2016年02月14日
戦前の那覇の市場の様子
戦前の那覇の市場の様子を読むと、今の牧志公設市場とあまり変わらない様子が
見えてきます。
昭和のはじめ、那覇人の食生活を一手に引き受けている
東市場は、たいそうなにぎわいである。
売り手のほとんどが女性で、昔ながらのうちなーからじ
(長い髪で髷を結い、じーふぁーとよばれるカンザシをさした髪形)
に、うしんちー(ついたけの着物を帯を使わずに、左襟の下端を袴風
の肌着の紐に押しこんで固定する)姿で商いをしている。
魚は遠く糸満や垣花から、野菜は近郊農村から女の足で
運びこまれ、仲買人の手を経て、市場で売買される。
佃煮や漬物、乾物類等、内地からの移入食品も多く出回っていて
目新しい食品としては、寿司やジャムパンも手に入る。
台湾や中国、東南アジアからの輸入品である米や茶も
食生活になくてはならないものである。

那覇の土地柄
13世紀の頃までは大小幾つかの島からなる地域で、
「浮島」と呼ばれていた。その後、首里王府が海外交易を
盛んに行なうにつれて、対外関係の窓口として港や交通が
整備され、干潟や浅瀬が埋め立てられて、商業の町、那覇
が形成された。
那覇四町といわれ、東、西、泉崎、若狭町からなる。
東と西は那覇市役所や沖縄県庁が置かれ、政治の中心地
である。西と東の境界地点にある西本町は、米穀、肥料、
呉服、漆器などを扱っている寄留商人による大きな店が
軒をつらね、旅館や銀行などの集中する繁華街である。
東市場は庶民の市場としてにぎわっている。道を隔てて
東西に分かれ、東側は肉市場、魚市場、壷屋市場(壷屋産
の食器類を売る)、米市場、砂糖市場、鶏市場などが並び、
西側には野菜市場、芋市場、豆腐市場、ちんし市場(祝
儀、不祝儀のときの品がそろっている)などがある。
市場は盆と正月以外は休みなしで、朝八時ごろから、
日が暮れると、松明を灯して9時ごろまで商いが行われていた。
市場が最高潮に達するのは夕方4時頃である。
売り手も買い手もほとんど女性であるが、売り手は男勝りの
女性が多く、買い手も少しでも安くて良いものをと懸命なので
ときに品物や値段をめぐって両者間で舌戦がくり広げられる。
泉崎は石垣をめぐらした屋敷が続く住宅街である。ここ
では野菜売りや魚売りが、ばーき(ざる)を頭にのせて
家々を回って歩く。売り歩くのは農村や漁村からやって来
る女たちである。薪売りも定期的に馬車で回ってくるので
一馬車分まとめて買って、かまどの上に積んでおく。
薪を山と積んでおくのが主婦の自慢でもある。
日常生活に必要なものをほとんど市場で買っている那覇
の暮ちしであるが、屋敷内の裏手にあたい(野菜畑)を持
っている家も多い。
初夏から夏にかけてはごーやーや、なーべーらー(へちま)
を値えて、隣り近所で今年の出来を話題にする。
「聞き書き・沖縄の食事」尚 弘子 編纂 より
この市場の平面図の右下に黒くなっている所が「旭橋」ですが
ほぼ今の位置と同じ所の様です。中に軽便鉄道通堂引込線と
書かれていますが、平面右側の久茂地川を渡ると「那覇駅」
に着きます。そこは今のバスセンターです。
それにしても「ガジュマル」の木に囲まれた市場は良い景色だった事でしょう
見えてきます。
那覇人の食を支える市場
琉球王府時代から、那覇は商人の町として栄えてきた。昭和のはじめ、那覇人の食生活を一手に引き受けている
東市場は、たいそうなにぎわいである。
売り手のほとんどが女性で、昔ながらのうちなーからじ
(長い髪で髷を結い、じーふぁーとよばれるカンザシをさした髪形)
に、うしんちー(ついたけの着物を帯を使わずに、左襟の下端を袴風
の肌着の紐に押しこんで固定する)姿で商いをしている。
魚は遠く糸満や垣花から、野菜は近郊農村から女の足で
運びこまれ、仲買人の手を経て、市場で売買される。
佃煮や漬物、乾物類等、内地からの移入食品も多く出回っていて
目新しい食品としては、寿司やジャムパンも手に入る。
台湾や中国、東南アジアからの輸入品である米や茶も
食生活になくてはならないものである。
那覇市場(な-ふあぬまち)見取図
昭和15,16年ころ

那覇の土地柄
13世紀の頃までは大小幾つかの島からなる地域で、
「浮島」と呼ばれていた。その後、首里王府が海外交易を
盛んに行なうにつれて、対外関係の窓口として港や交通が
整備され、干潟や浅瀬が埋め立てられて、商業の町、那覇
が形成された。
那覇四町といわれ、東、西、泉崎、若狭町からなる。
東と西は那覇市役所や沖縄県庁が置かれ、政治の中心地
である。西と東の境界地点にある西本町は、米穀、肥料、
呉服、漆器などを扱っている寄留商人による大きな店が
軒をつらね、旅館や銀行などの集中する繁華街である。
東市場は庶民の市場としてにぎわっている。道を隔てて
東西に分かれ、東側は肉市場、魚市場、壷屋市場(壷屋産
の食器類を売る)、米市場、砂糖市場、鶏市場などが並び、
西側には野菜市場、芋市場、豆腐市場、ちんし市場(祝
儀、不祝儀のときの品がそろっている)などがある。
市場は盆と正月以外は休みなしで、朝八時ごろから、
日が暮れると、松明を灯して9時ごろまで商いが行われていた。
市場が最高潮に達するのは夕方4時頃である。
売り手も買い手もほとんど女性であるが、売り手は男勝りの
女性が多く、買い手も少しでも安くて良いものをと懸命なので
ときに品物や値段をめぐって両者間で舌戦がくり広げられる。
泉崎は石垣をめぐらした屋敷が続く住宅街である。ここ
では野菜売りや魚売りが、ばーき(ざる)を頭にのせて
家々を回って歩く。売り歩くのは農村や漁村からやって来
る女たちである。薪売りも定期的に馬車で回ってくるので
一馬車分まとめて買って、かまどの上に積んでおく。
薪を山と積んでおくのが主婦の自慢でもある。
日常生活に必要なものをほとんど市場で買っている那覇
の暮ちしであるが、屋敷内の裏手にあたい(野菜畑)を持
っている家も多い。
初夏から夏にかけてはごーやーや、なーべーらー(へちま)
を値えて、隣り近所で今年の出来を話題にする。
「聞き書き・沖縄の食事」尚 弘子 編纂 より
この市場の平面図の右下に黒くなっている所が「旭橋」ですが
ほぼ今の位置と同じ所の様です。中に軽便鉄道通堂引込線と
書かれていますが、平面右側の久茂地川を渡ると「那覇駅」
に着きます。そこは今のバスセンターです。
それにしても「ガジュマル」の木に囲まれた市場は良い景色だった事でしょう
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Posted by 鉄瓶・錆び鉄 at 14:23│Comments(0)
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