2016年06月11日
話題の「アグー」豚の話
何年か前のブログの再掲載です
さて、つづきです。
・・・・1904年には、産肉性を上げるために、黒色で顔の先と足先が白い六白のパークシャー(豚の品種)、白色のヨークシャー等が他県から導入されたが、
白色のヨークシャーは好まれなかった。
パークシャーは黒い外見から受け入れられ、発育が早く大きかったので、
在来の豚との雑種が広まりそれまでの品種は20年ほどでほとんど雑種化した。
雑種化した豚は「島豚」と呼ばれ戦前まで沖縄養豚の主流となる。・・・・・・・・
沖縄の豚の飼育は、屋敷内で1頭から数頭を飼育する形式でであった。
那覇市内でも大正の初期まで屋敷内で豚を飼うことが普通で、
沖縄戦の直前まで飼っていた家もあった。明治時代の遊郭では見習いの少女の最初の仕事は
ブタの餌の芋皮を集める事だったという。
首里近辺に多くあった泡盛の醸造所では酒粕で200~300頭のブタを育て、
本業以上の収益を上げたともいう。
このころの一般的な家庭の日常食はイモ、雑穀、魚であり豚肉は日常食というより
行事食と言う色合いが濃かった。正月前に豚をつぶし、一軒から数軒が単位となって、
正月のごちそうと数ヶ月間の食料とし、ラードは抽出されて甕に保存され、
日々の調理に用いられた。このような習慣が、豚のすべてを食べる食文化に繋がった
と考えられる当時は豚を食べることはアンダ(脂)を食べることを意味し、
重要な油脂の供給源であった。・・・・
まだ続きます。
さて、つづきです。
・・・・1904年には、産肉性を上げるために、黒色で顔の先と足先が白い六白のパークシャー(豚の品種)、白色のヨークシャー等が他県から導入されたが、
白色のヨークシャーは好まれなかった。
パークシャーは黒い外見から受け入れられ、発育が早く大きかったので、
在来の豚との雑種が広まりそれまでの品種は20年ほどでほとんど雑種化した。
雑種化した豚は「島豚」と呼ばれ戦前まで沖縄養豚の主流となる。・・・・・・・・
沖縄の豚の飼育は、屋敷内で1頭から数頭を飼育する形式でであった。
那覇市内でも大正の初期まで屋敷内で豚を飼うことが普通で、
沖縄戦の直前まで飼っていた家もあった。明治時代の遊郭では見習いの少女の最初の仕事は
ブタの餌の芋皮を集める事だったという。
首里近辺に多くあった泡盛の醸造所では酒粕で200~300頭のブタを育て、
本業以上の収益を上げたともいう。
このころの一般的な家庭の日常食はイモ、雑穀、魚であり豚肉は日常食というより
行事食と言う色合いが濃かった。正月前に豚をつぶし、一軒から数軒が単位となって、
正月のごちそうと数ヶ月間の食料とし、ラードは抽出されて甕に保存され、
日々の調理に用いられた。このような習慣が、豚のすべてを食べる食文化に繋がった
と考えられる当時は豚を食べることはアンダ(脂)を食べることを意味し、
重要な油脂の供給源であった。・・・・
まだ続きます。
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Posted by 鉄瓶・錆び鉄 at 14:07│Comments(0)
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