2018年06月11日
琉球の時代の遭難船をめぐる幾つかの話・Ⅲ
琉球王府時代の帆船について様々な文献、書籍、レポート、随筆等々をかき集め幾らかでも当時の帆走技術や航海術の情報を得ようとしていると、必ず漂流、遭難と云う情報に突き当たります。すると、今まで知らなかった歴史上の事柄にその遭難した人々やその人達が日本の歴史に果たした事実に「そんな事が有ったのか」と歴史の裏側に船とその乗組員の存在が大きくかかわっている事に驚かされます。一例は「ジョン万次郎」ですが、
たどり着いた古書「近世日本漂流編年史略史」川合彦充著昭和42年発行の中から琉球に関する事例を抽出してみた「日時は旧暦」。

1752年12月15日、陸奥亘理郡(宮城県亘理町)の14人が相馬村村上沖で遭難(宮城県相馬郡)翌正月15日琉球国久志間切り(沖縄県国頭村久志)に漂着6月薩摩山川港に帰る
1756年6月26日16人乗った琉球船が長崎五島に漂着、翌1月17日長崎奉行から薩摩の役人に引き渡された
琉球とは関係ないが珍しい漂流記録が有ります。
1765年11月5日常陸(茨木県)の6人乗った船が銚子沖で遭難12月17日安南(ベトナム)に漂着しその清国の船で1767年7月16日長崎に着く。【私見ですが単純に千葉県銚子沖からベトナム(場所不明)まで凡そ4千㎞ありその間を43日で漂流する事は1日90㎞以上に成りこれは時速約4㎞にもなり海のスピードで約2ノットにもなります。黒潮でも平均この位ですから不自然を感じますどこかで記録違いか?】もう一つ
同じ1765年11月4日陸奥(福島県)小名浜の6人乗りの船が出航して間もなく漂流翌年正月25日同じように安南(ベトナム)に漂着し、既に着いていた常陸の乗組員と共に1767年清国の船で長崎に帰った。【この場合漂流期間が82日と成り同様に算出すると1日約50㎞、時速2㎞程ゆっくり歩く程度ですので、有りそうな早さです。が!!太平洋の海流を考えると何とも不思議な流れです】
1775年琉球船鳥羽に漂着詳細不明
1795年31人乗った琉球から福建に渡った船が帰途に就く途中5月4日遭難漂流し5月26日土佐に漂着したが、言葉が通じなかったので筆談をした。
1810年6月琉球船五島列島奈良尾の漂着詳細不明
1817年6月26日琉球船五島列島玉の裏の漂着詳細不明
1819年閏4月17日琉球泉崎のマーラン船12人乗りが八重山から那覇に帰港途中遭難漂流し茨木県日立市に漂着
1819年7月23日9人乗った琉球船五島列島福江に漂着
1853年薩摩の船19人乗りの帆船が琉球からの帰途漂流し清国ソウメン府に漂着したが乍浦に移動そこには先に漂着していた摂津の漂流者12人が居た
内19人は翌1854年清国船で7月に長崎に着いた。残った漂流者詳細不明
1854年5月27日琉球船室戸に漂着詳細不明
1856年5月12日薩摩に向かっていた琉球の使者渡名喜親方らアメリカ漁船に救助され那覇に入港14日出航遭難場所救助場所不明

等々多くの船が遭難し漂流し島や陸地に漂着している記録が有るが、遭難し、どこにも漂着する事無く行方不明或いは沈没した船の方が、記録にある船以上と思います。この記録はいわゆる大和側の記録です、しかしこの様な記録は当時の清国時代彼の国に漂着した琉球船の数は1737年から1898年までで280隻にもなる事が「清代中国漂着琉球民間船の研究」にかかれています。
進貢船の果たした交易の記録は多くの書物に数多く残っていますが、その中から名も知れないそして最も大事なその船を操っていた船員乗組員の僅かな記録から当時の船の様子や航海術操船艤装等々の記述を拾い出していこうと思っています。
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たどり着いた古書「近世日本漂流編年史略史」川合彦充著昭和42年発行の中から琉球に関する事例を抽出してみた「日時は旧暦」。

1752年12月15日、陸奥亘理郡(宮城県亘理町)の14人が相馬村村上沖で遭難(宮城県相馬郡)翌正月15日琉球国久志間切り(沖縄県国頭村久志)に漂着6月薩摩山川港に帰る
1756年6月26日16人乗った琉球船が長崎五島に漂着、翌1月17日長崎奉行から薩摩の役人に引き渡された
琉球とは関係ないが珍しい漂流記録が有ります。
1765年11月5日常陸(茨木県)の6人乗った船が銚子沖で遭難12月17日安南(ベトナム)に漂着しその清国の船で1767年7月16日長崎に着く。【私見ですが単純に千葉県銚子沖からベトナム(場所不明)まで凡そ4千㎞ありその間を43日で漂流する事は1日90㎞以上に成りこれは時速約4㎞にもなり海のスピードで約2ノットにもなります。黒潮でも平均この位ですから不自然を感じますどこかで記録違いか?】もう一つ
同じ1765年11月4日陸奥(福島県)小名浜の6人乗りの船が出航して間もなく漂流翌年正月25日同じように安南(ベトナム)に漂着し、既に着いていた常陸の乗組員と共に1767年清国の船で長崎に帰った。【この場合漂流期間が82日と成り同様に算出すると1日約50㎞、時速2㎞程ゆっくり歩く程度ですので、有りそうな早さです。が!!太平洋の海流を考えると何とも不思議な流れです】
1775年琉球船鳥羽に漂着詳細不明
1795年31人乗った琉球から福建に渡った船が帰途に就く途中5月4日遭難漂流し5月26日土佐に漂着したが、言葉が通じなかったので筆談をした。
1810年6月琉球船五島列島奈良尾の漂着詳細不明
1817年6月26日琉球船五島列島玉の裏の漂着詳細不明
1819年閏4月17日琉球泉崎のマーラン船12人乗りが八重山から那覇に帰港途中遭難漂流し茨木県日立市に漂着
1819年7月23日9人乗った琉球船五島列島福江に漂着
1853年薩摩の船19人乗りの帆船が琉球からの帰途漂流し清国ソウメン府に漂着したが乍浦に移動そこには先に漂着していた摂津の漂流者12人が居た
内19人は翌1854年清国船で7月に長崎に着いた。残った漂流者詳細不明
1854年5月27日琉球船室戸に漂着詳細不明
1856年5月12日薩摩に向かっていた琉球の使者渡名喜親方らアメリカ漁船に救助され那覇に入港14日出航遭難場所救助場所不明

等々多くの船が遭難し漂流し島や陸地に漂着している記録が有るが、遭難し、どこにも漂着する事無く行方不明或いは沈没した船の方が、記録にある船以上と思います。この記録はいわゆる大和側の記録です、しかしこの様な記録は当時の清国時代彼の国に漂着した琉球船の数は1737年から1898年までで280隻にもなる事が「清代中国漂着琉球民間船の研究」にかかれています。
進貢船の果たした交易の記録は多くの書物に数多く残っていますが、その中から名も知れないそして最も大事なその船を操っていた船員乗組員の僅かな記録から当時の船の様子や航海術操船艤装等々の記述を拾い出していこうと思っています。
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Posted by 鉄瓶・錆び鉄 at 17:20│Comments(0)
│ヨットと帆船と私