビンのテーブルでまるで停泊中かの様な安定して食事が出来た事に驚きを感じた。不調の原因は燃料フィルターのようだ。オートパイロットに舵を任せ辺戸岬・与論島・沖永良部島・徳之島と進む。太平洋側を艇長以下五人の乗員で3組のワッチを組む。私とルル、宮沢さんと栞チャン、渡真利艇長は一人で、一組二時間のワッチである。20時から始めることとする。一組の睡眠時間は四時間。与論島を過ぎる頃から外洋性のウネリと北東の季節風が冬らしい波をくれるがいとも易く波を超えトップまで張ったメインに70%ほどのジブで軽快に機帆走をする。挺速7~8ノット。最近の航海計器はもちろんGPSを使うのだがラップトップに海図を入れ自挺の位置と対地スピードが表示され。ヘディングのラインが海図上に表示されることで安心度も高く使い勝手が良い。このカタマランにはスピードセンサーが無かったので対水スピードは経験と勘に頼ることに成る。一日三食しっかりと栞シェフが料理を提供してくれる。夜食はワイン、泡盛、ビール等お酒も豊富に出てくる。素晴らしい!過去この様な食事でレースや回航に乗った事は無い、初めての経験となる。
28日・夜間次第に風波高まりほぼクローズドリーチ気味の中、奄美大島の古仁屋港のある早朝奄美瀬戸東側から入る。オールオハンズでさほど広くない大島と加計呂麻との海峡をタッキングで古仁屋港に向かう。海峡は波も無くタッキングのトレーニングにはもってこいの海面であった。数回のタックで古仁屋港が視認できる位置でセールを下ろしジブを巻き全員ライフジャケットを装着、保安庁対策である。私にとって今年二度目の寄港である。鹿児島~奄美~沖繩との航路を行き来するフェリーが接岸する裏に瀬戸内町が設けたビジターバースが有る。
町の中央を流れる河口にかかっている橋の西側のたもとに有り、船のサイズにも拠るが3隻ほどの船が係留できる。水の補給と燃料の補給、食料、お風呂、飲食店等々歩いて行けるバースで外洋が時化ている時は一時避難するには良いポイントである。そばには公園と公衆トイレも有る。我々も夜からの前線通過を過ごす為に結局二泊する事に成った。舫いを取りデッキを水で洗い補給し、ルル君はすぐ近くのコンビニ店の横でフリーWi-Fiを使い東京に来ている奥さんと携帯で話に行った。艇長は不調なエンジンと不安定な電気周りを点検する。横浜到着時に整備する部品調達の手配など宮沢氏と共に連絡を取った。
一息ついた所で歩いて銭湯に向かう「嶽乃湯」である。良き時代の銭湯の佇まいで敷かれているタイルは年季が有りかなりの部分が剥げ落ちている。幾つかの蛇口も使えない。前回来た時は老いた婦人が番台に座っていたが今日は聞く所によると施設に入っていて風呂屋の道向かいの家に代理のオジサンが番台宜しく入浴料を徴収に来る。あと何年風呂に入れるのだろうか。
シャワーは付いているが、回航の楽しみの一つがこの様な銭湯である。ルル君はまだ銭湯が苦手の様で船のシャワーを使った。
キャビンの食事は発電機を回し炊飯器で米を炊きガスコンロも使え普通の家庭料理を食する事が出来た。冷蔵庫からワインを取り出しコンビニから氷を入手しての晩餐である。
沖縄近海でトローリング中に釣ったシイラ(万引き)は冬が美味しい旬である。艇長の見事な捌きで冷蔵庫に寝かせてあったのを刺身にして食した。美味!
翌朝、見事な虹が大きな弧を描いていた。食後コインランドリーにシャツや毛布を洗濯しに行く。近くのスタンドに軽油を頼むと係留場所まで小型のローリーで来てくれた、船のタンクを満杯にし、予備のポリ缶6缶に全て満タンにする。近くに道の駅があり二階の事務所にバース利用の連絡と係留料を支払いに行く。なんと水道代として五百円ぽっきりである。中にある二階のレストランで昼食をとる。窓から加計呂麻島に行き来するフェリーの発着港を望む事が出来る。波を被った私のバースはハッチから海水が漏れるのでコーキングをする。日中は細々としたメンテナンスに暮れ夕方銭湯に行きキャビンで食事。翌朝、前線も移動し外は多少荒れているが、足を延ばす事にして朝11時出航。入って来た海峡を出る。波高2m風18knot以上真上りタックを繰り返し奄美空港北にある宇宿漁港を目指す。直線で約30海里タックを繰り返すので実測は30%以上の航程である。何回かのタック時にバテンが一本ポケットから抜け海に落ちてしまった。タックの時にセールに掛かるストレスは大きな力である。初めての港なので夜間入港は避けたい。空港沖を進み港入り口の浮標が見えた。冬の日の入りは早い16時頃から薄暗くなってくる。風と波の悪い狭い航路を艇長も慎重にセールを降ろしたカタマランを操縦する。港内は奥に数隻の漁船が停泊している。港内を回り停泊場所を探す。狭い場所にまあまあの係留場所を見つけ一晩の厄介になる事とする。早速メインをチェックフルバテンのリーチ側の留め具に異常が有りそこから抜けたようだ。応急処置として一番下のバテンを切って短くし抜けたポケットに入れて留め具を補強した。以後ワンポの状態でメインを展開する事になる。港には事務所も無く了解を得る手段も無いので取りあえず停泊、多分空港建設の為に造られた港なのだろう。日も暮れて少し波で揺れる中、普段通りの夜食を取り、酒を嗜んで床に就く。隣の飛行場に発着するジェットの音が聞こえるが耳を塞ぐ程ではない。
翌朝、食事を済ませて舫いを解き港を出る。東の雲の下に喜界島が平たく霞んでいる。琉球王朝時代は奄美大島よりこの島の方が江戸上りにも重要な島であった。
次第に海は治まって来た。吐噶喇列島を一気に通過し屋久島か種ケ島に向かう事とする。
航程130~160海里相変わらずエンジンは片肺であるが風向が良く機帆走で7~8knot以上。時にはエンジンを止める事も有る。多少潮に乗っているらしい。列島から東に離れた沖を通過する為に携帯が通じない。
規則的なワッチを繰り返しトラブルもなくカタマラン特有の揺れの中夜明けには屋久島を望む位置に来た、明るくなってルル君がトローリングロットを出す。小一時間ほどした所で大きな当たりが来た。ルル君が大きな声で叫び見ると大物の様子、艇速を落とし釣り上げるのを助ける、見事なキハダマグロが上がった、素早く締め艇長の相変わらずの包丁さばきで三枚に下ろし冷蔵庫に入れる。その後も種ケ島西之表港までの間でカツオ3尾、シイラ等を釣る。奄美で新しい包丁を購入した事が生きている。
種・屋久との間は丁度屋久島の風下となり穏やかな海面であった。左方向に話題の馬毛島その遠方に硫黄島がかすかに見え噴煙を望む事が出来た。日もすっかり上がり西之表港の一文字防波堤がはっきりと見える。一文字の途中に堤防の切れ目が有りそこから港に入った。旧港のある奥に艇を進める。
種ケ島漁港のセリ場のあるこじんまりとした漁港の奥に丁度いい岸壁が有りそこに舫う事にする。月も変わり12月1日午前接岸。ここは奈良時代から遣唐使船等も寄港する歴史のある港で「赤尾木港」と云う良港であった。私が初めて「マリリン」(ピーターソン33)で長距離のレース「沖縄~西宮」に参加し、その帰りに寄ったかすかな記憶が有った港だった。あれから40年近くもなろうか?
港は冬の風下で静かである。目の前にスタンドもホテルの銭湯もある。おまけに漁港にはセリ市場は朝8時から市が開き、私達はセリ落とした仲買人から目ぼしい魚と朝日蟹を買い付け豪華な食事となった。前線通過を待つ空いた一日はレンタカーを借りロケット発射場や島内観光を楽しんだ。帰ってくると28ftクラスのヨットが後ろに舫った。降りて来た3人の中に知人が二人も居た、ヨット界は狭い!一人は宜野湾マリーナの指定管理者の田畑氏でもう一人は回航屋の成田氏であった。成田氏は6月の千葉からの回航時に油津港で一時預かってもらった時にお世話になった方だった。オーナーも同乗していたが名前は失念している。明けて4日朝早く後ろのヨットはオーナーと田畑氏を残し回航屋さん成田氏一人で宜野湾に向かっていった。我々も買い出しと燃料補給を済ませ一路串本へと舫いを解いた。
今回の回航で最も長い航程である。ほぼ300海里2昼夜を要する。このコースは、黒潮の連潮だが冬季は波も悪くヨットに取って楽しくない条件である。案の定時化た波に叩かれ、奄美で補修したハッチからまだ漏れてくる。寝床の毛布が湿気てくる。豊後水道を横切り
土佐湾沖を通過し、遠くに室戸岬灯台を確認。深夜紀伊水道を横切る。夜間航海で尚、航路を横切る事は緊張を要する。大阪や瀬戸内に向かう本船や関西、瀬戸内から関東方面に向かう本船がまるで列車の如く連なっている様に赤と緑の航海灯が見える。潮岬灯台が視認出来てきた時、私とルルのワッチであった、オーパイで機帆走中であったがコースを変更する必要がありジブを巻き尚前方の視界を広げる必要もあり機帆走中ながらジブの巻取りにトラブルを起こし前方不注意となった。突然ルルが叫んだ、目の前の行き会い船とかなり接近した状況だった。エンジン音が聞こえる近さで左舷を通過していった。ルルの大声でワッチオフの皆が起きて来た。状況を説明し、艇長より必要な時はオールハンズでと注意を受けた。大いに反省!ワッチの大切さを改めて噛み締める事になる。岬と大島の間に架かる「くしもと大橋」をくぐる事になるが桁下の高さがググっても出てこない為、慎重に艇長の操船で進める。サーチライトで照らすと
21mとの表示が見えた。ゆっくりと通り抜けると前方に街の明かり、串本港に入港。
6日午前4時、接岸場所は以前係留した事も有るガソリンスタンドの傍である。落ち着いた所でしばしの休息を取る。ルル君の声で向かった所はカタマラン特有の双胴の船首の間のネットである。二昼夜の荒れた海での航海中のピッチングで波をすくったらしくネットの一部留金と船体を結んでいる紐が切れていたのである。夜間バウで作業する時足を踏み外さなくて良かったと思った。早速補修をした。日中、艇長は航海中気になった個所の点検とメンテ。突然「渡真利さん」の声、神奈川在住の知人で水中写真家の方が寄港を知り、用事のついでに訪問して来た。顔の広い方である。夕方からコインランドリーと銭湯と居酒屋で食事。
翌日7日朝食を済ませ給油し離岸、前日港外に「日本丸」と思われる練習帆船が錨泊していたが既に出航していた。曇天の寒い中を景勝地の「橋杭岩」を左に望み伊豆半島を目指すが、海象状況の悪化が予想され那智勝浦港に寄港する事とする。日没前太地湾北側の航路ブイに従い勝浦港に向かう日没、狭い航路を通過する時右舷側に有名なホテル浦島が輝いていた。友人から聞いていた奥の停泊地は一杯の様なので手前の小舟溜りに接岸一夜を明かす。
翌8日早朝波も治まり水路を抜けて取りあえず尺取虫宜しく一寸でも東へと帆を進める。
再び天候の悪化が予想され、志摩の五ケ所湾奥にある志摩ヨットハーバーに寄る事にする。洋上から友人に電話でその旨を連絡し営業時間外になるかも知れないがビジターで泊める事が出来るか聞いてもらった、OKが出たので8日夕刻ポンツーンの端の方に泊めさせてもらった。私にとって六ヵ月ぶりの二回目の寄港である。隣にあの「ヒンクリー」が停泊していた。その美しさに見とれてしまった。穏やかな夜を二晩過ごし10日7時一路横浜に向けて最後のレグ、凡そ230海里余の航程である。遠州灘を夜間通過し、御前崎、石廊崎、神子元島沖と深夜下田沖を通過し東京方面に向かう何隻かの本船に出会うが横切る針路ではないので追い越されたり、追い抜かれたりである。ここまでの間オーパイは機嫌が悪く時にはマニアルでラットを握るワッチの時もあった。大島を右手に見て相模湾を通過、東京湾に向かい浦賀水道に入る。夜明け城ケ島沖を通過し映画のモデルにも成ったと言う劒崎灯台を通過し久里浜沖、観音崎通過、横須賀沖の猿島を通過。横須賀は25年ほど前に石垣で台風時にマストを無くしたホテルのカタマランを3人でここ迄回航して以来の港である。11日午前10時30分横浜ベイサイドマリーナのゲストバースに接岸する。
既にパラオレースに参加するヨットが2艇着いていた。マリーナの近くに沖縄国体時に大変お世話になった貝道さんの会社が有りご無沙汰を詫びながら挨拶に行く。なんと今回のパラオレースの役員をされているし、神奈川セーリング連盟の役員としていまだ現役でした。
午後レースに同乗する伊藤氏が来艇等何人かの訪問を受けながら艇内の整理やレースの為の準備、掃除等々雑務をし、その夜渡真利艇長の友人達と川崎に居酒屋でそろって会食。
友人の方々は皆さん宮古でのダイビングを通じての古くからのお客様であった。
私はその後13日横浜の友人夫婦のレストラン「アルティザン」に行き楽しい食事の後、地下にあるオーセンテイックなバーで二次会、懐かしい那覇での模合の話などを語り合った。
回航中に改めて渡真利将博という海人の人物を知らされた。ヨットを通じての友人であるがダイビングのプロであり宮古島のこの業界の先駆者でもある。島の殆どのダイビングポイントの開発をし、同時にパラオのダイビング界にも一石を投じている。ヨットレースにおいてもダブルハンドレースやカタマランによるキングスカップ優勝等々を通じ洋上での様々なトラブルへの対応。長きにわたる多くの経験がこの回航にも発揮されていて我が身を知った。
11月26日から12月12迄の思い出深いおよそ1000海里のカタマラン「ミニー」の回航記録である。
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Posted by 鉄瓶・錆び鉄 at 12:00│Comments(0)
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