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2018年06月13日

琉球の時代の遭難船をめぐる幾つかの話・Ⅳ奇談

琉球の時代の遭難船をめぐる幾つかの話・奇談
たどり着いた古書「近世日本漂流編年史略史」川合彦充著昭和42年発行の中から琉球に関する事例を抽出している中から思わぬ記述が見えた!
ヨットの漂流記に「大西洋漂流72日間」「Adrift」スティーブン・キャラハン著があるが、それ以上に漂流した記録がある。
1728年11月8日、薩摩の若潮丸17人乗りが米・紙・木綿・生糸を積んで大阪へ向かう途中遭難し漂流六か月余の翌年1729年6月7日にカムチャッカ半島のロバトカ岬に漂着17人の内15人がロシアの下士官兵に殺され残りの二人は1731年にヤクーツクに送られ1734年ペテルブルグに着き、アンナ女帝に引見、1734年洗礼を受け一人は神学校に入学、後に日本語教授となり、1736年と1739年それぞれ死亡。
1774年11月30日、陸奥折ノ浜の十兵衛船・最吉丸14人乗りが常陸沖で遭難漂流、翌1775年4月16日、広東省潮洲府に漂着一人病死し残りの13人は清国船で1776年帰国。
琉球の時代の遭難船をめぐる幾つかの話・Ⅳ奇談


この様に三か月以上の漂流記録が多く記録されています、
中でも漂流の末救助され日本に帰国し外国との交渉を果たした人物で有名なのは「ジョン万次郎」の漂流記と思いますが、ここにもう一つ「にっぽん音吉」漂流記が有ります。
1832年10月11日、尾張の回船「宝順丸」14人乗りが江戸に向かって航海中、遠州灘で遭難漂流中11人が死亡。岩吉・久吉・音吉の三名が1833年末頃北アメリカフラッタリ岬付近に漂着原住民のインディアンに使役されていたがハドソン湾会社の「ラマ号」の船長に救助されイギリス軍艦「イーグル号」でハワイ経由ロンドンそしてマカオに送られる。当時音吉19歳。そこには肥後の国漂流者「庄蔵」ら4人も連れてこられていた。彼らと合流し7人はアメリカ商船「モリソン号」で日本に送還されたが、1937年7月浦賀沖で砲撃に遭い上陸できず再びマカオ、香港、上海などに住んだ、音吉は日本人漂流者の世話や通訳として外国船で日本に来航したりしたが帰国する事無く外地で一生を終えた。ここで奇しくも合流する事に成った「庄蔵」は1835年11月1日肥後国川尻の4人乗りの船【漁船?】で天草沖から遭難漂流し12月上旬フィリピン・ルソン島に漂着マニラから1837年にマカオに送られた漂流者だった。【詳細は春名徹著「にっぽん音吉漂流記」】
琉球の時代の遭難船をめぐる幾つかの話・Ⅳ奇談


これ等の長期漂流の原因は気象に対する情報量の少なさに加えて、当時の大和舟は十分水深の無い河口近くに港を造ったので干満にたいする対策で舵が取り外ししやすいように造られていました。ディンギーのラダーの様に。
もう一つの船舶としての設計思想が内海や河川を行き来する平底型の船型に有ったとされています。この様な帆船ですので、嵐になるとまず帆柱を切断し波の向くまま風の向くまま流される事が船と積荷を守る事でした。場合によっては船体を軽くするために積荷を捨て、祈祷したり髪を切ったりまさしく神頼みの漂流なのです。又、大和船はいわゆる帆掛け船的艤装で主に追い風帆走するタイプなので強い横風や向かい風では何ともできませんでした。嵐がおさまり運よく陸地に近い場合は乗せていた伝馬船で救助を仰ぎに陸に向かう事の様でした。長期に漂流した船の記録の中には積んでいた米を炊き、運良く獲れる魚もあった様ですが釜土に使う薪が無くなると船の一部を薪に使う事もあった。船体は意外と頑丈で記録の中には清国に漂着後自力で補修し自らの船で帰国した記録も有ります。
何れにしても、この記録は救助されたからこそ記録された遭難漂流の記録です。この何倍もの船が遭難、漂流、行方知れずになった事でしょうか。
次回は琉球の歴史書にかかれている同様の記録を抽出した書物から見てみたいと思っています。同時に明国から譲り受けた最初の大型帆船ジャンク型が大和船に比して対候性や帆走性能が優れていたかも多少検証できると思ます。



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Posted by 鉄瓶・錆び鉄 at 07:00│Comments(0)ヨットと帆船と私
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