2013年01月24日
冊封琉球使録の中から読み解く「封舟」の能力その二
大変お待たせしました。久しぶりの投稿ですが、この間スキャナー壊れたり、年末で多忙だったり、確定申告や年末調整等野暮用があり中々ブログに取り掛かる事ができませんでした。
さて、琉球から福建まであるいはその逆も含め、どの様な航路で、どんな大きさの船で何人が操船していたのか、どの様な航海計器を用いていたのか、乗っているのは何処の国の人なのか等々色々な疑問が次から次に湧いてきますが、私なりに様々な歴史書や古文書の現代訳等を探したり、図書館でコピーさせていただいたりしてその疑問を解決すべく調べました。専門家からみるとその様なことは既に承知な事かも知れませんが此処に知る限りの情報を記します。
まず使われた「船」はほとんどが清国福建で建造されたことがあります。


徐葆光の「中山傳信録」によると船長十条~十二条(当時の一条は3.2m)とされていますので
凡そ32m~37m・弦までの高さ1.5条(約5m)・潜幅2・8条(8.9m)の船が使われたと記されています。明の時代にはもう少し大きな船が使われたようです。大きな船では長さ20条にも成ったとされてますので60m以上にもなります。
では何人乗っていたのか
いわゆる船員私たちはクルーと言いますがスキッパー以下22名
スキッパー・船戸(ふなおさ)・正副夥長(かちょう)ナビゲーター・正副蛇工(舵担当)・正副椗(アンカー担当)・正副鴉班(メインセール担当)・正副杉板「さんばん」(テンダー担当)・正副繚手「りょうしゅ」船尾の帆担当・正副値庫「ちこ」(積載物担当)・押工(修理係)・香公(天姫等神様担当)
頭阡「とうせん」(ひき綱係)・二阡・三阡・正副総餔(鍋、飯係)
と云うような職名があったようです。しかし時化てくると皆が協力し船体の維持に力を尽くしたことは想像出来ることです。
更に明や清の役人や兵士が加わり総勢百数十人から船の大きさにも依りますが二百人もの人員が乗ったとされています。
次に航路ですが以下の様な航路図があります。細かなことは次回注釈いたしますが、大陸から見た図ですから見にくいと思いますので今の地図の様に見るなら左右を(東西を)反転して見て下さい。


この2枚の航路図は微妙に違いがありますが、大凡の航路は想像がつきます。
明・清の時代に航路図右側の福州の閩港から今で云う夏至南風(カーチベー)に乗って出航しました写真は今の福州・閩港です、中央に曲がりくねった川が見えます。

記録による最も早い場合は6日以内に航路図左の此処琉球に到着しています。しかし、途中低気圧にあったり大時化に遭い遭難や漂流、沈没もありましたので、進貢船は1隻ではなく複数の船で航海したのです。
この航海の途中に今話題の尖閣諸島が目標にする島として記録されています。
また次回に・・・・
PS・グーグルアースで此の航路図を追いかけると面白いですよ
ここで一つエピソード
これらの進貢船はご承知のように琉球の王様が代替わりした時、明・清の王より承認を伝える事が主な任務です。当時は普通に琉球と福州の間に交易があり琉球との航海に慣れた船員が多くいたことから
多くの場合これら琉球の船員がその操船とナビゲーションを担っていた事実があります。
面白いことに座間味島出身が多く居た事も記録にあります。
さて、琉球から福建まであるいはその逆も含め、どの様な航路で、どんな大きさの船で何人が操船していたのか、どの様な航海計器を用いていたのか、乗っているのは何処の国の人なのか等々色々な疑問が次から次に湧いてきますが、私なりに様々な歴史書や古文書の現代訳等を探したり、図書館でコピーさせていただいたりしてその疑問を解決すべく調べました。専門家からみるとその様なことは既に承知な事かも知れませんが此処に知る限りの情報を記します。
まず使われた「船」はほとんどが清国福建で建造されたことがあります。


徐葆光の「中山傳信録」によると船長十条~十二条(当時の一条は3.2m)とされていますので
凡そ32m~37m・弦までの高さ1.5条(約5m)・潜幅2・8条(8.9m)の船が使われたと記されています。明の時代にはもう少し大きな船が使われたようです。大きな船では長さ20条にも成ったとされてますので60m以上にもなります。
では何人乗っていたのか
いわゆる船員私たちはクルーと言いますがスキッパー以下22名
スキッパー・船戸(ふなおさ)・正副夥長(かちょう)ナビゲーター・正副蛇工(舵担当)・正副椗(アンカー担当)・正副鴉班(メインセール担当)・正副杉板「さんばん」(テンダー担当)・正副繚手「りょうしゅ」船尾の帆担当・正副値庫「ちこ」(積載物担当)・押工(修理係)・香公(天姫等神様担当)
頭阡「とうせん」(ひき綱係)・二阡・三阡・正副総餔(鍋、飯係)
と云うような職名があったようです。しかし時化てくると皆が協力し船体の維持に力を尽くしたことは想像出来ることです。
更に明や清の役人や兵士が加わり総勢百数十人から船の大きさにも依りますが二百人もの人員が乗ったとされています。
次に航路ですが以下の様な航路図があります。細かなことは次回注釈いたしますが、大陸から見た図ですから見にくいと思いますので今の地図の様に見るなら左右を(東西を)反転して見て下さい。


この2枚の航路図は微妙に違いがありますが、大凡の航路は想像がつきます。
明・清の時代に航路図右側の福州の閩港から今で云う夏至南風(カーチベー)に乗って出航しました写真は今の福州・閩港です、中央に曲がりくねった川が見えます。

記録による最も早い場合は6日以内に航路図左の此処琉球に到着しています。しかし、途中低気圧にあったり大時化に遭い遭難や漂流、沈没もありましたので、進貢船は1隻ではなく複数の船で航海したのです。
この航海の途中に今話題の尖閣諸島が目標にする島として記録されています。
また次回に・・・・
PS・グーグルアースで此の航路図を追いかけると面白いですよ
ここで一つエピソード
これらの進貢船はご承知のように琉球の王様が代替わりした時、明・清の王より承認を伝える事が主な任務です。当時は普通に琉球と福州の間に交易があり琉球との航海に慣れた船員が多くいたことから
多くの場合これら琉球の船員がその操船とナビゲーションを担っていた事実があります。
面白いことに座間味島出身が多く居た事も記録にあります。
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Posted by 鉄瓶・錆び鉄 at 14:23│Comments(0)
│ヨットと帆船と私