2018年07月06日
近代の遭難船をめぐる特異な話
台風8号は久々に台風らしい規模で沖縄に近づいてきそうです。
「琉球の時代の遭難船」の記録を探していると本棚にいいつの間にか
「海と舟と人の博物史百貨」佐藤快和著が並んでいたので何気なく開いていると
「日本人漂流記」川合彦充著の中に記されている船の事が詳細に書かれているのを
見つけその話に幾らかの感動を覚えここにその内容を記します。
昭和11年、アメリカ西海岸フラッタリー岬の沖合で原流している小舟が発見された。
アメリカの貨物船マーガレット・ダラーの船艮は、異様な船の調査を命じたところ、
船内には12人の乗組員の白骨叱した遺体やミイラ化した遺体が発見され
世界中にセンセーショナルなニュースとしてとして流された。
折からリアメリカでは排日思想が盛んで、これをもとに「日本の人食い船」
と悪意に満ちた報道がなされたのである。
この良栄丸は和歌山県の18トンのマグロ漁船で大正15年12月5日神奈川県三崎港
から銚子沖に向かい予定であった。海が荒れていたので一旦銚子港に入った。
正月に向けて高値を呼ぶマグロを長居する事でチャンスを失いたくない船長は
荒れた海に出たが大陸には強力な高気圧が居座り強い西風が吹き込んでいた
この季節特有の「大西」である。
江戸時代の海難・漂流はこの大西風に吹き流された事による事が大半である。
絶間なく吹き続ける北西季節風は15~20メートルの強い風で良栄丸は太平洋へ
押し流され、もはやどんなに頑張っても陸に戻れなくなっていたのである.
そのうち頼みのエンジンも故障し救助船が現れるのを待つだけの厳しい状況に
置かれてしまい、やがて西風に加え、黒潮の流れも加担し、船は広い太平洋の
真ん中へ漂い始めたのだ。食料は米四俵・芋五百匁・水約百貫・捕ったマグロ
が二百貫あり、節約すれば4か月はもつと考えていたが、
予定より早く食料はなくなり、遂に1人、2人と倒れ大正から昭和に年号が
変わった11か月後に無残な状態で発見されたのだった。

乗組員のひとりは、克明に航海日誌をつけていた。それによれば、希望の中。
互いに励ましあい協力しながら生活していたことか分かり、家族に宛てた
遺書まで見つかったのである。
乗組員全員の遺書は、長さ90センチメートルの杉板に書かれていた。
「船長三鬼登喜造、機関長・・・以下12名の名前が書かれ右12名大正15年5日
神奈川県三崎港発営業中機関クランク部破れ、食料白米一石六斗にて
今日まで命を保ち汽船出会わず、何の勇気もなくここに死を決す。
大正16年新3月6日」と書かれていた。
大正改まって昭和に改元されたことも、もちろん知らなかったのだ。
「3月5日には魚を釣り鳥を捕まえて食料としたが、朝食から食料か欠乏してきた」
「3月9日機関長か病気で死亡し、この後死亡者が続出し、4月19日には
船長と2人だけとなる」 「5月11日北西の凰、舶は帆を上げたげたまま南南西のほうへ
どんどん走っている」。これが航海日誌の最後の文章である。
船長の家族宛の遺書も悲痛だ、「長男、長女にそれぞれ。一行ずつ書いた後、
妻には、2人の子供を頼む、必ず漁師にはさせないでくれ
自分の好きなのは素麺と餅だった」とあった。
これを見て、船内で殺しあった末の人食い船などと報道したアメリカ側も、すっかり誤解を解いたという。
良栄丸の漂流は、日本近海の西風と海流を説明する際には必ず引さ合いに出される有名な海難の話です。
尚 映像はイメージです
「琉球の時代の遭難船」の記録を探していると本棚にいいつの間にか
「海と舟と人の博物史百貨」佐藤快和著が並んでいたので何気なく開いていると
「日本人漂流記」川合彦充著の中に記されている船の事が詳細に書かれているのを
見つけその話に幾らかの感動を覚えここにその内容を記します。
昭和11年、アメリカ西海岸フラッタリー岬の沖合で原流している小舟が発見された。
アメリカの貨物船マーガレット・ダラーの船艮は、異様な船の調査を命じたところ、
船内には12人の乗組員の白骨叱した遺体やミイラ化した遺体が発見され
世界中にセンセーショナルなニュースとしてとして流された。
折からリアメリカでは排日思想が盛んで、これをもとに「日本の人食い船」
と悪意に満ちた報道がなされたのである。
この良栄丸は和歌山県の18トンのマグロ漁船で大正15年12月5日神奈川県三崎港
から銚子沖に向かい予定であった。海が荒れていたので一旦銚子港に入った。
正月に向けて高値を呼ぶマグロを長居する事でチャンスを失いたくない船長は
荒れた海に出たが大陸には強力な高気圧が居座り強い西風が吹き込んでいた
この季節特有の「大西」である。
江戸時代の海難・漂流はこの大西風に吹き流された事による事が大半である。
絶間なく吹き続ける北西季節風は15~20メートルの強い風で良栄丸は太平洋へ
押し流され、もはやどんなに頑張っても陸に戻れなくなっていたのである.
そのうち頼みのエンジンも故障し救助船が現れるのを待つだけの厳しい状況に
置かれてしまい、やがて西風に加え、黒潮の流れも加担し、船は広い太平洋の
真ん中へ漂い始めたのだ。食料は米四俵・芋五百匁・水約百貫・捕ったマグロ
が二百貫あり、節約すれば4か月はもつと考えていたが、
予定より早く食料はなくなり、遂に1人、2人と倒れ大正から昭和に年号が
変わった11か月後に無残な状態で発見されたのだった。

乗組員のひとりは、克明に航海日誌をつけていた。それによれば、希望の中。
互いに励ましあい協力しながら生活していたことか分かり、家族に宛てた
遺書まで見つかったのである。
乗組員全員の遺書は、長さ90センチメートルの杉板に書かれていた。
「船長三鬼登喜造、機関長・・・以下12名の名前が書かれ右12名大正15年5日
神奈川県三崎港発営業中機関クランク部破れ、食料白米一石六斗にて
今日まで命を保ち汽船出会わず、何の勇気もなくここに死を決す。
大正16年新3月6日」と書かれていた。
大正改まって昭和に改元されたことも、もちろん知らなかったのだ。
「3月5日には魚を釣り鳥を捕まえて食料としたが、朝食から食料か欠乏してきた」
「3月9日機関長か病気で死亡し、この後死亡者が続出し、4月19日には
船長と2人だけとなる」 「5月11日北西の凰、舶は帆を上げたげたまま南南西のほうへ
どんどん走っている」。これが航海日誌の最後の文章である。
船長の家族宛の遺書も悲痛だ、「長男、長女にそれぞれ。一行ずつ書いた後、
妻には、2人の子供を頼む、必ず漁師にはさせないでくれ
自分の好きなのは素麺と餅だった」とあった。
これを見て、船内で殺しあった末の人食い船などと報道したアメリカ側も、すっかり誤解を解いたという。
良栄丸の漂流は、日本近海の西風と海流を説明する際には必ず引さ合いに出される有名な海難の話です。
尚 映像はイメージです
http://r.gnavi.co.jp/f472900/
http://twitter.com/mamaya185
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Posted by 鉄瓶・錆び鉄 at 14:00│Comments(0)
│ヨットと帆船と私